12月5日 千代崎師 ミカ書1〜5章 「救い主の生まれた場所」
序.今日はアドベント(待降節)の、実は第2週でして、先週はリトリートがあったので第1週をスキップしてしまいました。いきなり、ろうそく2本に火が灯って不思議に思った方もおられたかもしれません。教会でこの月、クリスマスを祝うのは、ただの伝統とか、楽しみのため、ではありません。救い主キリストについて深く考え、神が御子をも惜しまず与えて下さったその愛をもう一度かみしめるためです。そこで、今週から3回にわたり、3人の説教者がクリスマスに関連するメッセージを伝える事と思います。違った角度からクリスマスの意味を考えることで、毎年同じではなくて、今年でなければ受けられないクリスマスの恵みをしっかりと受けていただきたいと思います。
さて、クリスマスのメッセージで良く開かれる箇所の一つにマタイの2章の、東の国の博士たちの記事があります。良くご存知の方も多いと思います。不思議な星に導かれて東の国の博士たちがエルサレムの王宮にやってきた。ユダヤ人の王はどこで生まれたのかという質問に、律法学者たちが「それはベツレヘムです」と答えるのですが、その時、「預言者がこう書いています」と言って引用しているのが、今読んでいただいたミカ書5章の2節です。ですから、今日始めてミカ書を開く人でも、なんだか聞いたことがある一節だったと思います。ミカは、救い主が生まれる場所を預言した、ということで知られています。でも、聖書の預言というのは、予告したことが当たった、すごいなあ、という受け止め方をするために書かれたわけではありません。むしろ、何故、救い主はベツレヘムで生まれるべきだったのか、という意味を示すために書かれているのです。ですから、救い主が生まれた、つまり、クリスマスは一体何のためかを考えるためには、このミカ書5章2節の預言がどのように書かれているのかを学ぶことが大切な訳です。そこで、今日はミカ書の特に1章〜5章を通して見ていこうと思います。
1.避けられない破滅(私たちには罪による滅びを逃れる力はない)
ミカという預言者はイザヤと同時代に活躍した人。それは、北王国のイスラエルが滅亡しつつあるとき。ミカ書の預言はまず、その北イスラエルを代表する町サマリヤの滅亡を告げる言葉で始まる。首都である町が瓦礫の山となり、ブドウ畑となると1章で告げられる。2章からは、そのような時代に南ユダ(この国は北王国よりはまともだったが)へのメッセージが語られる。それは人々の罪にまみれた姿だった。中産階級は自分の儲けのために貧しい者の財産を奪っている。それは指導者たちの姿と同じ。3:9〜11。正しい裁きをする代わりに賄賂で裁判を曲げるリーダー。宗教を金儲けに用いる祭司たち。そして預言者、正確には偽預言者たちは、お金を、あるいは食べ物をくれる人には祝福を語り、そうできない貧しい者には脅しの言葉を告げる。その結果が3:12。エルサレムもサマリヤと同じように廃墟となり、畑になるときがくる。それなのに彼らは「主が共におられる」と語っていた。これは本物の信仰とは違う。神を信じる者は、同時に、神の嫌われる事を遠ざけるはず。しかし、罪を平気で犯しながら、信仰があるから大丈夫と安住するのは神に受け入れられることではない。しかし、このユダの姿を批判できるだろうか。
ユダはイスラエルが滅んでいったとき、それは彼らの罪のため、彼らが真の神、天地の造り主を拝まずに、偶像礼拝をしたためと考えた。でも、程度の違いはあれ、同じ罪を彼らは犯していた。自分は正しいと考えながら、そして他者の行いを批判しながら、実は同じ事をしているのが私たち人間の姿ではないだろうか。自分の罪には気がつかない、あるいは人に当てはめる基準は厳しくて、自分には甘い。でも神の目からはどちらも等しい罪人である。だから、もしイスラエルが罪のために滅びるのならば、なぜユダは滅びないといえるだろう。もし旧約時代の神の民が滅ぼされたのなら、どうして現代の私たちは大丈夫といえるだろう。
