2001年12月23日 ヨハネ1:9−14 「神の民のクリスマス」
序. 今朝はグレンビュー教会で久しぶりにみなさんと一緒に礼拝をする事が出来、また説教をさせていただけることを感謝します。今日はクリスマス礼拝なのですが、牧師に取りましては毎年苦労するときでもあります。クリスマスのメッセージというのは大体が決まった聖書箇所からすることが多くて、同じ教会に何年もおりますと、気をつけませんとどこかで同じようなお話をしたことがあったりします。そんな訳で、私もここ何年かはクリスマス礼拝の説教はいろいろな方にお願いすることが多かったと覚えています。で、グレンビューの牧師を退いて、もうここではクリスマス・メッセージで悩まなくて大丈夫と思っていましたら、今日の説教を仰せつかった訳であります。「しまった、やられたな」とは思いませんでしたが。でも、不思議なもので、例え同じ箇所からであっても、毎年神様は新しいことを教えてくださいます。今年のクリスマス、みなさんと一緒に聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。
さて、今朝は「神の民のクリスマス」という題でお話しします。イエス・キリストを信じ、神の民としていただいた私たちにとってクリスマスとは何か、ということを考えたいと思っています。今日初めて教会に来られた方、キリスト教の事、聖書の事をまだ良くご存じでない方には、一体クリスマスというのは何なのかと言うことを少しでも知っていただけたら幸いです。いつもしていました様に、今朝も三つのポイントに分けてまいります。まず、本当のクリスマスは神様が私たちのためにしてくださった、「神によるクリスマス」だと言うこと、第二に、「神の民がクリスマスを拒絶したこと」、最後に「恵みとまことに満ちたクリスマス」ということをお話ししたいと思います。
1.神によるクリスマス
さて、クリスマスにつきましては、新約聖書のマタイによる福音書とルカによる福音書のなかに詳しく書かれています。馬小屋で生まれた、とか、東の国の博士たち、といったことです。ところが今日
開いていますヨハネの福音書では、どういう出来事があったか、ということよりもむしろ、クリスマスの本質は何なのか、ということが書かれています。9節を読んで見ましょう。「全ての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
「来ようとしていた」と翻訳されていますが、他の訳では「来た」となっているものもあります。一体、もう来たのか、まだ来てないのか、これではよく分かりません。この箇所は時間的な順序ではなくて、いわばドラマチックな表現をしているのでして、14節に向かってだんだんと盛り上げていくような書き方をしております。歴史的に言えば既に「来た」のですが、この、まことの光が来た、ということがクリスマスなのです。「光が来たのがクリスマスか、そーか、だからあちこちの家でぴかぴかしているのか。」 いえ、それはまことの光ではありません。電気が無ければ光らない、誰かが苦労してつけなければならない光です。では「まことの光」とは何か、それをお話ししなければなりません。
ヨハネの福音書という書は、イエス・キリストという方のことを実に様々な言葉で言い表しています。「まことの葡萄の木」とか「まことの羊飼い」なんていうのもあります。その中で、一番はじめにキリストを表す表現として出てくるのが、1節です。「はじめに言葉があった。」 この「ことば」と呼ばれているのがキリストです。この「ことば」は神であり、しかも天地を造られたお方である、と紹介しています。今日は三
位一体なんていう難しい話はしません。が、キリストは子なる神であるということは覚えておいてください。この「ことば」と言われた方が、4節くらいから「光」と表現されるようになっていきます。ですから「まことの光」とは世界を造られた神であるお方が光り輝いているありさまなのです。簡単に言えば、神であられるお方がこの世に来られた、それがクリスマスです。ただし、来た、というと今まではこの世界におられなかったことになりますが、実際にはいつの時代にもおられたのです。でも、この時、人間に分かる姿で来てくださった、それを専門用語で「受肉」といいます。ちょっと14節を見てみましょう。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」 神が人間となった、ということです。
