2000年12月31日
「信仰による生活」 ヘブル13:1―19
序.今日の説教は二重の意味で最後の説教です。一つはもちろん、今年最後の礼拝説教です。もう一つは、ヘブル書からの説教も最後です。千代崎がグレンビューで説教するのは、神様のお許しがある限り続けさせていただきますので、もうしばらくおつきあいいただくことになると思います。
さて、ヘブル書を通してイエスキリストによる救いがどのようなものであるか、特に旧約聖書の光に照らして学んできました。こうしたことが単なる学びで終わってはいけない、理解するだけでなくそれが私たちの生活に実を結ぶことが大切です。他の手紙、特にパウロの手紙でもそうですが、神学的な教えのあとで、倫理的な勧めが述べられることが多いようです。それは、キリスト教信仰は理論ではなく実践を含むからです。ヤコブ書で「行いを伴わない信仰は死んだものだ」と言われている通りです。そこで、今朝はヘブル書のまとめとして、信仰による生活がどのようなものであるべきかを具体的なことを含めて考えたいと思います。
1. 御心にかなった生活
15節、16節にクリスチャンがささげるべき「いけにえ」として二つのことがあげられています。一つは賛美、もう一つが善を行うことです。神様はこのようないけにえを喜んで下さる、と書かれています。これは、それを行うことで救われる、という意味でのいけにえではありません。救いのためのいけにえはキリストご自身が捧げてくださった、というのがヘブル書の主張です。そうではなくて、15節に「キリストを通して」とあるように、キリストによる救いを戴いた者が神様に喜んでいただくことを願ってすることです。では何が御心にかなったことか。1節から6節に述べられていることは大きく分けて二つの事です。それは、兄弟愛と聖い生活です。愛し合いなさい、とはキリストが与えてくださった私たちのまもるべき戒めです。罪を離れ聖さを追い求めることはヘブル書ですでに言われてきたことです。しかし、どちらも理屈だけではいけません。具体的に何をすることかを見てみましょう。
兄弟愛の一つの現れとして「もてなし」があげられています。クリスチャンが互いに招き合って、交わりを持つことも素晴らしいことですが、ここでは特に「旅人をもてなしなさい」と勧めています。自分で招いたお客さんではなく、突然にどこかからやってきた見知らぬ人です。誰も知り合いが無く立場の弱い人をもてなすのです。見返りを来たいしないで愛するのです。兄弟愛は自分の好きな人、仲間だけに向けられるものではなく、外から来た人にも向けられるべきものです。
もう一種類の兄弟愛として「思いやること」が3節に出てきます。当時は迫害のために牢につながれる人がいました。また、迫害だけでなく様々な苦しみの中にいる人々はいつでも少なくありません。そういった人たちを憐れむのではなく、自分がその立場だったらということを考えて思いやるのが愛です。もちろん気持ちだけではありません。16節で言われているように、善いことを彼らに行い、必要なら自分のものを分かち合う。そういった犠牲をいとわない、それが愛です。
さて、兄弟愛と並んで大切なのが聖い生活を追い求めることです。それは、言い換えれば罪を離れることです。神の御心に沿わないことの例として二つのことがあげられています。そしてこの二つはクリスチャン生活をダメにすることとしては代表的なことです。一つは性的な罪、もう一つは「むさぼり」の罪、特に金銭への愛です。これらの罪を避けるべき理由として4節では神様がさばかれるから、ということをあげています。でも、神の審判が怖いからということだけではないのです。5節では神様に信頼することが書かれています。「私は決してあなたを離れず、あなたを捨てない」。この信仰に裏打ちされていないとき、こうした実践的勧めは単なる倫理道徳と変わらないことになったり、これを行うことで救いを得ようとする律法主義になってしまいます。神様の約束に対する信頼が確信に満ちている時、愛することも聖さを求めることも、無理がありません。「あなたを離れない」と私たちに語って下さる神様の愛を忘れるとき、せっかく善い行いをしてもギクシャクするのです。
クリスチャンの生き方は信仰を土台とした生活です。この信仰が聖書の教えに沿った健全なものならば必ず実を結びます。問題は、間違った教えです。信仰が神様への信頼ではなく、自分の力への過信だったり、形式的なものになっては大変です。
2. 間違った教えを退ける
初代教会の時代から今日まで常に、間違った教えが教会を脅かしてきました。ここで取り上げられているのはその代表的なものの一つで、ヘブル書の読者たちは特にそれに陥りやすい危険がありました。それはユダヤ教的なキリスト教です。旧い契約による救いです。ユダヤ教の祭儀の一つとして9節に「食物」のことが出てきます。別に食べることが悪い訳ではありません。私たちの肉体の必要をご存じの神様が与えて下さったものを戴くことは恵みです。問題とされるのは「食物規定」といった律法を守ることで自分が救えるとする考えです。神の恵みによらない救いは間違いです。
