2001年12月16日キリスト―裁きの中の恵み 創世記6章5節―9章17節

イントロ
今日は、皆さんもよく御存知のノアの話を共に見てみたいと思います。 クリスマス前になぜノアなんだとお思いかも知れません。 一見無関係のように見えますが、しかし、ノアの話は実はキリストの生誕の意義を理解する上でとても役に立つのです。 ノアは、キリストの型を示しているとさえ言われています。
なぜ、私達はクリスマスを祝うのでしょう? クリスマス・すなわちキリストの生誕をを心から祝うためには、その意義をしっかりと知らなくてはなりません。 でないと、心から祝ったりなんてできないですよね? 本日は、ノアの物語を通して、イエス・キリストがこの世に来られた意義について、共に考えてみたいと思います。

ノアのお話は、ほとんどの方が一度は聞いたことのある物語なのではないでしょうか? 神さまがご自分の創造されたこの世を見渡されたとき、そこに人の悪や暴虐が満ちあふれていて、この世を創造されたことを悼まれ、洪水によって地の全ての生き物を滅ぼす決心をされます。 しかし、ノアはその時代にあっても正しい全き人で、神さまの目にかない、神さまはノアにこの世を滅ぼす計画をうちあけ、巨大な箱舟を制作するように命じます。 箱舟の完成を待って、今度は、全ての生き物、動物や鳥、地をはう物に至るまで、つがいで1組づつを箱舟に乗せるよう、そして最後に自分の家族と共に箱舟に乗り込むよう命じました。 ノアは神さまの命じられたとおりを行い、全て乗り込んだ後、神さまはその箱舟の戸を閉じられました。 それから四十日四十夜、雨が降り続き、150日間水かさは増し続け、ついには地の全てを覆ってしまいました。 ノアの家族と彼らと共に箱舟に入ったつがいの生き物を除いて、地の全ての生き物は、人から虫に至るまで、全て死に絶えてしまいました。 それから、水は徐々に引き始め、箱舟に入った日から数えてちょうど一年後ぐらいに、地面は乾ききり、神さまはノアに箱舟から出るように命じます。 そして、神さまは、新しい人類の祖として、ノアと息子たちを祝福して、「もう二度と大洪水を引き起こして地を滅ぼすようなことはしない」と言って、ノアと契約を結びます。 そして、大空に虹をかけられ、その契約のしるしとなさいました。 以上がざっとしたノアの物語で、子供達は教会学校で耳にたこができるほど、よく聞かされるお話です。

一見、いろんな動物が出てきて、船が出てきて、虹が出てきて、と子供達にいかにも受けそうなファンタジー満載のお話に見えますが、こうやってポイントだけを羅列すると、実は、このお話、とっても恐ろしい物語なんですね。 これは、神の裁きの話なんです。 とんでもなく無数の人や動物が水に呑まれ死に絶えるというお話なんです。 では、もう少しじっくりと物語を追ってみましょう。

まず、なぜ神さまは、この世を洪水によって滅ぼそうと計画されたのでしょうか? 創世記6章5、6節を見て下さい。 「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」とあります。 神さまのこの裁きの決断の動機は、人の悪、心で計ることも合わせた人の悪だというのです。 ところで、人の悪が裁きを引き起こしたのであれば、なぜ、地上の他の動物は巻き添えを食わなくてはならなかったのでしょうか? 人だけが滅びればいいじゃないか? なんか不公平な感じがしませんか? その辺を理解するためにちょっと前後関係をもう一度おさらいしておきましょう。

