12月12日 王様のお通りだ! マタイ2:1ー12

 序

 皆さんのなかには今年第二次大戦のユダヤ人ホロコースとを描いた映画”Life is Beautiful”をご覧になった方がいると思います。この映画の監督兼出演者であるロベルトベニジンによって作られたこの映画はアカデミー賞にもノミネートされました。その最中に彼はこの映画の大ヒットであるテレビのトーク賞に出演したときのことです。なんとローマ法皇までがこの映画を見たがっていて個人的にともにこの映画を鑑賞したいといっていることに話題が上りました。そこでトークショウのホストがたづねました。『ローマ法皇があなたに会いたいということを聞いてどうでしたか?』

ベニジン監督は『そりゃあもうわくわくしました。新しいスーツを新調し何を話そうかいろいろ考えましたよ。』ホストが『さてとうとう法皇にあった時どうでした?』ベニジン監督は『もう彼の前にひざまずき、指輪にキスをしていました。』ホスト、『ちょっと待ってください。あなたはユダヤ人でしょう。』彼は『そんなことは関係ないよ!あんな偉大な人の前に立ったらすぐに敬虔なカトリックさ。』

 そう、この監督が以前にどんな思いを法皇やカトリックに抱いていたかなんてことは問題ではなかったのです。彼が偉大なものにであったときにそれに敬意を表するためにひざまずき指輪にキスをせざるにはいられなかったのです。

 皆さん!私たちは今朝もっと偉大な存在に気付くことでしょう。それは私たちの救い主、イエスキリストの存在にです。しかしそのニュースへの私たちの反応はどうでしょう?われらの主であるイエスキリストは神として、そして人間として約二千年前にマリアの胎に入りそして生まれてくださいました。私たちの間で生きるために人となって下さった神は人間の喜びと試練を味わって33年後十字架で死に三日目によみがえり今も天で父ななる神の右に座しておられます。天の父は地上における権威をイエス様にお与えになりました。それはイエス様がこの世のすべての王となるためです。皆さんが実感しているかわかりませんが、イエスキリストはこのへやの皆さんの王なのです。でも皆さんにおたづねします。そう聞いて私たちの反応はどうでしょう?喜び?おそれ?怒り?それとも無関心?

 マタイは12:1ー12で今日、皆さんに王であるイエス様の誕生を礼拝することを説いています。今日は王であるイエス キリストをさらに深く礼拝することができるよう三つのステップに区切って学びましょう。

1.王であるイエス様の偉大さを認める。1ー3節

 これらの聖句は王であるイエスの誕生がようやく広がりはじめたところです。でも、面白いことにその知らせを聞いた人々の反応はざまざまでした。この知らせを聞いた博士たちは自分たちのやっていたことをすべて中断し、救い主を探して礼拝しようとしました。しかし、ヘロデ王とエルサレムの人々は困惑し、恐れを抱きました。このように人々は同じ知らせに違う反応を示したのです。

 ところが不思議なことに王であるイエスの誕生のニュースを人々はまったく無関心ではなかったのです。当時の人々はこのお方の誕生が自分たちの生活にまで何らかの影響を及ぼすことを知っていたからでした。どうしてでしょう?それには二つの理由があります。

第一番目の理由:ユダヤ人はミカ書5章によって、ローマ人もローマの歴史家達がのこした多くの書物によってこの時期に救世主がユダヤから来ることを予想していたのです。だからエルサレムのユダヤ人達は東方から博士達がやってきて王なるイエスの誕生のことを聞いたときついにその方がいらしたことを察したのでした。

第二番目の理由:この博士達とユダヤ人達はこの王であるイエスという存在がどんなに大きな変化を個人にもたらすかをよく知っていました。わたしたち日本人、アメリカ人は今そのような王政のもとで生活を経験していません。あまり実感がないわけです。聖書には、イエス様はあなたの主であり王でありあなたの上におられる方で、私たちの人生を左右することができる力をもっておられる方であるこいとが記されています。

 私がハワイにいたころ、ブッシュ大統領がハワイに来ました。アメリカの一番の権威者がやってくるということにとても興奮しました。しかしその日、いつものように大学の授業にいこうとすると、小さなホノルルの町のことです、すべての高速道路は交通規制により閉鎖されてしまいました。私は午前に受けるはずの試験が受けられなくなってしまいました。

 そこで私はわかりました。大統領が訪問してくれることは大変うれしいことですがそれによって私のような人にまで影響と、犠牲が及ぶということです。同様に私たちにとって王様の御臨在を受け入れるということは大いなる喜びであるとともにその方の御計画のもとに生きる、すなわち自分に不便なことであってもそれを受け入れて生きるということになるのではないでしょうか。自分をすべてゆだねるだけではなく、主、王と呼ばれるそのお方の望まれるよう生きるということがクリスチャンになるということなのです。