神が人間となった、ということの持つインパクトを、残念ながら私たちはその十分の一も受け取ることができないのではないかと思います。最初の教会にとってはこれは大変重大なことでした。このことについて2世紀から3世紀まで様々な議論が戦わされてきたほどの事だったのです。どうしてか、と言いますと、それは神様についての理解が違っていたからです。神は人間を遙かに越えた存在であり、人間と神との間には確固
たる一線があった。ですから、その線を越えて神様が人間となったというのは衝撃的なことだったのです。現代人は神を過小評価します。雲の上にいる、白い髭を生やしたおじいさん、くらいに捉えがちです。人間と同じくらい、時には人間が神を出し抜くことも出来る、それくらいに低く見ている。ですから神が人間になったと言われても、大したことではないように感じてしまう。しかし、聖書が私たちに教えているまことの神様はそんなお方ではない。神様と人間の違いは、人間とゴキブリ、いえ人間と大腸菌の違いよりも大きいのです。人間が大腸菌の研究のために自分を大腸菌にする、なんて言われたら、そんなばかげたこと、と思います。でも神様が人間となるというのはそれ以上の格差があることなのです。
神の子であるお方がその栄光に満ちた玉座を捨てて人間となられた。それも、人間の中でも貧しく身分の低い中に生まれ育てられたのです。しかも、それで終わりではありません。その人間の罪を赦すために、何の罪も無いのに十字架につけられたのです。そして黄泉、これは当時の人が、死んだ後に行く世界と考えていたものですが、そんなところにまで下られた、とパウロがピリピ人への手紙の中で書いています。
ところで、ヨハネの福音書の第1章を読んでいきますと、イエス・キリストの紹介と並行して、ヨハネ、これは福音書を書いたヨハネではなく、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物ですが、そのヨハネが登場してきます。このヨハネはイエスが神の子であり、救い主であることを証言する使命を持っていました。そのヨハネがイエスは神の子であると語っている文脈の中で、自分の弟子たちにイエスのことを「神の子羊」と紹介しています。この「子羊」というのは、別に真っ白いとか可愛いとかいう意味ではありません。それはメリーさんの羊。ここでいう子羊とは、旧約聖書のなかで人間が罪を犯したときに神様の前でお詫びして赦していただくために、自分の身代わりとして殺した子羊のことです。神であるお方が身代わりの子羊として死ぬために来られたのです。イエス様の誕生は死ぬための誕生だったのです。
ですから、クリスマスというのは、簡単にイエス様のお誕生日、とは言えないものであることが分かります。イエス様の誕生日だからお祝いしてパーティーだ、プレゼントは自分が欲しいモノを手に入れる、というのは間違っている。そんなことを言いますと、今日の午後の祝会が出来なくなってしまいますので、ちゃんと後で補則します。
クリスマスは元々、キリストのミサという意味だとお話ししたことがあります。ミサというのは礼拝のことです。ですからクリスマスの正しい過ごし方は、キリストを礼拝することです。でも、キリストのミサにはもう一つの意味があります。ミサ、つまり礼拝の中で最も重要なのは聖餐式です。これはイエス・キリストの十字架を示すのですが、元々は旧約の礼拝で動物が殺され、血が流され、肉が割かれた、というのが原型です。キリストのミサとは、私たちが神様を礼拝するために、神様ご自身が礼拝に必要な子羊を備えてくださった、ということなのです。キリストへのミサであると同時に、キリストによるミサでもある。私たちが神様の下に行って礼拝するために、神様のほうから下ってきてくださって、身代わりの子羊となってくださったのが、クリスマスなのです。私たちは神様のため、イエス様のために何かをする、というのではなく、まず神様のほうが私たちのために素晴らしいことをしてくださったのです。
さて、この神様が私たちのためにしてくださった事に対して、私たちは何をしたら良いのか。それに答えるために、してはいけない事を先に考えます。それは神様がしてくださったクリスマスを拒絶することです。
2 神の民の拒絶
聖書に戻って、11節を読んでみましょう。「この方はご自分の国に来たのに、ご自分の民は受け入れなかった、」 この文章は歴史的にはユダヤ人たちがイエス・キリストを受けれなかったことを指しています。一体どうして彼らは受け入れることが出来なかったのか。福音書を読んでいくとその理由が見え隠れしています。ユダヤ人はキリスト、すなわち救い主を待ちこがれていました。旧約聖書を通してやがて救い主が生ま
