2000年12月10日
ヘブル12:14−29 「聖さを求めて」
序.聖さ、あるいは聖くされるという意味で聖化という言葉があります。キリスト教の教えの中では大切な事の一つですが、私の生まれ育った教会では、この聖さということを大変に強調しています。ですから、私にとっては聞き慣れた話題なのですが、こうして説教する時は難しさを感じます。と言いますのは、教派によって強調する点が多少違います。別に福音自由教会では聖化を話さない訳ではありません。ただ、この教会もそうですが、いろいろな所から人が集まっていますから、他の教会で育った人にも分かっていただけるように、という事に気を使うわけです。でも、本当はどこの教派かということは問題ではありません。神様が聖書を通して何を語っておられるか、が一番大切です。今朝は、このヘブル書12章後半を通して、「聖さを求める」ということをともに考えたいと思います。まず、初めに、この「聖」とは何か、聖さを求めるとはどういう事か、についてお話しします。次に、聖さの反対は何かということを考えます。その次に、「聖くなりなさい」とおっしゃる神様の言葉に従うことの大切さについてです。最後に、聖さを求める生活をする秘訣を探ります。
1. 神の求める聖さ
14節は、二つのことを追い求めなさい、と語っています。その内の一つは「全ての人との平和ですが、これは、聖さと無関係ではありませんが、主に次の13章で語られる内容に近いので、次回にお話します。もう一つが、今日のテーマでありま「聖さを求める」、正確には「聖められることを求めなさい」と書かれていることです。実は、ここでは「聖さ」とは何かという肝心なことについてはあまり書かれていません。唯一、書かれていることは14節の後半です。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」。神様は目に見えないお方です。ですから神様が見えるほどに聖くなるなんて生身の人間には不可能です。では、聖さを求めるなんて、しても無駄、しなくてもよい、という事ではありません。それは神様の御心だからです。
少し戻って、10節を見ますと、「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして」と書かれています。神様ご自身が私たちを聖くしようとしておられるのです。この聖さとは、ここでは神様のものだと書かれています。
神様のご性格である聖さを私たちにも与えようということです。これは神様からの一方的な恵みなのですが、同時に14節を通して、私たちがその聖さを追い求めることを命じておられるのです。
聖書に書かれている神様の聖さということをちょっとだけお話しします。神様はこの世界の何よりも遙かに上の存在です。人間がどんなに偉いと思っても、神様は遙かに偉いお方です。この神様が超越したお方であることを「聖」と言います。この世界とは区別されるお方、という事です。神様に属するものも、区別されるという意味で聖なるものと呼ばれます。神様の霊は聖霊です。神様の言葉を書いた書物が聖書です。
旧約では、神様が住んでおられる、ということで聖所というものがありました。この聖所で神様に仕える人や、そのときに使う道具は、儀式をして聖いものとされました。クリスチャンは、ある意味では、神様のものとされたという点で聖いものだと書かれています。神様から離れたこの世界は罪に染まっていますから、神様のものとされた私たちは、その罪から離れた生き方を求められています。ですから、聖さには正しさも含まれます。罪あるままで、つまり聖くない者が神様に近づくなら滅ぼされてしまう。それほど神様は聖いお方です。
ヘブル書では、救いを「神に近づく」と言うことがあります。聖なる神様に近づくには、聖くならなければなりませんし、また近づいて行くときに神様の聖さが私たちに加えられていきます。これは神様が私たちにして下さることです。私たちは自分で自分を聖くすることはできません。しかし、すべき事がある。それが「聖められることを求める」ことです。なぜ、そんなことを神様は命じられるのでしょうか。それは、人間はその反対を求めがちだからです。
2. 聖さを妨げるもの
さて、15節。ここでは聖さを追い求める生活をするに当たって注意すべきことをあげています。「よく監督して」と言うのは、お互いによく注意しなさい、ということです。何を気をつけるのかというと、まず、「神の恵みから落ちないように」。
神様が与えて下さる様々な恵みがなければ、救いの達成も、聖められることもあり得ません。神様から離れないようにすることは、神様に近づき聖められるために不可欠です。第二に、「苦い根」、これは罪の事を指しているのでしょう。雑草を刈り取っ
ても、根っこが残っていますと、また芽を出して大きくなります。同じように、罪を赦していただいても、その罪の根がまた芽を出し、私たちを悩ませ、汚します。罪の問題に対して、細心の注意が必要です。第三に、16節。不品行とは性的な罪です。
不品行な者や、エサウのような俗悪な者にならないように、と呼びかけています。エサウという人は創世記に出てくる人物ですが、彼にはいろいろな問題がありました。
話が長くなるので、今日は詳しいお話はしませんので、あとで読んで下さい。16節では、俗悪とはどういう事かを一つの例で説明しています。エサウは神様からの祝福を戴くという長子の権利を、おなかがすいていたので、一杯の食物と引き替えにして
しまいました。肉体の必要を満たすことはもちろん大切です。しかし、欲望を満足させることを神様よりも優先させることは間違いです。ただし、反対の極端で、神様の祝福を得るために肉体の全ての欲求を抑えるという、禁欲主義も問題ですが。
俗悪の「俗」という言葉は、旧約聖書の中ではたびたび、「聖さ」の反対語として出てきます。またこの世に属するものも俗といいます。俗的なもの、つまり食べ物などの、この世のすべてを離れていれば良いのではありません。この世を離れて生活しは、イエス様がクリスチャンに託された宣教の使命は果たせません。では、俗なる世界に住みながら、聖なるものを求める、とはどういう事でしょう。それは「選択」です。
