ゲイ=(イコール)地獄行き!?
1998年6月14日
ボストンから車でおよそ30分のところに位置するローレンス。僕はダウンタウンから少し離れた広場で200人程の人々と一緒にマーチのスタートを待っていた。昨日までの記録的な豪雨によって、ボストン近郊では家屋浸水などかなりの被害が報告されていたが、その雨は今日の午前中もまだ降り続いていた。ところがスタート地点に人々が集まってくるにつれ徐々に雨足は弱まり、マーチ開始時刻には雲の間から太陽の光りが差し込んでくる程になった。 「ゲイ・レズビアン・プライド」と銘打たれたきょうのマーチ、文字通りゲイやレズビアン達の権利を守り、誇りをもって生きられる社会を!という主張のもとにおこなわれるものだ。ニューヨーク、ボストンなどの都市ではすっかりお馴染みとなったゲイ・プライドであるが、そちらはどちらかといえばお祭り志向で、派手な格好をした参加者達がパレードカーなどにのって行進していくものであり、今日のマーチとはいくぶん趣を異にしている。今回はローレンスにおいて初めてのゲイ・マーチということもあって、参加者達もプラカードを持ったり、シュプレヒコールを叫んだりして純粋に彼等の権利を主張するということに念頭がおかれているようだ。しかし、何事も最初に事を始めるときには困難はつきもので、このマーチを組織する際にも同性愛に偏見をもつ保守的な市民達からの反対は少なくなかったようだ。保守的な親達が子供達にこのようなマーチをみせまいと、子供達をスクールバスにのせて市外に非難させるなどといった計画もあったようである。 このような噂をきいていたので、僕はひょっとしたら同性愛者を敵視する様な保守グループとの間にひと悶着あるのでは、と予想していたのだが、その心配には及ばずマーチは順調にスタート。行進が進むにつれ太陽までが彼等に味方するようにさんさんと照り始めた。雨の中の取材を予想し、厚いジャケットを装着していた僕のほうは歩きだして10分ほどでもう汗だくになってしまう。マーチが市の中心部に入ると、沿道で待っていた人々から大きな拍手と声援がとぶ。両手を上げ手をたたいたり、親指を立ててサム・アップをしてマーチをサポートする彼等にカメラを向けながら、僕はふと数年前に取材したセント・パトリック・デー・パレードのこと思いだした。 毎年恒例となっているこのアイリッシュの伝統的なイベントに初めてゲイ・レズビアン・グループが参加したときのことだ。アイリッシュといえばカトリックである。保守派のパレード主催者側と、自分達も同じアイリッシュであるのだからパレードに参加する権利がある、と主張するゲイ・レズビアン・グループが真っ向から対立した。結局裁判所の判断により、ゲイ・グループの参加は許可されたのだが、当日行進する彼等に浴びせられた罵声・中傷はひどいものだった。「ファック・ユー」、「とっとと家に帰れ!」、「お前らファグ(ゲイに対する差別用語)は死ね」など、プラカードに殴り書きしたり、中指をたて叫んだり、つばを吐きかけたり、物を投げつけたり。。。これを沿道にいる大人達のみならず、年端も行かない子供達までもが彼等の両親やまわりの大人達ををまねてやっているのだ。僕は無茶苦茶に胸くそが悪くなった。そしてこんな大人達のそばで育つ子供達が、こうやって自分と同類でないものに対する偏見や差別心を植え付けられていくのか。。。と、今まで頭ではわかっていたことが、このときはじめて体で実感されたのだった。 今日のマーチではあのセント・パトリック・デーでまざまざとみせられた人間の醜さには遭遇せずに済んだ。ゲイ・レズビアンを良く思わない人々は通りにでてきて意思表示をするより、家にいて彼等を無視するほうを選んだのかも知れないが、沿道にいた人々もその大部分が彼等をサポートしていたようだ。ただ、マーチの途中から姿を現した数人のカトリックのグループと接したことによって、僕はこのゲイ問題についてさらに考えされられることになったのだった。