陸軍四式重爆撃機「飛龍」(三菱・キー67-I) 7/31/2001
Mitsubishi Army Type 4 Heavy Bomber "Hiryu"(Ki-67-I)
連合軍名称"Peggy"
全幅22.50m 全長18.70m 総重量13.70ton エンジン1900馬力2基 最高速度537km/h 武装12.7mm x4 20mmx1 航続距離 3800km 写真は飛行第14戦隊(所沢基地)の飛龍、1945年8月(私が終戦直前に見た機を想定、尾翼のマークは4戦隊だが...。背景はカリフォルニア州チノ飛行場)
九七重爆の後継機中島「呑龍」の試作第一号が完成した1939年、陸軍はついで爆撃機としては 三代目にあたる重爆撃機キー67の研究内示を三菱重工に対して出した。 時あたかも中日戦争の最中でもあり、また対ソ連戦を意識していたため、「重爆」といっても本機の仕様は戦術用中型爆撃機であった。
試作一号機は予定より遅れて1942年末に完成、試験飛行の結果はきわめて良好、操縦性能は戦闘機なみといわれた。 量産機は1944年から配備され、三菱名古屋、同熊本、川崎航空機で終戦までに697機が生産された。
本機の性能は、当時すでに下降気味だった日本軍用機の中ではずば抜けてすぐれ、列強の同型機と比べても遜色なく、本来の爆撃の目的以外にも、雷撃、防空戦闘などの派生型が生まれ、とくに雷撃機として台湾沖航空戦、硫黄島防御戦、比島、沖縄戦で劣勢ながら善戦した。
その敏捷な行動性を利用した雷撃装備の飛龍は、海軍の指揮下に入り、T 部隊 と称して台風のさなかに敵機動部隊を襲撃するという想定のもと訓練を重ね、10月12日の台湾沖に始まり、5回にわたって機動部隊攻撃に参加した。 10月14日夜16機の飛龍は夕刻石垣島南東海面で敵に魚雷攻撃を加え、巡洋艦ヒューストンIIはじめ、この敵艦隊に大きな損害を与えたが、残念ながら沈没した敵艦はなかった。 このとき沖縄の基地に無事帰った飛龍はただの1機だったという。

1944年11月24日、マリアナ基地のB29は、それまでの入念な偵察飛行、それに続くニ、三機による小規模な空襲とは違って、88機を繰り出して三鷹の中島飛行機武蔵工場に本格的な攻撃を加えた。 11回に及ぶ同工場への集中攻撃の始まりである。
その三日後浜松基地の飛龍3機は、サイパン島の米73飛行団に反撃を加えた。 飛龍は当時の日本の爆撃機では3800キロと最も航続力があったが、それでも硫黄島で給油し、往復飛行が可能となった。 これは夜間の奇襲となり、12機のB29を破壊、12月6日にも8機の飛龍がグアム島の米基地を空襲、26機に損害を与えた。 このとき当方は11機の飛龍のうち6機が犠牲となったが、敵に一矢をむくいるという意味で、国民の戦意の高揚に役立ったことは間違いない。右は超低空で夜間奇襲する飛龍の活躍を想像したものである。

この5日の後、比島戦線ではじめての特攻隊が出発した。 海軍大尉関行男指揮する敷島、大和、朝日、山桜各隊の爆装ゼロ戦13機である。 このあと2000機を超える特攻が続く。
陸軍でも1945年2月飛龍5機で編成する特攻富嶽隊が沖縄戦で空母攻撃を行ったが、通信途絶のため、戦果は不詳であった。 これらの飛龍特攻機は、爆薬1トンを胴体に装備し、機種に信管を設置したものであった。
機動部隊攻撃のため発進準備の飛龍 (全機同一模型)
飛龍はその優れた性能のゆえに、本土決戦に備えて約半数が温存されたため、目覚しい活躍の場も与えられずに、その生涯を閉じた。

我が家は終戦の5日前に、B29 の盲爆によって破壊されたが、その数日前、カン高いエンジン音に急いで私の防空監視所である 屋根への梯子をかけ上ると、1機の双発機が快速で荒川の上空を西へ低く飛ぶのが見えた。 茶緑の迷彩と日の丸が夏の日にまぶしく鮮やかだった。 これが私の唯一の飛龍との出会いである。
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写真の飛龍はすべて LS 社製(日本)72分の1模型。
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