れることを知っていました。問題は、聖書が語っている救い主の姿を学ぶことをしなかった。やがて救い主が来るという事だけが一人歩き初めて、実際の救い主のあり方は自分たちで決めてしまったのでした。ユダヤ人が求めた救い主は、ローマの国から自分たちを解放し、イスラエルの国をダビデ、ソロモン時代のように強い国にし、ついにはローマがしていたように世界を支配する国にする、そんな軍事的救い主でした。その背後にあるのは、自分たち、いえ自分が世界の支配者になろうという欲望であり、そのために救い主まで自分の思い通りにしようとしたのです。これが彼らが救い主を拒否した理由です。
ユダヤ人がキリストを拒み十字架に架けた、ということで歴史上、教会がユダヤ人を迫害したことが多くありました。しかし、それは正しい事でしょうか。11節を詳しく読みますと、そこはこんな風に書かれています。「彼はご自分のもののところに来た、しかしご自分の人々は彼を受け入れなかった。」 ここには注意深く、国とか民といった用語は遣われていないのです。どこか特定の国家や民族ではなく、神様の所有の人々
が拒絶したのです。神様の所有の民とは何でしょう。そもそも神様の所有でないものがあるのでしょうか。そうです、実はこの箇所は全ての人間を指しているのです。全てを自分の思い通りにしたい、自分が神の様になりたい、というのは全ての罪の根本です。
アダムとエバはこの欲望のために神様の戒めを破ったのです。そしてこの罪は全ての人間に蔓延しました。誰もが自分の思い通りに事を進めたい、もしそれが出来なければ怒ったり悲しんだりします。
それは、自分の本当の所有者である神様を無視し、神様の計画を台無しにすることです。神様の計画とは、この罪のために滅びつつある人間を救うために神の御子であるお方を救い主としてこの世に送られたことです。ですから、もし人間が自分の思い通りに生きようとするならば、それは救い主を拒否することなのです。
誰もがこの罪を犯しています。神様の栄光を表すという崇高な使命を忘れ、自分の欲望のため、自分の願いや計画を実現することを願い続けます。自分の人生を思い通りにしようとします。自分の周りを思い通りに変えようとします。自分の配偶者を自分の思い通りにしようとする、自分の子供を思い通りにしようとする。それがうまくいかなければいらいらし、相手だけを非難します。自分の親を思い通りにしようとし、反抗し
ます。家族だけではありません。あらゆる環境、全ての人間関係で同じ事がおきます。職場で自分の思い通りに出世し、儲けようとします。友人や隣人が自分の思い通りに行動しないと批判します。他の人の生き方を否定し、何より神様を否定する。これが救い主を拒否することなのです。全ての人間が犯しておる罪なのです。
しかし、ここで意味しているのはもう少し深いことです。自分が神の所有であることを知らなければならないとは、誰よりもクリスチャン自身ではないでしょうか。そのクリスチャンが自分の思い通
りに生きようとするなら、それこそ「ご自分の民は受け入れなかった」ということになるのです。ある人は、「神様の御名を最も汚しているのは、誰よりもクリスチャン自身だ」と言っています。救っていただいて、神様の民としていただいたはずなのに、まだ旧い生き方を引きずっている。今でも思い通りに生きようとし、うまくいかないと怒ったり落ち込んだり、あるいは周りの人を批判し、ついには神様まで非難していないでしょうか。家庭で、職場で、学校で、そして友人関係で、私たちはどのように生きているでしょうか。自分の思い通りに生きようと言う姿勢は、ついには教会、キリストの体である教会すらも思い通りに動かそうとします。自分の考えと違うことがあると、他のクリスチャンを裁くのです。頭であるキリストの思いを御言葉によって教えられて従うのではなく、自分の知恵、経験、理想を押しつけようとする。
それが私たちの姿ではないでしょうか。
キリストは世界の創造者であり、支配者です。そのお方を自分の主として心にお迎えし、自分の思いではなく、御言葉に従って生きることをしないとき、私たちは決して新約聖書のなかのユダヤ人たちを批判できないのです。本当のクリスマスは誰よりもクリスチャン自身によって拒絶されているのです。主であり王であるお方を拒否することは反逆罪です。どんな罪よりも厳しく罰せられて当然の罪ではないでしょうか。そんな私たちは、どうすれば良いのでしょうか。
3 恵みとまことのクリスマス
( 久しぶりの説教なので、ちょっと長くなりそうです。30分くらいと仰せつかったのですが....。以前、うちの長女が学校のタレント・ショーでピアノを弾いたことがありました。一人も持ち時間が3分なのですが、彼女の曲はどうしても3分を超えてしまう。うんと早く弾いて制限時間内に納めようかと思ったのですが、ピアノの先生は、そんなことをしてはいけない、芸術というのは制限時間で変えてはいけないものだと言います。でも学校の先生は時間を守るように言います。長女は板挟みになって困りました。そんなとき母親が言いました。「本番で一度弾き始めたら、誰も萌ちゃんを止めることは出来ないんだから、時間を気にしないで自由に弾きなさい。」 メッセンジャーが一度語り始めたら誰も止められない。いや、もしかしたら止められる人がいるかも知れません、敢えて名前はいいませんが。)