背景
聖書では、この世の全ては神によって造られたと証しています。 創世記1章にあるように、神さまは、完璧な世界を創造されました。 そして、その中で命を営む全ての生物を造られました。 そして、その創造の働きの最後の仕上げ、最高傑作として、ご自身のかたちに似せて、人を創造されたのです。 もちろんこれは神さまが人間と同じような容姿をしているということではありません。 関係・Relationshipというものを意識して持てる存在という点で似ているわけです。 また、神さまは創造された全ての生き物を管理するようにと、人に委ねられました。 このように他を治めるという役割を持っているという点においても、神に似たものとされたのです。 神さまは人に被造物のリーダーとしての役割と責任を与えられたのです。 実は、この役割こそが、人の積み重なった罪のゆえに、地の全ての生物が共に洪水に呑まれてしまった理由なのです。 リーダーの間違いは付き従うもの全てに打撃を与えます。 国のリーダーが間違った方向に進んだら、その国民全てが被害を受けるのと同じです。 皆さんは、ご自分の決断が、この地上の被造物全てに影響を与えているなんて事を、考えてみたことはあるでしょうか? 私たち人間は、実は大変な責任を被造物全てに対して負っているのです。
この一連の神の創造の目的は、神さまご自身の栄光を顕わすためでした。 その素晴らしい創造の業を、そしてその源である神さまを共に喜ぶために人が造られた訳です。 ゆえに、人間には、神さまとの関係を第一にして、与えられた役割を果たすことにより、神さまの栄光を顕わすことが求められていたのです。 
最初の人、アダムとエバは、彼らのために造られた完璧な世界・エデンの園で、神さまとつながって、喜びのうちに神様の意志を行って、生きていました。 そこでは、死もなく苦しみもなく、弱肉強食の原理も働かず、平和で満ち足りていました。 ところが、ある日、人は神さまに対して罪を犯してしまいます。 罪とは、神さまとの信頼関係を裏切ることです。 全てを整え、全てを与え、これほどまでに愛と期待をかけてくださっていた神さまのその愛と期待を裏切ってしまったのです。 神さまが与えた唯一の制限、「他のどんな木からも取って食べていいが、これだけはだめだよ」と言われていた、まさにその木・「善悪の知識の木」から取って食べてしまったのです。 神様の意志よりも自分の欲望を優先させてしまったのです。 この罪のもたらした結果は、非常に深刻なものでした。 罪は愛と信頼によって成り立っていた神さまと人との関係を台無しにしてしまいました。 そして、その罪のために、神さまのその限りなく聖く正しい御性質に反してしまった人間は、もはや、その完璧な世界に住むことを許されなくなり、エデンの園から追放されてしまったのです。 しかし、神さまはその時点で、人を完全に滅ぼしてしまうことをお選びにはなりませんでした。 最高傑作として造られ、全てを与えられていたにも関わらず、罪を犯し、関係を断ち切ってしまった人間のことを、それでもなお、愛しておられたのです。

しかし、人の罪はとどまるところを知りません。 その一世代後には、何と殺人にまで発展してしまうのです。 アダムとエバの子カインは、神さまが双子の弟アベルの心のこもった捧げものに目を留められ、自分のとりあえず携えてきた捧げものには、目を留めてもらえないのを逆恨みし、弟アベルを野原に誘い出し、殺してしまいます。 神さまを自分の中心に置かず、自分自身を自分の中心に置いた、人間の醜い自己中心的な態度が現れています。 そして、それからわずか10世代の間に、6章11節にあるように、地は神の前に堕落し暴虐に満ちた状態、人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くといったところまで堕ちてしまったのです。

1.神の裁き
その完全に落ちぶれてしまった世を、神さまはついに裁く決心をされます。 6節、「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」 7節の後半、「私は、これらを造ったことを残念に思うからだ。」とあります。 この文章だけを読むとちょっと疑問がわき起こってきます。 「あれ? 神さまは全てを見通され、完璧なんじゃないの? 結局、神さまも失敗したり、悔やんだりするってことか?」 しかし、原語で見てみると、この「悔やむ」と訳されている語と「残念に思う」と訳されている語は同じものが使われていて、さらに申し上げると、5章29節のノアの名前の由来のところで、“この子は慰めを与えてくれるであろう”の「慰めを与えてくれる」と訳されている語もまた、同じものが使われているのです。 「悔やむ・残念に思う」と「慰めを与える」、なんか逆さまの事を言っているようにさえ感じます。 このギャップからわかるように、この語はとても訳すのが難しい語の一つなのです。 ニュワンスは、むしろ「帳尻を合わす」、あるいは、「埋め合わせをする」といった感じなのです。 ですから、5章29節では、「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は埋め合わせをしてくれるであろう。」というのが、本来のニュアンスなのです。 そして、同じように、6章6,7節も、「地上に人を造ったことの帳尻を合わせよう。」というのが、本来のニュアンスなのです。 神さまは、この世を創造されたがゆえに、その被造物について責任を持っていらっしゃいます。 完全に堕落してしまったこの世に制裁を加え、帳尻を合わせるというのは、神さまの創造主としての責任の一つなのです。 神さまはその悪を相容れない御性質のゆえに、悪を野放しにはされないのです。 ただし、神さまはすぐにはその悪を裁かれません。 ぎりぎりまで人がその悪から立ち返るのを待っておられます。 しかし、このノアの物語は、ついにその神さまの我慢の限界にまで来たしまったというのです。