だれでも、普通は、罪を犯すつもりではない。逆に、不正が嫌い、という人は多い。しかし、いつ罪の罠にかかって曲がったことをしてしまうかは誰にも分からない。信仰の勇者と言える人、素晴らしい才能あるいは賜物をもち、神様に用いられている人、その人がある日突然、信じられないような事をしてしまう。人間はそれほどに罪に対して弱い存在である。預言者たちが告げているのは、その厳粛な事実である。
2.理想と現実のギャップ(神様の示す「あるべき姿」が分かっても、実行することができない)
もちろん、人はたいてい何が正しいか、なにをすべきかを知っている。だから、条件さえ良ければ、正しい生き方をすることができる。クリスチャンは特に、聖書を通して神様の示す道を知ることが出来る。何が人間としてあるべき姿か、神の求めておられる基準かを見出すことが出来る。
4章の前半は、終わりの日の情景を描いている。世界の最後に神が素晴らしい時代を与えて下さると、人々は信じていた。4:1〜2。ユダヤ人だけでなく、世界中の人が御言葉を求めて集まってくる。クリスチャンはその生き方を通して、神様の救いを示す。そしてそれを見た人が、ぞくぞくと救いを求めて集まってくる。伝道のために何かをしなくても自然と人々が教会に集まってくる。それが救いの持っている本来の力である。3〜4節。神の言葉に従うことで、争いが無くなる。そして平和と繁栄が訪れる。6〜7節。しえたげられていた者が慰められ、弱い者が強められる。弱肉教職の原則ではなく、愛に基づく社会が生まれる。これが、神の示す、人間のあるべき姿である。それは理想といっても良いだろう。しかし、現実はどうだろう。
4:9以降に何度も「今」という言葉がでてくる。未来の「終わりの日」には素晴らしい世界が待っているかもしれない。しかし、今はどうだろう。現実の姿はそれとはほど遠い。11節では。エルサレムが諸外国によって包囲されている。それはアハズ王やヒゼキヤ王の時代に事実となった。現実の姿は敵の軍勢に町を取り囲まれている状態。どこにも逃れようがなく、破滅も時間の問題。5:1はその状態を表している。軍隊の召集が呼びかけられている。しかしそれは戦いによって事態が打開できるという望みがあるのではない。むしろ、皮肉ともとれる呼びかけである。王様が屈辱を味わっている、というのが真実である。敵がいいようにののしっている。それに対して何も言い返すことが出来ない。それが「頬を上で打つ」ということの意味である。
私たちは何が理想かを知っている。しかし、それを実行できないばかりか、現実は敗北を味わっていることがある。自分は何と惨めな存在だろうか。「もうダメだ」、という時に救い主の預言が語られる。
3.無力から生まれる救い主(人間の力の尽きた所に救い主は来られた)
5:2。ベツレヘムという町は他にもあったので、それと区別する意味で、エフラテという氏族の名前が付けられている。それはユダ部族の中でも小さなグループであり、ベツレヘムは何も無い小さな村であった。しかし、そこから救い主、真の支配者が生まれるという。ベツレヘムは実はダビデ王の出身地である。ダビデは神から、彼の子孫が代々王位を継ぐと約束された人。救い主もその子孫であると預言者たちによって語られている。だったら、王家の住んでいるエルサレムから生まれてもおかしくはない。それをなぜあえてベツレヘムと言うのだろう。
ダビデがベツレヘムで王になるための油注ぎの儀式を受けたとき、彼は、この小さな氏族の中の一つの家族の、一番下の弟だった。いくら今は立派な王朝となったとしても、本来は小さな存在に過ぎない。それを思い起こさせるのが、ベツレヘム・エフラテという言葉だった。神は、その小さな所から、救い主を誕生させると言われるのである。
人間は困難な状況に陥ったとき、「何をすれば良いのか」と考える。それは自分の力でその困難を解決できると信じるからである。自分にはできる、自分は正しい、その考えが実は問題を引き起こしていることに気がつき難いものである。神からの答えよりも自分で解決策を用意して、時にはそれに合わせるように神に祈ったりもする。ユダ王国は、北イスラエルが滅び、自分たちも壊滅状態に陥っても、王朝と軍隊に頼って、人間の力にすがろうとした。それを打ち砕くのが、ベツレヘムのメッセージである。
