12月26日礼拝説教 ミカ6:1〜7:20
序.一昨日と昨日のクリスマスをみなさんはどう過ごされたでしょうか。クリスマスというのは、その日までは忙しくて、終わってしまうと忘れ去られてしまうことがあります。子どもたちもクリスマスの朝までは夢と期待に胸を躍らせて、プレゼントを開けるときは狂喜乱舞となり、でももらった物で一通り遊んでしまうと、なんだか淋しくなってしまうことがあります。プレゼントの包装紙と一緒に忘れられてしまう、それでは本当のクリスマスの意味が分からなくなってしまいます。今日は、もう一度クリスマスの事に触れつつ、今年最後の礼拝説教を取り次いで行こうと思います。
 さて、今年はイザヤ書の「恐れるな」という御言葉でグレンビュー教会は1999年をスタートしました。でもこの「恐れるな」という言葉は、お守りのように、これを持っていれば何も悪いことは起こらず全てがうまく行くということではありません。それどころか、私たちの人生もそうですが、いろんな事が起こります。その中には少なからず、困ったこと、絶望しそうになることもあります。今年のグレンビュー教会は大雪騒ぎで始まり、渡辺家、高見沢先生を送り出し、丹野家も帰国しました。もちろん、イースターの洗礼式や十周年記念のような華やかな事もありましたが、教会も一人一人も、色々な試練も経験したと思います。しかし、そのような中でも不思議と平安な心でいることが出来た。それは「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」とおっしゃる神様がおられるからです。でも、この言葉の本当の意味を理解するためには、その神様がどんな方か、そしてこのお方が共にいて下さるとはどんなことかを知ることが大切だと思います。今日は、このミカ書の最後の部分、6章と7章から、そのような事について学びたいと思います。
 ミカ書は全部で7章ありますが、その前半の1章から4章では、神の民であったイスラエルの国が神の御旨から離れ、腐敗した国となっていることを糾弾しています。しかし、そのような彼らを救うために神は救い主を送られる。その方がベツレヘムという小さな村で生まれることを予告したのが5章です。では、救い主が来られたら、全てが良くなってハッピーエンドということでしょうか。そうではないと言うのが6章の始まりです。ではまず6章の前半に目を向けたいと思います。
1.さばかれる理由
   6章1、2節。これは裁判の場面です。しかし普通の裁判ではなく、裁判官は神であり、傍聴席には山や丘がいます、そして被告席に神の民イスラエルがいる。そして神自身がこの民を訴えている。一体なぜ、そんなことになったのでしょう。ここでは二つのことが取り上げられています。一つは、彼らが神のして下さった事を忘れてしまったこと、もう一つは、彼らが神の望まれないことをしていることです。
 4、5節にはイスラエルの国の始まった頃の歴史について書かれています。イスラエル人がエジプトで奴隷となっていたときに神は彼らを助け出し、約束の地へと導き入れて下さった。その道中でいかに神が助けて下さったか、彼らは忘れてしまった。そして、神様に現状についての不満を述べている。良いことをしてくれたことを忘れ、悪いことはそれが自分が引き起こした問題であるにも関わらず相手に責任をなすりつける。日本語では「恩知らず」という表現がぴったりです。ここで書かれているのは特に神の民についてですが、全ての人間は神がして下さったことを忘れがちです。神様は私たちに何をして下さったのでしょう。私たちが生きるのに必要な光や水や空気を与えて下さった。もちろん、それも大切ですが、それは他の動物にも言えることです。しかし、人間は動物と同じではないと聖書は告げています。動物よりもはるかに優れた存在として神は人間を創造された。 私たちは、例えばマザーテレサのような人物を見て感動します。あんなにも素晴らしい生き方をすることができることに驚きます。しかし、彼女たちは特別な人間ではありません。スーパーマン(スーパーウーマン)ではなく、普通の人間です。神は人間をあのような生き方ができる存在として作られました。ロボットのように命令された通りに生きるのではなく、自分の意志で気高い人生を歩むことができるようにされました。しかし、人間はその能力と意思を用いて神に反逆したのです。自分で悪い生き方を選んだ。そして、そのために問題が起きると、神を非難する。恩知らずというのが聖書の告げている人間の姿です。