2.神の恵み
しかし、神さまの愛は、その裁きの時に至っても変わりませんでした。 そのような世にありながらも、神の前に正しく歩んでいたノアをお見過ごしにはなりませんでした。 神さまは、神さまと共に正しく歩もうとする者を決してお見捨てにはなりません。 神さまはノアとその家族を救うため、洪水に備え、巨大な箱舟を造るよう命じます。 長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビト、今のスケールに直すとそれぞれ、長さ132メートル、幅22メートル、高さ13メートルとなり、かなり巨大です。 それをノアは一体どのくらいの期間をかけて造ったのでしょうか? 一人でやったのか、人を雇ったのか、そういったことには一切触れず、ストーリーは続きます。 ノアは、この巨大な箱舟を制作しているとき、一体どのような心境だったのでしょうか? 「本当にそんな洪水が来るのだろうか? この世の全てが滅びるなんて、そんなことがあり得るのだろうか? 自分の財産も時間も全てを投げ売って、この箱舟につぎ込んでいるが、本当に報われるのだろうか? そもそも、自分が聞いた神の声は、本物だったのだろうか?」 周りを見渡しても、人々はいつも通りに生活し、大洪水の気配さえない状況の中、恐らくこのような疑問が心に浮かんだこともあったでしょう。 しかし、ノアはただひたすら、神の御声に聞き従い、箱舟を完成させました。 すると、神さまは、もう一度、ノアに語られ、つがいの動物と共に箱舟に入るように命じます。 全てが入ったことを見て、神さまはその箱舟の戸を閉じられます。 そして、その同じ日、ついに雨が降り出します。 7章11節、「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた」とあります。 そして、水かさは増していき、17節、ついに箱舟は押し上げられ、浮かび上がります。 箱舟が浮かび上がったのを身体で感じたノアの心境は、どのようなものだったのでしょう。 「本当に来た。 やっぱり本当だったんだ。」 心の中に何度も湧き起こった疑問と葛藤に打ち勝って、信じてここまで来たことに胸をなで下ろしたのではないでしょうか?
しかし、その漂流生活が2ヶ月・4ヶ月と続くにつき、また、別の恐れが湧き起こってきたのではないでしょうか? 一体いつまで続くのだろう。 自分達やこの箱舟はこの洪水が引くまで本当に持ちこたえることができるのだろうか?

ここで少し、このノアの物語で使われている文学的技法について触れてみたいと思います。 この物語、実は逆放物線のようにある一点を境に左右対称になっているのです。 わかるでしょうか? 実際に見ていくともっとよくわかると思います。 まず、6章5節から11節まで序説があり、13節から22節まで“神さまの最初の契約”があり、7章1節から5節まで“神さまの箱舟に入れの指示”があり、6節から24節まで“水が満ちていく話”があります。 ここを折り返し地点として、今度はこの逆さまのパターンが始まります。 8章1節後半から14節まで“水が引いていく話”があり、15節から22節まで“神さまの箱舟から出よの指示”があり、9章1節から16節まで“神さまのノアとの契約”があり、最後17節“結論”となっています。 これは、ヘブル文学のカイアズムと呼ばれる技法で、旧約聖書を通して頻繁に用いられていますので、このパターンを探しながら聖書を読むというのも、聖書通読を楽しくしてくれる助けになるかも知れません。 この技法では、ちょうど折り返し地点のところに、最も大切なこと、ポイントとなることが置かれているのです。 ノアの物語では、その最も大切なこととは一体なんでしょうか? 水かさが増して、今度は減り始めるちょうどその境です。 8章1節の前半、「神は、ノアと、箱舟の中に彼と一緒にいた全ての獣や、全ての家畜とを心に留めておられた。」 “神さまは忘れていなかった。” “こんな大変な裁きの真最中にでさえも、神さまはその御心にかなうものを、決して見捨てはしない。”というのが、このノアの物語の最も大切なメッセージなのです。