肉体の欲求を満たさなければならないときもあります。おなかがすいて食事時になったら食べるのが普通です。そこには何の問題もありません。しかし、聖なるものを選ばなければならない時もあります。そういう時に俗なるものを選び取るなら、エサウと同じです。日曜日に礼拝をするために教会へ行きます。もちろん、行けない事情があることもあります。しかし、そうではないのに、自分の欲望のために、楽しみのために、違うことを選ぶなら、神様の恵みから離れてしまいます。聖書を読もうと決めた時間に、今日は面白いテレビがあるから、というのではいけません。さらに自分で選べる場合もあります。二つの内どちらを選んでも良い、その時にあえて神様に係わる方を選び取る。これが選択です。時には肉体の欲求を満たすはずの時に霊的なことを求める事があります。食事の時間になったが、今、どうしても祈りたい問題がある。その時に食事をとらないで祈り続ける、これが断食です。単に食事をしない、というのは絶食です。断食は、祈らなければならないという神様からの迫りを感じたときに
行うことです。ですから、神様からの呼びかけに応答する選択をすることが大切です。
3. 神からの呼びかけ
18節から21節はモーセとイスラエルの民がシナイ山で神様から十戒を授かった時のことを取り上げています。「その光景が恐ろしかった」と21節に書かれています。神様が怖いから、いやいや従う、というのは本当の信仰ではありません。ヘブ
ル書には何度か厳しい言葉で勧告しているところがあります。一見、脅しているようですが、脅されたから従う、というのも正しくありません。きつい言い方をしているのも、読者に正しい方を選び取って欲しいからです。クリスチャンが近づいているの
は、恐怖の山ではなく、22節。天のイスラエルであり、大祝会だと言っています。喜びと祝福に近づいているのです。いえ、もうクリスチャンとなった時から近づき始めたのです。
この、「恐ろしいことと祝福、どちらを選ぶか」という言い方は、今の私たちはあまり好まないかも知れません。これは、旧約聖書に良く使われるスタイルですので、ヘブル書の最初の読者にはなじみ深い、分かり易いことだったでしょう。しかし、言い方は問題ではない。表現の仕方が二者択一型であっても、脅かしのような言葉であっても、とにかく著者は正しい方を選んで欲しいのです。そして、聖書を造られた神様は、この箇所や他の所を用いて私たちにも語っておられるのです。その言葉の前で、私たちはどちらを選ぶか、従うか否か、と選ぶのです。この神様の語りかけを拒まな
いように、と25節は語っています。
神様はいつ語っておられるのでしょうか。聖書の言葉は、7日間、24時間、いつでもそこにあります。しかし、読まなければ聞けない。ところが、呼んでも分からないことがあります。内容は理解できても、神様からの語りかけとしては聞こえないこともあります。聖書の言葉を神様からの語りかけとして感じることができるのは聖霊によることです。時には聖書だけでなく、生活の中の様々な出来事をも用いて神様は語りかけておられます。特に救いや恵みを語っておられる声をいつまでも退け続けるなら、どこに救いの道があるでしょう。
4. 聖さを求める生活の秘訣
聖さを求める生活というのは、神様からの語りかけを一言も逃さないように、いつも緊張しなければならない、えらく疲れる生き方なのか。そうではありません。一つの秘訣を心得ているなら、そんな悲壮な道ではないのです。それは、恵みはすで
に与えられている、ということです。
聖さ、ということに関して言えば、救われた時にすでに私たちはある意味で聖いものとされています。そして、その聖さが今、成長しているのです。やがて、天の御国にいったときに完成します。すでに与えられ、天国で完成する。今はその間にいるということ。これは、他の事についても言えます。約束もそうです。救いの約束はすでに与えられています。その成就は天に行った時です。しかし、約束された神様は真実なお方ですから、このお方を信頼するなら、約束は確実なのです。28節で「私たちは揺り動かされない御国を受けている」と書いてあります。そのことが分かっているなら、喜びと感謝が生まれます。そして、それが祝福であることを味わったなら、選ぶことは難しいことではなく、進んで恵みを受け取ろうとするはずです。ですから、すでに与えられた恵みを味わうこと、それが秘訣なのです。私たちが今までに与えられた祝福を思い、また少しずつですが、神の形に造り替えて戴いてきたことを思い出すのです。聖書は、何も無しに選べ、と語っているのではありません。まず、最初に神様が恵みを与えて下さった。それに私たちが応答するのです。
最後の29節には、ちょっとどっきりすることが書かれています。「私たちの神は焼き尽くす火です」。確かに神様は侮られるようなお方ではない。恵みを踏みにじるようなことはしてはいけないと思います。だからこそ、「慎みと畏れとを持って」、
真剣に神様の声に答えて行くのです。恵みを無駄にするのではなく、愛して下さったお方に心から応答して行きましょう。
まとめ.
先に神様の方から恵みを与えて下さったことをもっとも良く表したのが、キリストです。神様の方から私たちに近づいてきて下さり、救いの道を完成して下さった。ですから、クリスマスは神様の救いの業がすでに始まっていることの証拠であり、
恵みの始まりなのです。ですから、クリスマスの本当の意味を知った私たちは、心から喜び、感謝し、祝おうではありませんか。世の中では、本当に意味を知らずに、楽しみだけのためにクリスマスを利用しています。だからと言ってクリスチャンはクリ
スマスを楽しんではいけないのではありません。今年のクリスマスはみんなで断食をしましょう、とは言いません。私たちが選ぶべきことはこうです。キリストが来られたことの意味をもう一度確認し、神様の愛を味わいましょう。また、救いを与えていただいた事を感謝し、喜びましょう。そして、私たちのためにこの世に来て下さったキリストに心から仕え、この愛を他の人にも伝えましょう。今年のクリスマス、一人一人が神様の御心にかなった過ごし方をしようではありませんか。