 そんな彼らも宗教を行っていました。神に捧げ物をしたら神は自分の願ったとおりに事を行って下さる。6、7節では様々な捧げ物が取り上げられています。動物のいけにえを捧げる。何千何万と生贄を捧げる。それがエスカレートして、ついには自分の子供を殺して神に捧げる。しかし、そんなことを神は望んだことは一度もなかっのです。むしろ、子供を捧げるというのは当時、周辺の国で行われていた忌まわしい習慣であり、神が禁止している行為です。神が願っておられるのは、そんな形だけの宗教行為ではありませんでした。神が民に求めておられたのは、8節、正しく生きることだけでした。しかし、彼らは神の求めなかったことを行い、神が禁止したことを行っていました。10、11節に不正な秤について書かれています。二種類のおもりを隠し持っていました。10ポンドのものを、買うときには9ポンドであるとして安く買い、売るときにはもう一つの秤で11ポンドとして高く売る。そんな不正で象徴されるような、間違ったことが併記で行われていたのです。現在でも多くの人が、宗教的な事を行いながら、同時に陰では不正を行う。神様はそのような人間の姿をお見通しなのです。一体誰が、自分は無実だと主張できるでしょうか。
 救い主が来られても民は裁かれなければならない状況にあった。そして、その罪に対する罰が6章の後半から7章の前半に示されています。

2.罪の罰
   神のして下さった事を忘れ、神の御旨に逆らうことをしてきた人間に対する刑罰はどんなものでしょうか。ここには2種類の崩壊が描かれています。一つは自分自身の崩壊、もう一つは人間関係の崩壊です。
 13節。「食べても満ち足りない」というのは、普通、食べ物が不足している状態だと説明されます。しかし、同時に神から離れた人間の状況でもあります。神から離れたとき、人間は自分の欲望を追求するようになります。美味しい物、美しい服、対象はなんであれ、欲しい物を求め続けるのが人間です。しかし、欲しい物がたとえ手に入っても、決して心は満たされない。また他のものが欲しくなる。欲望に身を委せたときに、私たちは欲望の奴隷となるのです。すると、労働も本来の意味を失ってしまい、喜びではなく空しい物になってしまいます。働いても働いても、手にするのは消えていく物ばかりだとするならば何と空しい事でしょう。それが15節。そして、その行き着くところは恥だと16節は語ります。オムリというのはイスラエルの歴史に表れた一つの王朝で、そのオムリ王朝の一人がアハブ王です。彼は、ある時一つのぶどう畑が欲しくなった。しかし、法律では、時は先祖代々受け継いでいくべきもので手に入れることはできない。ついに彼は持ち主を殺して自分の欲望を満たそうとした。しかし、そのために彼の王朝は滅びる結果となり、彼の名は歴史の中であざけりの対象となっていった。 日本から離れていると、日本の姿が客観的に良く見ることが出来ます。欲望を追い求める社会がいかにこっけいで他国から見れば嘲笑の対象となっていることでしょう。アメリカも同じ事です。先週の前半はどこのモールも一杯で車を止めるスペースを探すのも大変だったことでしょう。愛する人に贈り物をする、それがいつしか商業ペースに乗せられて、みんなが大騒ぎをしている。クリスマスはいつの間にかイエスキリストの誕生日ではなく、サンタクロースのお祭りとなってしまったようです。
 7章の前半には、もうひとつの崩壊が描かれています。7章2、3節。各自が自分の利益のみを求め、不正を行うようになるとき、その結果は信頼を失うことです。人間関係は本来はお互いに対する信頼が不可欠です。ところが自己中心はその関係を壊してしまいます。5、6節では自分の隣人、親しい友人が信用できなくなり、家族すらも敵となっていくさまが描かれています。だれも信頼できない、だったら自分一人で生きれば良いでしょうか。ところが人間は人間関係の中で生きるようにデザインされている存在です。その人間関係が崩れてくると不安になります。今、日本では若い人たち、特に中高生の多くが携帯電話を持っているか欲しいと思っているようです。そしていつでもどこでも連絡を取り合っている。それは彼らが親密な人間関係を持っていることの現れではありません。むしろ、家族の関係が崩れ、また友人ともしっかりとした関係を築くことができないために生じた心の不安を必死で埋めようとしているかのようです。