3.神の愛・キリスト
やっと水も引き、箱舟からおよそ一年ぶりに地上に降り立ったノアと、神さまは契約を結ばれます。 21節、「わたしは、決して再び、全ての生き物を打ち滅ぼすようなことはしない。」 その理由として、神さまはこうおっしゃってます。 「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」 罪とは、神様の意志よりも自分自身を第一にすることだと先程申し上げました。 その罪はあまりにも人間に浸透し過ぎていて、誰もその束縛から自分の力で自由になることはできない。 神さまは、ノアもまた完璧ではなく、同じ歴史が繰り返され、再び地上に悪が満ちるのを御存知でした。 しかし、また同時に、肉体の滅ぼしは最終的な問題の解決にはならないことも御存知だった。 問題の中心は、人の心の中、すなわち霊にあるということを、神さまはここでおっしゃっているのです。
しかし、これは、神さまが「しょうがないから罪を見逃してあげるよ、もう裁かないよ」と言っているのではありません。 9章11節では、「全ての肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。 もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはしない。」と、明確に、水によって滅ぼすことは二度としないと言っているのです。 他の聖書箇所では、次に来る裁きは火によるものだと再三出てきます。 裁きは必ず、またやってくるのです。 今度の裁きは、肉体的な裁きというよりは、霊的な裁きというニュアンスが強いようです。
なんか今日は、裁きだとか滅びだとか、やけに暗いネタばかりだなーとお思いだろうのところに追い打ちをかけるようで申し訳ないのですが、肉体の滅びは一瞬だけれども、霊の滅びは永遠に続くのだということが聖書には示唆されているのです。 第一ペテロ3章には、キリストが捕らわれの霊たちのところに行って、裁きを下すという記事があるのですが、その捕らわれの霊の説明に、「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。」とあるのです。 この洪水の時に肉体的には滅びた人々も、霊においてはまだ生きているということが示唆されています。 また、火による霊の裁き、永遠に続く霊の滅びについても、金持ちとラザロのたとえ話や、また身体の一部を失っても身体全体、燃えるゲヘナに投げ込まれるよりは良いというたとえを用いて、イエスさま御自身が示唆されています。 死や滅びは一瞬の苦しみではないのです。 永遠の苦しみなのです。 むしろ私達がこの地上に生きている期間の方が、一瞬なのです。

「またー、トムさん、怖いことばっかり言って、脅かしてー」と思われるかも知れない。 でも、脅かしているのは私ではなく、神の御言葉です。 私だって怖いのです。 私たちがどれほど神の裁きを真剣に、そして深刻に受けとめるかで、私たちがどれほどイエスさまがこの世に来られたクリスマスを喜べるかが決まるのです。 まさに裁きなくして、恵みなしです。
神さまの正しさ・義は神さまの御性質の一部であり、曲げることはできません。 神さまは罪を必ず裁かなくてはならないのです。 でも、人が自分を中心とする罪から逃れられないということは、神さまご自身が認められています。 ということは、当然の成り行きとして、神さまは全ての人間を裁かなくてはならないことになります。 私たちは全員、永遠の滅び、燃えるゲヘナに投げ込まれる運命にあるのです。 それが、私たちが罪にまみれた日々の中で稼ぎ出した当然の報いなのです。

しかし、神さまはそんな世の中にあっても、神と共に歩みたいと願う人達をお見捨てにはなりません。 ノアの物語のポイントを思い出して下さい。 カイアズムのあの真ん中の言葉です。 「神は決して見捨てない」でした。 神さまの愛や憐れみの深さは、その完全な義・正しさを越えているのです。  しかし、ここにとんでもなく大きな矛盾が生じます。 罪は必ず裁かなくてはならないという神の正しさと、神と共に歩もうとする人を守りたいという神の愛との間の矛盾です。 この究極的な矛盾の唯一の解決がイエス・キリストなのです。 2000年前に神さまはご自分の一人子イエス・キリストをこの世に送られました。 この世において、唯一、罪がなく、ただ神の意志を行うことを貫かれたイエスさまに、神さまは人々の裁かれなくてはならない罪を全て負わせて、人々の身代わりとして、ご自分の御子イエスを十字架上で裁かれたのです。 神さまは私たちを贖い出すために、ご自分を傷つけることを選ばれたのです。 そして、私達の罪を全てキリストが負ったように、今度はキリストのその完全な義・正しさを私たちにかぶせて下さって、神さまの前に正しいとされる・義とされる道を開かれたのです。