 先日、私がであった女性のお話しをしたいと思います。彼女は真剣にイエスキリストの救いを求め、心に受け入れました。信仰と、希望と愛を受け入れたのです。ところが、一つだけ受け入れられないものがあったのです。彼女は『どうしても教会だけにはいきたくない。』と言うのです。

 そういうわけには行かないのでしょうか。王であるイエスキリストは多くの理由から私たちに教会に行くようにといています。多くの兄弟姉妹とともに神を礼拝すること、イエスキリストのからだの一部としてお互いに信仰を成長させること、そして毎週王であるイエスキリストの恵みを体験することなどなど。彼女は王であるイエスを受け入れるための犠牲を払うことができなかったのです。彼女はイエスキリストを救い主とよぶことはできても、『王』『主』よぶことができないのです。本当に近い将来彼女がそういうことができるよう祈ります。

 さあ、1ー3節で私たちは王としてイエスを私たちの心にお迎えするということを教えられました。東方の博士たちやヘロデ王がすでに知っていたように、イエスキリストを王として迎えるときの私たちが差し出す犠牲についてもう少し考えて見ましょう。

2.自分自信が、どのようにイエス様へと導かれているか探る。4ー10節

 皆さんの人生が王であるイエスキリストに従うことであり、それには個人の犠牲が必要であると知って、そのうえで皆さんは神様に礼拝する準備ができていますか?今一度どのように神様が私たちを各々違った方法で王であるイエスキリストに導いて下さったのか考えて見てください。

 4ー5節では神様は祭司長や学者を用いてヘロデ王にそれを示しましたが、9ー10節では星を用いて東方の博士たちに示しました。創造的な心の持ち主であられる神は王であるイエス様に人々を導くために様々な方法を用いられたのです。

 これはヘロデ王や博士たちだけのお話しではありません。イエス様を王として受け入れる方たちは皆そのユニークな方法ということがわかるはずです。この教会に集う人々を例にとって見ましょう。神様はソフトボールという魅惑を用いてあの渡辺健さんをこの教会にそしてイエス様へと導かれました。神様は家内のけいこにはハワイの教会で礼拝後にみんなでいく昼食を用いてイエス様へと導かれました。神様はわたしには人生の無意味さへの失望感をとうしてイエス様に導いてくださいました。皆さんの一人一人が、間違いなく似たような神様の独特な方法によってイエス様に導かれたと証できることでしょう。

 でも、この王であるイエス様に導いてくれた神様の力は信者になったときに終わってしまったわけではないのです。今日、このときも続いています。精霊が今でも私たちのうちから人生を王イエスの存在に積極的に近づけてくれているのです。でも精霊様は一人一人違った形で私たちにはたらいて下さっています。

 たとえば皆さんが忙しい日々の生活からふとはなれたとき、どのように神様はあなたに語りかけてくれますか?神様はあなたの生活のなかのどこで会いにいてくれますか?

 ハッチー兄弟の場合はおおいなる自然とふれあっているときにイエス様と特に身近に感じることそうです。わたしの場合は聖書を読んだりキリスト教に関する書物を読み耽っているときに神様の声を聞くことができます。神様の小さなお声を聞くチャンスは私たちが聖書を読んでいるときに大きいとわたしは思います。なずなら聖書には神様の物事に関するお考えがすべて書かれているからです。人生のこと、家族のこと、仕事のこと、お金のこと神様御自身のことーすべてにわたってです。私たちがあれやこれやと頭のなかで思いめぐらすことが神様から来ているかどうか、聖書と照らし合わせて確認する必要があるからです。だから私たちが生活のうちに神様の小さな声が聞こえたと感じたときには『これは神様が聖書でいわれている御心と一致するのかな?』と問いかける必要があるのではないでしょうか。

 そしてこのように神様のみ声を聞くようになっていくと私たちの祈りが一方通行ではないんだということを確信していくのです。神様は私たち一人一人に何か話しかけたいのです。そして神様はとても創造的に独特の方法で私たちの性格や関心のあることを利用して近づいてくださいます。でも私たちはどのように神様が今日もイエス王の本に導いて下さるのか目を開き、耳をすましている必要があります。

3・イエス様を見つけたなら、主にすべてを捧げる。11ー12節

 私たちは今日真の礼拝への第一ステップで1)王であるイエス様の偉大さを認める。ということを見てきました。そこではイエス様を王と呼ぶ人生とは何なのか、そしてそれに対する犠牲、またそれを喜んで払うということがどういうことなのか、という問いかけがありました。

