『死の判決を待つ日』
1997年11月7日
この日僕はステイト・ハウス(州議事堂)で長い一日を過ごしていた。「死刑」の復活をかけた議員投票の模様を取材するためである。僕ら報道陣の待機するロビーから分厚いドアを隔てた向こう側では、今日、マサチューセッツ州において死刑を法律として復活させるかどうかの最終投票が下院でおこなわれることになっているのだ。死刑復活推進派が多数を占める上院と違って、死刑反対派の議長をもつ下院ではなかなかこれを投票にこぎつけることが出来なかったのだが、最近になって推進派の強い要求のもと、ついに先週下院においても法案が可決された。その後上下両院の間で法案の調整がおこなわれ、いよいよ今日の下院での最終投票をパスすれば、州知事の承認を受け「死刑」が法律として制定されることになる。もしこれが実現することになると、マサチューセッツ州においては、死刑に関する最後の法律が破棄されてから13年、最後の死刑執行から数えるとなんと50年ぶりに死刑が復活することになるわけだ。この投票を巡って報道陣も朝からステイトハウスに詰めていたが、僕らにもいったい投票結果がいつ明らかになるのか全然予想がつかず、早ければ夕方、遅ければ深夜に及ぶだろうという具合であった。議院内における撮影が認められていない僕らフォトグラファー達にとってはこれといって撮るものもなく、時折議院をせわしく出入りする議員達にカメラを向けるくらいで、あとはひたすら待つのみ、の状況がすでに4時間ほど続いていた。 それにしてもどうしていまさら死刑復活が騒がれるようになったのであろうか。現在では人権尊重の時流の流れにのって、各国でも「死刑」は廃止されていく方向に向かっているというのに。。。 ロバート・カーレイさん。誘拐殺人の犠牲者となったジェフリー・カーレイ君の父親である彼こそがこの「死刑」復活論議の一番の立役者であった。衝撃的であったこの殺人事件を記憶している人も多いと思うが、二人組の男が10歳になるジェフリー君を誘拐、絞殺した後、その死体をさらにレイプしてからコンテナーに詰め込んで川に捨てた、という残酷な事件である。怒り頂点に達したロバートさんは、このような凶悪犯達が二度と社会にでてくることのないように、死刑を復活すべきだと主張。メディアを積極的に利用してそれを世論に訴えた。この事件に前後して、いくつかの凶悪殺人犯罪が相次いだこともあって、死刑問題を巡って世論は大きく揺れだした。これに過去の殺人犠牲者の遺族も加わり、もともと死刑復活賛成派であるポール・セルーチ州知事の後押しを得て今回の下院投票にいたったわけだ。 死刑復活をかけた投票が決まってから、賛成派、反対派ともに連日集会・デモを開きそれぞれの主張を繰りひろげ、僕も昨夜はちょうど死刑反対派のデモを取材してきたところだった。 下院における第一次投票が一票という小差とはいえ賛成派の勝利に終わり、彼等、とくにカーレイさん一家や他の遺族達は、まさに悲願達成の日となるか、という期待のなかできょうの最終投票を見守っているわけだが、万が一にも議員の誰か一人でも主張を変え賛成から反対に票を移したら法案は成立しないことになる。 午後7時、僕がステイトハウスに来てかれこれ7時間が過ぎようとしている。その間に撮ったものといえば議会の休憩時間に議院を出入りする議員達と、シスター・ヘレン・プレジーン(映画「デッド・マン・ウォーキング」のなかで描かれた、死刑囚のカウンセリングをおこなう修道女)の死刑反対の記者会見の様子くらいだ。いつ投票が終わって議長達が姿を現すのかわからないのでこの場を離れるわけにもいかず、朝からなにも食べていない僕は徐々にエネルギーぎれになってきた。そんなとき急にテレビカメラマン達がざわついて州知事のオフィス前に集まってきた。知事からなにか声明があるのだろう。僕も自分の撮影場所を確保して知事を待つことにする。