日本の都市を焼き尽くせ
無差別焼夷弾攻撃
1944年11月1日の偵察飛行に始まった、マリアナ基地からのB29による日本本土空襲は、三鷹の中島飛行機工場など、生産、軍事施設への高高度精密爆撃に始まった。
しかし、日本の防空戦闘機、高射砲による損害が大きい反面、効果に疑問があり、アメリカ軍上層部は、精密爆撃に固執する指揮官ハンセル准将を更迭、ドイツ各都市の無差別爆撃に実績のあるルメイ少将を任命、「木と紙でできた」日本の家屋を焼き払い、町工場で成り立つ日本の産業を壊滅させ、同時に市民の戦争遂行への士気を阻喪させようと、その機会を眈々と狙っていた。
1945年3月9日夜半0時少し前、房総半島南端から侵入を始めたB29の大集団は、これまでと違って、2-3000メートル程度の低高度で単機ずつにわかれ、最初の数機が、本所、向島など家屋密集地域に投弾、火災を発生させ、後続機への目印を作った。 火はおりからの北の季節風にあふられ、みるみる燃え広がり、次々と投弾しては脱去するするB29の数知れず。
この夜、10時半に警戒警報は出ていたが、先発機の房総南端でのレーダーかく乱行動から、軍は実態が把握できず、我々市民は疲労して防空服のまま床に入っている者が多かった。 私も床に入ってウトウトとした瞬間、頭を殴られたような高射砲の発射音、飛び出してみると、眼前にひろがる光景は...照空灯の光芒に照らし出された数機のB29、あるものは爆弾倉を開けたまま、あるものは火を吹き、あるものは悠々と旋回して去って行く。
ようやく空襲警報が鳴り渡ったのは、この情況下で零時を10分も過ぎたころだった。 雨のように降る焼夷弾の光芒、そしてすでに広範囲に燃え広がる火災...。 火は風をよび、風は火をあおる。 風速は30メートルにも達し、焼けたトタンや、小石のような火の粉が舞う。 火炎と煙は数千メートルにも達し、遅れて侵入する敵機の機内にも充満したと言う。
総数334機(日本軍の発表は130機)のB29の腹一杯に積んだ焼夷弾2000トンによるこの空襲で、東京は下町地域のほとんど全域を焼失、猛火に逃げ惑った市民8万5千人(一説には10万以上という)が死に、百万人が家を失った。 私の中学の同級生たちの数人も、この日から永久に姿を見せなかった。 私の隣席の級長森川君も。 彼は凛とした素晴らしい青年だった。 東京はいたるところ火事場独特の異臭で満たされ、それは戦後数年は続いた。
これは第二次大戦の大都市空襲のなかで、規模と言い、死傷者の数といい、有数のもので、その激しさ、残忍さについては、もう何度も語られ、私がここであらためて述べることはない。 私はただ自分の目で見たものを、新しい道具を使って書き、再びあってはならないこととして残したかっただけだ。
B29模型はアカデミー(韓国)の72分の1
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