 私たちは真の礼拝への第二のステップで2)自分自身が、どのようにイエス様へと導かれているか探る。ということを見ました。どこで神様は私たちとお会いになるのか、どのように神様は私たちと対話されるのか、そういった機会を積極的に活用しようとするか、それとも無視してしまうのか。

そして今私たちは11ー12節をとうして真の礼拝への第三ステップ3)イエス様を見つけたなら、主にすべてを捧げる。ということを学びます。

 12節で博士たちはどうしてヘロデ王の元へはもどるなといわれたのでしょう。ヘロデは8節でわたしも王であるイエス様を礼拝したいといったのに。でも18節を見てみるとヘロデ王がうそをついていたことがわかります。彼にはイエス様を王として認める気は毛頭なかったのです。もしそうするとヘロデは王の冠を返上することになるからです。彼にはとてもできることではありませんでした。彼の王イエスへの恐れは憎しみへと変わりその赤ん坊を殺そうとするのです。イエス様がすべての王であるということを知って恐れを抱き逆に神や宗教に憎しみを抱いてしまう人がいます。

 でも11節で明るい出来事を見つけます。この博士たちは神様の導きにより王であるイエスに彼等のすべてを捧げたのです。なにも手元に残さずすべてをです。ここに私たちは真の礼拝がどのようなものなのかを美しい形で見て取ることができます。博士たちから真の礼拝に必要な3つの事を学ぶことができます。

1)彼らは王イエスを礼拝するために時間を作り出した。

 博士たちが自国で星を見つけた時、『新しい王が生まれた?ちょうど新しい星を見つけたばかりで研究が忙しくていけないよ。』と言ったでしょうか?いいえ、彼等はすべてをさておいて新しい王のことを知るためにユダの地に学者たちをおとづれたのです。私たちはどうでしょうか?

 さて、私たちはどのくらい真剣にイエス様を知りたいと思っているでしょうか?今日皆さんが教会に集っておることは大変素晴しいことです。でも週に一回教会で説教を聞くことだけではどうやって神様のために生きて行くかを知るには不充分です。皆さんが大変多忙な日常を過ごしていることを知っています。でも家内(けいこ)がいつも私に言うんです、『もしあなたに本当に大切なことがあるなら、どんなことをしてでもそのために時間を作るはずよ。』。真の礼拝者は神様ののために時間を作るのです。

2)彼らは神様の前でへりくだった

 博士たちはイエス様の生まれた建物にはいて言って、『へえ〜、これが王様か!』とは言いませんでしたね。彼等はイエス様が王であるという意味を良く知っていました、だから大いなる敬意を表したのです。真の礼拝者はイエス様が本当に親しい友であることを知っています。しかし、真の礼拝者は決してイエス様が主であられることを忘れはしないのです。

 もしあなたが真の礼拝者になりたいのならこう尋ねて見てください。『わたしの生き方は王であるイエス様に喜んで頂いているのだろうか?私の価値観、ライフスタイル、自分の夢は神様の御心にしたがっているだろうか?私はまだ幸せとは自分のしたいように生きることだと思っていないだろうか?』真の礼拝者は『真の自由は義の奴隷である。』といった使徒パウロに賛同の意を表するでしょう。自由は主の前にへりくだることによってあなたのうちに来るのです。

3)彼らは最善のものを王に送った

博士たちは欠けたカップや食べかけの食べ物を贈り物をもってきたりはしませんでした。来週のプレゼント交換はちょっと違いますけどね。彼等は素晴しいものを贈り物として用意しました。黄金、乳香、没薬でした。彼等はイエス様に対してその愛と尊敬を彼等にとって最高のもので表わしたのです。

真の礼拝者は余っている時間や、余裕のある才能や、余っているお金を差し出したりはしません。『どうやって今日の一日をあなたの栄光のために用いましょうか?どうやってあなたが私に与えて下さった賜物をあなたと周りの人々に用いましょうか?どのようにあなたが私に与えてくれたお金を御国の建設のために用いましょうか?』真の礼拝者は主を愛するときに犠牲がともなうことを知っているからです。愛とは常に犠牲をともなうものだからです。

 私たちはマタイの2章1ー12をとうしてイエス様の誕生の知らせが私たちが主に礼拝するよう求めていることを学びました。クリスマスストーリーのこの部分は私たちにどのようにしんにイエス様を礼拝するかを説いています。

1.王であるイエス様の偉大さを認める

2.自分自信が、どのようにイエス様へと導かれているか探る

3・イエス様を見つけたなら、主にすべてを捧げる。

お祈りしましょう。