写真としては知事がマイクに向かって喋るだけの退屈極まりないものになるのはわかっていたが、今日の投票は大きなニュースであるうえ、待ちくたびれていた僕はいい加減なにか撮りたいと思っていたこともあって、少しばかり興奮してしまう。知事がでてくるとそれを20人程のカメラとレポーター達がわっと取り囲んだ。この混雑ぶりが良くわかるように僕は近くの階段に昇って彼等を見おろすようにしてシャッターをきる。知事はなんだかかなり興奮しているようだ。どうやら賛成派であった議員の誰か一人がこの最終段階で意見をかえ反対に票を投じたようで、賛成派の知事にしてみればそれが誰であれ、土壇場で裏切られたという怒りがあるのだろう。この記者会見の後、くら替えをしたのはジョン・スラタリー議員であることが判明。僕らの次の目標は投票を終えたこのスラタリー議員をカメラに収めることになる。再びロビーに戻り議会の終了を待つが、各新聞社の締め切り時間が近づく午後8時半をまわった頃、交代のビルが来て僕は彼とバトンタッチ。僕は自分のフィルムを急いでオフィスに持ち帰って写真を電送することになった。 結局このスラタリー議員の一票が状況を180度転換させ、死刑復活は実現せずに終わったわけだが、僕は心底ほっとしていた。「死刑」問題は、中絶問題などと並んで人の命に関るものであるだけにその議論も一筋縄ではいかないものだが、僕個人としては死刑には「一応」反対であるからだ。まず第一に、死刑判決をうけた犯人が冤罪であった場合の問題がある。合法的に人ひとりの命を奪って、もしその人物が本当の犯人でなかったとしたなら、その命に対していったい誰が責任をとれるというのか。そして次に、死刑には莫大な費用がかかるということ。いったん死刑の判決が下りれば、弁護団は上告を続けるため、一つのケースに10年から14年かかることもまれではないという。その間の刑務所での費用、裁判手続の費用などすべてをひっくるめると、現在のマサチューセッツ州の状況では死刑囚一人あたり最高500万ドルもの費用がかかるといわれる。これは無期懲役の囚人を一生刑務所に閉じ込めておくためにかかる費用の3倍にあたる額だ。大体こんな犯人達は自分たちで裁判費用を捻出できるわけでもないので、その費用は僕らの税金からまかなわれることになる。犯人を殺したところでその犠牲者が戻ってくるわけでもないのだから、死刑にそれだけの金をかけるのならその分を遺族の救済のために当てるほうが有益なのではないだろうか。そしてやはり、ここは観念的な問題になってくるのだが、どんな場合、そしてどんな人間に対しても、それを「殺す権利」というのは誰にもないような気がするのだが。。。 しかし僕が「一応」反対と書いたのには理由がある。アメリカの刑務所の多くは環境が良すぎるため、死刑にすべき様な罪を犯した者に対しても、それ同等の罰を与えることができないのではないだろうかという疑いがある。たとえ無期懲役になったとしても、一日三食がつき、体がなまらないようトレーニング施設まである刑務所において、果たしてその犯人が犠牲者とその遺族が味わっているのと同等の苦しみをあじわうことができるのか。そして最後に、もしも仮に僕に子供がいて、その子がジェフリー君のような殺され方をしたとしよう。おそらく僕はその犯人を、自分の手によってであれ死刑によっであれ、とにかくめっためったにして殺してやりたいと思うであろう。そういう極端な状況にわが身がさらされた場合、僕が死刑に対してどのような姿勢を持つかは自分でも正直いってわからないからだ。。。 死刑復活をめぐる今回の一連のイベントをとおして強く僕の心に残っている言葉がある。死刑反対派であるエミール・ゴーグエン議員の語ったこの言葉だ。 「我々は(議員として選ばれたのであって)神として選ばれたわけではないのだ」。

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