彼等はサンドイッチマンの様な格好で二枚のプラカードを前後に、さらにもう一枚のプラカードを掲げて沿道に現れた。そこには「悔い改めよ、さもなくば滅びる」とか「ロザリオの祈り」それに「ゲイ=ヘル(地獄)」とも書かれている。(正確には”ゲイ”という字のかわりにゲイ・プライドのシンボルがしるしてある)彼等はマーチと平行して歩き、最終地点で集会がおこなわれている際も無言のまま、人々の間を小さなパンフレットを配りながら歩き回っていた。ほとんどの参加者達はこの集会を平和におこなうために彼等と余り関らないようにしていたし、セント・パトリック・デーの時とは逆に、ここではゲイの人々のほうが圧倒的多数であるためにカトリック・グループの態度がおとなしかったのか、彼等のほうも、敵意をあらわに、といった感じは全くなくただ黙って主張をおこなっているのであった。時折彼等はマーチ参加者の面前にたってパンフレットを手渡しながら、「悔い改めなさい、さもないと地獄へ落ちてしまいますよ」などと諭している。そんな彼等の様子を写真に収めている僕にむかっても、そのうちの一人が尋ねてきた。「あなたはどっちなんですか?」僕はPro-Choiceだし、ゲイの事にしても、彼等はたまたま同性を愛するように生まれてきているんだからそんなことはどうでもいいじゃないかとおもっているくちだが、撮影中にこういった主義主張の議論に巻き込まれるのは嫌なので軽く「僕は中間だ」などといい加減に答えてしまった。しかしこれがまた良くなかったようで、「中間なんてものはない」などと切り返してくる。「神は一人なのです。イエスを信じなさい。でないと地獄に落ちてしまいますよ」彼は真剣な表情で僕を諭そうとしてきた。 どうして個人の自由を尊重することができないんだろうか。。。ゲイだからといって誰に迷惑がかかるわけでもあるまい。。。このとき僕はこのカトリックのグループを煙たく感じていた。しかし後になって考えてみると、これはそういう簡単な問題じゃないのかも知れないと思い始めるようになった。信条、特に宗教が深くからんできた場合、突き詰めて考えていくとそこには個人の自由などというものは存在しなくなるのではないのだろうか。。。という思いだ。例えば一般社会で黒色のものがある宗教の教えのなかで白と呼ばれる場合があったとしよう。この宗教の信者が熱心であればあるほど、これは白であり、他人がいくらこれは黒だといったところで、信者にとっては絶対的にこれは白なのだ。ここには彼の選択の自由はない。これと同じことで、彼等カトリックのグループにとっては同性愛=(イコール)悪、そして悪=地獄行き、という方程式が確立しているのである。ここにもまた個々の選択の自由が存在する余地はないわけだ。彼等が信条に対して誠実であればあるほど、熱心であればあるほど、この方程式は確固として揺るぎないものとなっていく。一方で、セント・パトリック・デーにおいてゲイの参加者に浴びせられた罵声のほとんどは彼等に対する単なる偏見に基づいていたのだと思う。「同性愛なんて気持ち悪い」などという、ゲイに対する理解不足からくる類のものだ。こういう「偏見」というものは、きっかけさえあればそれを取り除くのは比較的容易だろう。しかし、今日の集会で熱心にゲイ達を諭そうとしていた彼等の様な場合、彼等の中から”ゲイ=地獄行き”という方程式を取り除くのは、彼等が信仰を棄てない限り、ほとんど不可能なのではないだろうか。こんなことを考えていると、ゲイ・レズビアンの問題に限らず、妊娠中絶の問題なども含め、議論の土台からして異なる両者の間に、真の理解というものを得ることがどれだけ難しいかということをあらためて感じさせられてしまうのだった。

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