このメッセージは、それでもまだ自分の力を頼もうとする者には厳しい言葉である。ところが、自分の限界に悩み、絶望をしった人には、希望のメッセージである。人間は、特に罪の問題に関して、また人生に訪れる危機に対して、実は無力である。理雄と現実の間には深いギャップがある。でも、自分の力が尽きても、なお私たちには頼むところがある。もうダメだ、と思うときが実は神の働かれる時なのである。でもそれは私が計画したこととは違うかも知れない。神には神の時がある、やり方がある。5:3には、救い主がうまれるまでは彼らはそのままにしておかれるとある。待たなければならないときもある。そのときに私たちは自分の限界や弱さに気がつかされる。そして、もうダメだと思ったときに神は御自分の力によって働かれる。4節。
まとめ. 私たちは無力を感じることがあるかもしれない。特に自分の心の中にある問題、何よりも罪に対してはどうすることもできない。努力は大切だが、正しい生き方を自分だけでなしとげることはできない。自分の心を造り替えることは絶対にできないことである。しかし、神はそれをなしとげるために救い主イエスキリストを送って下さった。人間の力の及ばないところ、無力になっているところに手をさしのべて下さる。罪にまみれた心の中にさえ入って下さり、その罪を赦して下さる。罪のために傷ついている心のひだに触れて下さり癒して下さる。誰にも見せることのできない心の内側を理解してくださり、友となってくださる。それがベツレヘムの馬小屋で生まれて下さった救い主だ。今日、もし問題を心に秘めて苦しんでいる方がいるなら、この救い主に入っていただこう。
説教要旨 ヨナ書 11月28日礼拝 千代崎師 「おちこぼれの主」
序.私達は昨日までのセミナーで霊的賜物について学んだ。神は一人一人にパッションと賜物と個性を与え、それによって神に仕えるようにして下さった。でも、私達は失敗することもある。行き詰まりや不満を覚えることもある。不信仰や不従順になることもある。僕としては失格かもしれない。でも、神はそんな私達を見捨てるのではなく、却って愛を注いで下さる、失格者の主、落ちこぼれの主である。今朝はヨナ書を通して、僕としては正に失格者であるヨナの姿からそのことを学んでいきたい。
本題に入る前に、このヨナ書について二つの事だけ説明したい。実はヨナ書からはすでにジョン兄が説教した。だから、繰り返して一つ一つのことを取り上げることはしない。今日は違った視点からヨナ書全体を見る。それは、まず第一に、ヨナ書はオバデヤ書の次である、ということ。ヨナ書は本当は「そして」という言葉で始まっている。ある人は「ヨナ書は前の書との関わりがある」と説明している。オバデヤ書では人間の高慢と自己中心の姿が語られ、そこから救われるのは神を王とすることだと結論されている。全ての人、特に全てのクリスチャンにとってあるべき姿は王である神に従う僕である。「そして、アミタイの子ヨナに主の言葉があった、立ってニネベに行け。そして、ヨナは立って、神から逃げた」。ヨナ書は、その初めからヨナが神に従わなかった失格者であることを告げている。だから、ここに出てくるヨナの姿はあるべきでない、いわばこうなってはいけない悪い例、である。だが、実はヨナの姿と私達の姿が同じであることに気付く。
第二に、ヨナ書の特徴の二番目は、ヨナに起きた出来事が書かれていること。普通の預言書というのは、預言者が神から受けたメッセージを伝えている。たとえば、「神はこう言われる、...」といった表現が良く出てくる。ところがこのヨナ書では神からのメッセージをヨナが伝えているのはほとんど出てこない。でも預言書の中に含まれている。それは、ヨナ書は直接的な形では神のメッセージを伝えていないが、ヨナに起こった出来事を通して間接的にメッセージが語られているということ。このヨナ書の中にどのように神が表されているかによって、神について私達は知らされる。人間、特にヨナがどのように書かれているかによって、私達は自分の姿を見つけだす。そして、そんなヨナに神がどのように語ったかによって神のメッセージが伝えたれている。だから、失格者である私に神はどんな方として語っているかを考えていく。