ところが、人間はこの異なる教えを捨てることがなかなかできない。そこで、著者は読者が正しい救いを選び取ることができるように、今一度旧約の例を用いて新約を説明します。10節から12節に出てくることは旧約の律法を知らないと分かり難いことです。律法の規定では、神様にささげるいけにえの内、罪の贖いのためのいけにえは完全に燃やし尽くさなければなりませんでした。特に大贖罪の日と呼ばれる、年に一度イスラエルの民全体の罪を赦していただくための儀式を行うとき、そのいけにえを宿営の外で燃やすことになっていました。キリストが全ての人の罪を贖われる時、エルサレムの城壁の外で十字架に架けられた。それは、その体が犠牲とされたのが宿営の外であることで、贖罪の働きを果たしたことを示すためでした。キリストが私たちの救いのために外で苦しみを受けて下さったのだから、キリストに従うものとして、ユダヤ教という宿営から外に出よう、と勧めているのが13節なのです。しかし、それは読者にとって難しいことです。迫害を伴います。救いのために犠牲を払うことを避けようとする、利己主義が恵みを退ける。また、「キリストの辱め」と書かれているように、自分を善く見せようと言うプライドがあるとき恵みを受けるということができない。
福音を正しく理解し、恵みを妨げるものに光を当てて退けるために大切なのは、神の言葉に聞くことです。そのために立てられている指導者の役割は重要です。
3. 教会の働き
7節と17節に、指導者たちに従うことが書かれています。これは、牧師という人間に従うということではなく、語られた御言葉への服従です。牧師を含め教会の指導者の重要な働きは、とりなしの祈りをささげることと、御言葉を教えることです。魂の必要を知って神様に祈り、また神様からの言葉を取り次ぐのですが、いくら語ってもそれが受け入れられず、それゆえ魂の成長が見られないとするなら、牧者の働きは苦難に満ちたものです。逆に、どんな困難の中であっても、御言葉によって人々が救われ、キリストの姿が形作られていくのを見るなら、その奉仕は喜びで満たされます。そのカギになるのは、神の言葉に聞き従うかどうか、です。キリスト者の生活が神に喜ばれるものになるかは、御言葉への服従が不可欠だからです。
聞き従う、といったとき、教会の中は聖職者と平信徒の二つの階級に分かれていて、信徒は上の者のいうことに何でも服従しなければならない、ということを言っているのではありません。指導者自身が神の言葉に聞き従っていなければならないのはいうまでもありません。説教者は語っている御言葉が自分自身の生活に実を結んでいなければならない。その意味では、教会を牧するというのは人間のでき得るわざではありません。それでも、神の恵みによって立てられて、その務めを果たすためには、実は教会全体の助けが必要なのです。服従するというのは、積極的な意味では、御言葉を取り次ぐ者を教会が支え、指導者としてふさわしくなるように助けることです。そして、それを何よりも明らかにするのが、18節です。「私たちのために祈って下さい」。祈って戴かなければ、説教は語れないのです。説教は説教者が自分で作るものではありません。教会全体が作り上げるものです。語る者と聞く者とが助け合って、神の言葉が正しく語られるように祈るのです。それが教会の、つまり一人一人のクリスチャンの果たすべき役割です。
まとめ. 今日は今年最後だからという訳ではありませんが、皆さんに感謝したいと思っています。今年、こうして御言葉を取り次ぐという使命を曲がりなりにも果たして来られたのは、影にあって皆さんが牧師のために祈って下さったからできたことです。また、様々な奉仕を通して具体的にも助けて戴きました。何より、聖書の言葉を皆さんが神様からの言葉として受けとめて下さり、この教会がキリストの体として成長してきたことが感謝です。今年は、人数だけ見るなら少し減ってきているかもしれません。でも、一人一人が奉仕者として素晴らしい働きをしてくださり、信仰が成長してきたことを感じているのは、牧師自身です。ですから、今年も神様がこの教会の上に御業をなして下さったことを確信しています。
私が何も言わなくても、神様が喜んでいて下さるのですが、御言葉を取り次ぐ者として、一人一人に感謝します。皆さんが、時には陰にあってしてくださった愛の業は、それはキリストのためになされたことです。誰からも認められることが無かったとしても、神様がご存じです。地上において報いがないとしても、来るべき世において神様が永遠の祝福を用意して待っておられるのです。
そして、最後に、みなさんと一緒に神様に感謝したい。私たちが自分で何かをしたのではありません。何かができたとするなら、それは神様の恵みなのです。神様が私たちを用いて下さったから、素晴らしい体験をすることができたのです。必要を全て満たして下さり、私たちの人生を導いていて下さるお方に感謝をささげましょう。今年、一年に戴いた恵みを思い起こして、神様に感謝し、栄光をお返ししたいと思います。