 罪の罰、というと地獄という言葉を思い出す人もいると思います。でも、聖書を良く読んでいくと、悪い人が死んだ後に行くところという事では無いようです。罪の罰は、生きている内にある。しかも、それは神様が手を下したというよりも人間の罪自体がもたらしてる状況そのものがすでに罰となっているようです。神から離れて行った時に人間は欲望の奴隷となり満足することができなくなり、信頼関係を失って不安で満たされるようになります。そして、そのような状況の延長線上に地獄がある。言い換えれば、生きている内に地獄の体験をするのかもしれません。     
 そんな状況の中に送られる救い主はいったい何をされるのでしょうか。

3.罪を赦す神
   この書を書いたミカという人の名前は実はミカヤフーという本名を縮めたもので、その意味は「誰が主のようだろう」という意味です。一体こんな神が他におられるだろうか。そんな驚きの言葉がこのミカ書の結論、7章18節です。どんな神かというと、罪を赦されるお方です。罪のもたらした状況の中で苦しんでいる人間を救うために神がとった方法は、その罪を赦す、ということでした。その罪の赦しは二つの土台の上に成り立っています。一つは信仰、もう一つは贖いということです。
 7章の7節からミカは、そんな悲惨な状況の中で、「それでも主を仰ぎ見る」と神に対する信頼を告白しています。神を信じるとは神を信頼することです。神様を信頼する時、私たちは神との信頼関係を築き始めることができます。そして神との信頼関係が土台となって他の人との信頼関係を築き直す事が出来るようになるのです。神様に逆らっていた人間を神は受け入れて下さる。その方に信頼する時、他の人に対しても信頼の心を持つことができるようになります。そして自分の、他者に対する心が変わったときに、相手も信頼してくれるようになる。私たちは、人間関係がうまく行かないとき、つい相手が良くなることを求めてしまうのですが、実際、人の心を変えることは誰にもできません。でも、こちらが変わって行ったときに相手も変わってくるのです。そして自分が変わるためにはまず神との関係が修復する必要があります。その関係を悪くしている罪、その罪を神は赦して下さるのです。
 でも、それはあまりに虫の良い話と思われるかも知れません。神に逆らった生き方をしていた者を無条件に赦す。それでは甘いのではないか。もちろん、ここで「赦す」というのは許可するという意味ではありません。何をしてもいいよ、というのは甘やかしであり、結局はその人を悪くしていきます。神が罪を赦して下さるというのは、私たちが本当は受けなければならない最終的な罰、すなわち永遠の滅びを受けなくてすむようにしてくださることです。漢字では、許可の許ではなく、恩赦の赦の時を使います。罰を免除して下さるということです。それでも、少し虫がいいような気がします。いや、実は大変な問題があるのです。
 ミカ書の最後の部分に真実といつくしみという言葉がでてきます。神は真実の神、すなわち正しいお方です。だからどんな小さな不義でも、罪は罪、それを裁かなければなりません。小さな罪を見過ごしにしたら神の正しさが偽りとなります。しかし、同時に神はいつくしみ、すなわち愛の神です。滅びつつある人間を憐れみ救おうとされる。ここに矛盾が生じます。したがってミカ書は結論がでないまま終わることになります。半年ほどの間、ミカ書を含む12小預言書からメッセージをしてきました。ミカ書はその6番目、丁度半分です。このシリーズはひとますここで終わろうと思います。でも、ミカ書のメッセージは12人のメッセージの一部分で、さらには聖書全体の一部です。ですから後半のメッセージについてもすでにいままでの説教の中でいくらか触れてきたつもりです。そして、このミカ書の結論は実は新約聖書にいったときに、その矛盾が解決します。それがイエスキリストです。
 御自分の正しさと愛とを両立するため、神は一人子を人として世に送り、御自分が人間の受けるべき罪の呪いを受けられた。キリストが身代わりとなることで私たちは救われたのです。それによって神の義と愛が全うされたのです。それが救い主の来られた目的です。「神はその一人子を賜うほどにこの世を愛された、それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を得るためである」と新約聖書にかかれているのはそのことです。逆らっていた私たちをも赦し受け入れて下さる神が共におられるなら、たとえ周りの状況はどんなに悪くても、たとえ私たちの心の中は罪の暗闇の中にあっても、なお希望があるのです。