脱線してすみません。最後のポイントに移ります。もうすこしおつきあい下さい。
12節を見ましょう。「しかし、....。」 ここに出てくる人々というのは、11節の拒否した人々と別の存在ではありません。さっき言いましたように、11節のは全ての人を指しています。ですから、そのように救い主を拒否した人であっても、もしその人々がキリストを受け入れるなら、その名を信じるなら、ということなのです。この「受け入れる、信じる」というのは救いのための条件と考えられがちです。しかし、そうではありません。受け入れるというのは、神様が下さる救いを無条件で戴くことです。また信じるとは相手を信頼することです。どちらも私たちが何かをしたから救われる、と言うのではなく、私たちの側は何も出来ないことを意味しています。神様からの一方的な恵みとして救いが与えられるのです。それを述べているのが13節です。例え、神様に反逆するような事をしてしまっても、なお神様は一方的に救いの手をさしのべ、さらに私たちを神の子として相応しい存在に変えてくださる。これが救いなのです。キリストの生涯は、誕生も十字架も全てがこの神様の恵みを表していました。そして私たちがどのような姿、神の子としての姿に変えられるかを身をもって表したのもキリストです。14節、「....。」 キリストに満ちあふれていた「恵みとまこと」とはこの神様の救いの恵みであり、私たちを神の子供としてくださるという神様の真理を示しています。クリスマスとは、この恵みとまことをもう一度教えていただく時なのです。
こんな素晴らしいクリスマスを戴いた私たちはどのようにあるべきでしょうか。救いのために必要なことは全て神様の方がしてくださった、それがクリスマス・メッセージです。私たちがそれに対する正しい応答としてするべき事は、まず第一に、もしまだこの救いの恵みを受け入れてない方がおられるたら、今日にでもそれを受け入れることです。イエス・キリストがあなたのために身代わりとして十字架にかかってくださった、そのことを信じるときに神の子とされるのです。第二に、救われたクリスチャンは、イエス・キリストを自分の主、王として心にお迎えすることをもう一度確認しましょう。私の思いではなく、キリストの御旨がなされるように祈りましょう。神様が下さった恵みとまことに対して成すべき事、それは感謝と喜びです。神様の恵みを感謝し、救いの真理を喜ぶ。いつも、どんな事が起きても喜び、全てのこと、自分の思い通りにならない事でも感謝する、そんな人生を送ることができるのです。
まとめ. この感謝と喜びを実践しようではありませんか。早速、今日の礼拝後、祝会がありますが、そこで実践したいと思います。教会ではお客さんでいたらもったいないです。誰でも何かの奉仕ができます。それは他の人のために何かをすることです。私たちは救われるためには何一つする必要はありません。では何のために奉仕するかといいますと、それは、そのことを通して神様への感謝を表すことができるからです。さらに、自分のような者でも、神様の愛を表すために用いていただける。神様の働きのお手伝いをさせていただける。だから感謝なのです。小さい子どもたちは、小さな事でもお手伝いをさせてもらえると嬉しいのです。大人になるとプライドのためか、小さな事を軽んずることがあります。それではいけません。どんな事でも神様の恵みへの感謝として行い、またそれをさせていただけることを感謝したいと思います。
また、神様によって神の子としていただいたことを心から喜びましょう。子供ですから、恥ずかしいとか思わずに思いっ切り祝会を楽しんでいただきたいと思います。グレンビューは以前は遊ぶ教会と言われていました。それは神の子とされ神の家族としていただいたことを、自分の全身で喜びを表すことです。
でも、祝会だけで終わっては残念です。みなさんのこれからの教会生活、クリスチャンの生涯、毎日の生き方が、いつも感謝と喜びで満ちますようにと願っています。もし感謝や喜びを忘れ、不平不満が満ち、いらだったり落ち込んだりした時は、もう一度神様の救いの恵みを思い起こし、神の子とされたという真理の約束を信じてください。そして私たちのためにこの世に来てくださったキリストがあなたの人生の主として共に生きてくださることを覚えていただきたいと思います。