実は、先程ご説明したカイアズムの技法ですが、聖書全体もその構図で出来上がっていると見る見方もあります。 一番最初に神さまは、完全なパラダイス・エデンの園を造られました。 そして、聖書は一番最後もパラダイスで閉じられています。 黙示録には、「聖なる都・新しいエルサレム」とあります。 そして、最初のパラダイスの後には、罪を犯した人間の裁き、今日一緒に見てきましたノアの箇所があります。 そして、最後のパラダイスを迎える前に、神さまの火の裁きがあると記されています。 そして、ノアの贖いの後、イスラエル民族の選びイスラエルの人々の神さまとの関係の確執があります。 そして、最後の裁きの前に、現在の私たちの神さまとの関係の確執の時があります。 そして、この折り返し地点・最も大切なことが来るこのポイントには一体何があるのでしょう?  そうです。 キリストです。 キリストがこの世に来られ、私達の罪を贖って下さったという事実が来るわけです。 それこそが、この聖書の中で、最も大切なことなのです。

まさにキリストは私たちを永遠の裁き・滅びから救って下さる唯一の希望であり、神の私たちへの愛の結晶なのです。 キリストがなければ、私たちの希望も、私たちの神との正しい関係も、贖いも何もないのです。 私たちは、まさに夢も希望もなく、この世を苦しみにまみれて終え、そしてさらに苦しい永遠の裁きを待つだけの身なのです。

適応
私たちは、このような神さまの壮大な計画の中にいる自分を、日々の生活の中で意識しているでしょうか? つい、大変な日々の生活にまみれて、目先のことだけしか見えず、いつも自分の置かれた状況に不平不満ばかりを言って、神さまが私たちのために多大な犠牲を払って用意して下さった、私たちの存在の中枢に関わる、神さまの深い愛の業を忘れてしまってはいないでしょうか? あるいは、あまりにも平凡な毎日を過ごすあまり、何となく自分は今のままでOKだと勘違いしてしまって、神さまのその聖さ・正しさに照らした自分の罪の深刻さをないがしろにし、その裁きが来ることを真剣に受けとめずにいるのではないでしょうか? そういった状況下では、本当にキリストの生誕を喜ぶことはできません。

あと一週間くらいで、キリストの生誕を祝うクリスマスがやってきます。 それまでに、私たちは、自分自身にもう一度、自分にとってキリストとは何なのかを問い直してみたいと思います。 価なしに受け入れられ、罪許されて、キリストの用意して下さった箱舟に既に入れてもらっているという喜びを思い返してみたいと思います。 そして、喜びと感謝に溢れて、クリスマスの日を待ち望みたいと思います。

そして、まだ、キリストの用意して下さった箱舟に入っていない人は、もう一度、創造主であられる神さまのこと、自分中心にしか生きられない罪にまみれた自分自身のこと、そしてその為に裁きが来ること、キリストがその罪を背負って自分の身代わりに十字架上で裁かれたことを、このクリスマス、じっくりと考える機会として頂けたらと思います。 そして、ただ信仰によって、神さまが為されたその愛の業を受け入れて下さい。 キリストの箱舟は今、大きく扉を開いて、あなたの乗船をお待ちしています。 何も支払う必要はありません。 ただ、創造主である神さまを無視して、自分中心に生きてきた生き方を思い直し、神さまに向かって歩む決心と共に、キリストを心の中に受け入れて下さい。 それがあなたの救いのチケットです。 裁きが来るのを信じずに、水に呑まれていったあの捕らわれの霊のようにならず、裁きの水をくぐって救われたノアになって下さい。
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