2001年12月9日礼拝説教『初めに、ことばがあった』
ヨハネ1:1〜18
ある牧師がカラチへの旅で飛行機に乗った。機内の席に着いて、隣の人と普通の挨拶のことばを交わすとすぐ、その若いパキスタンのイスラム教徒である医師がその牧師に言った。「イエスの生涯のことを話してくれませんか。私は本当のところ、何も知らないのです。」
あなたなら、こういう場合、どんな話をするだろうか。
@ ヨハネの宣言
1節から5節の冒頭の箇所で、ヨハネの主題が要約されている。最初からこの福音書は、イエスは神であることを示すために書かれている。それを読む人たちのうちに信仰が生まれるためであり、彼らが永遠のいのちを持つためである。この序のことばは、イエスはどなたかであるかを力を込めて語っている。
1世紀のユダヤ人にとっては、また現代のイスラム教徒にも同じであるが、ヨハネの福音書の主張は衝撃的であった。イエスが神の啓示であると言う。18節はそれを主張している。またイエスが神への道(ヨハネ14:6)であるばかりか、「神である」というからである。
ヨハネは、この世界の初めに心を向け、神のご本質に心を向けている。彼は、まず、時間と歴史に関連してイエスのことを告げる。神のことばにより世界が存在するようになった時の(創世記1:1)、力強く、創造的な「ことば」はキリストであった。ユダヤ人は、初めに知恵が存在していたという考えを認めていた。箴言8:12はそれを確証させる。しかし、ヨハネはここで、この「ことば」は神の永遠のご性質を共有しておられる独自のお方であると言っている。
イエスの誕生は、神の救いの計画の歴史上の新時期を画することであり、また神ご自身にかかわる新しい啓示である。
A ヨハネの愛と願い
この第4福音書を書いたヨハネは、激しい気性(あだ名:「雷の子」)
と大望と勇気の人であったが、それと共に愛の人であった。ヒエロニムスはヨハネの最後の言葉について次のように語っている。彼が死に臨んだ時、弟子たちは彼らに残す最後の言葉はないかと尋ねた。「子どもたちよ。互いに愛し合いなさい」とヨハネは言った。それを何回も繰り返したので、弟子たちは、語らなければならないことはそれだけなのかと尋ねた。「それで充分だ。それは主の命令だから」と彼は言った。第4福音書は、その愛の使徒のよって書かれた。
彼はこの書を「イエスが神の子キリストであることをあなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため」(ヨハネ20:21)という特定の目的のために書き記したのである。
4節と5節。「ことば」はこの世界の中でいつでも働いてこられ、人にいのちと光を与えるだけでなく、神ご自身をも知らせてこられた。罪と悪の世のやみにもかかわらず、この光は決して消されたことはなかった。だが今、イエス・キリストのうちに輝こうとしていた。ヨハネは、歴史の中で肉体を持ったことばであるイエスが生まれたことを、全ての人が知らなければならないと愛をもって語るのである。
B ヨハネの確信
私たちが、歴史をキリスト前とキリスト後、紀元前(BC)と紀元後(AD)の二つの時代に分けているという事実は、キリストの来臨の決定的な重要性を示す。それはまた、人々にとっても決定的なものであった。
ヨハネは、「ことば」は罪深い人間の世界に入って来られたが、大多数の人は受け入れるのを拒んだと言う。主は地上の生涯について言えば、ユダヤ人の間にユダヤ人として誕生された。しかし「ご自分の民」の大部分は主を退けた。しかし12節と13節は栄光ある真理について語る。イエスは、ユダヤ人としての背景をもって誕生されたが、ユダヤ人でも異邦人でも、御名を信じる全ての人を神の家族の中に新しく生まれさせるために来られたのである(3:1〜15)。もはやユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫であるから当然神の子どもであると思うことはできない(13節と8:31〜47)。
主を拒んだ人たちとは対照的に、ヨハネをはじめ、主を信じるすべての人は、イエスが人間のかたちをとられた神の栄光の啓示であると認めていることを喜びをもって証しする。人となられた神のことばである方において具現された恵みとまことは、モーセを通してシナイ山で与えられた律法の契約の示した、神のことばの恵みの成就である。こうして、キリストの新しい創造である新約の教会が生まれた。その教会に属する私たちは、世々の教会の証しに自分たちの証しを加えることができるのである。
14節のことばこそ、ヨハネの確信であり、私たちの確信である。