1.天地の主と失格者(天地を造られた主の基準で計れば、人は失格者である)--あるいは「世界の主」
(1)ヨナ書における神は天地の主
ヨナ書の中で神は天地の主として描かれている。ヨナ自身が1:9で「海と陸を造られた天の神」と告白している。天と地を造られた創造主である。また、神は風と海をコントロールし、魚に命令し、植物と虫を従わせている。天地の支配者である。それが天地の主だという事。だから、イスラエルだけでなく世界の全ての民にとっても主である。異邦人であった、そして最初はそれぞれ自分の神々に祈っていた船の人々が、最後には主を礼拝している。また、イスラエルにとっては敵であるニネベの人々をも主は省みておられる。
(2)ヨナ書における人(ヨナ)は欠けだらけの僕
ところが、その天地の主に対して、ヨナはどうだったか。主に対して従うのが当然なのに、神の命令を拒んだ。僕として、そして預言者として召されたのも関わらず預言者として、ヨナは失格であった。また、彼は、神が天地の主であると告白し、つまり知っていたにも関わらず、船に乗り込み、船底に下りて、もう大丈夫といびきをかいて、とは書いてないが、眠り込んでいた。神はそこにもおられることを考えていない、つまり天地の主を信じていない。信仰者としても彼は失格であった。さらに、彼は船の人々を見下していた。私はあなた達のような偶像礼拝者ではなく、天地の神を礼拝するものだと、威張っていた。しかし、その彼らの方が、ヨナよりも立派な振る舞いをしている。ヨナが原因で船が沈もうとしている。でも彼らはヨナの命を救うために最大限の努力をしている。それにたいしてヨナは、実は周りの人よりも人間的には劣っているにも関わらず、彼らを見下げていた。人間としてもヨナは失格者であった。しかし、そのヨナを神は決して見捨てなかった。それどころか、彼を何処までも追いかけて語りかけて、神に使えるところに引き戻して下さった。それが失格者の主である。
私達は、セミナーでスタイルということを学んだ。それは自分の特長を知ることだが、同時にその個性の持つ弱さをも知る。私は、タスク志向で組織的、らしいが、ヒト志向の大切さを理解できないときに、特に牧師としてはトラブルの原因にもなりかねない。組織的ではない他の人を自分の基準で裁いてしまう危険性もある。だれもが、欠けている部分がある。でも神はその私をそのままの姿で受け入れて下さり、また私のために違った人々を助けてとして与えて下さった。私達は神の前に、そして人の前にも失格者かもしれない。でも神はその私達の主となって下さった。
2.救いの主と失格者(救いは主の業であり、失格者をも用いられる)
(1)神は失格者を救って下さる
神は、神の命令に従わなかったヨナを死から救って下さった。また、滅んで当たり前のニネベの人々を救うためにヨナを使わされた。神は失格者を救う主である。それは聖書全体のメッセージでもある。神の基準からはずれていることが聖書の言う罪ならば、失格者とはつまり罪人である。神は罪人を救うために御子を与えて下さった。それは、もう何度も語られてきたことであり、今日はもう繰り返さない。しかし、救いの主が失格者の主であるとはそれだけではない。神は救いの働きのために、失格者である者を僕として用いて下さる主である。
(2)神は失格者を救いの業のために用いて下さる
預言者としては落ちこぼれのヨナが、少なくとも二度、神の言葉のメッセンジャーとして用いられている。いや、神は用いて下さった、ヨナの予想もしなかった方法で。一回目は、魚の腹の中で。2章で、ヨナは魚の腹の中で祈っている。その祈りは、一見素晴らしい祈りのようで実は問題のある内容である。神に逆らっていたことは一度も言われていないし、悔い改めも無く、それでいて自分が助かることだけ語っている。最後には、他の人々を偶像礼拝者として裁き、自分はそんな連中とは違うとなお高ぶっている。ところがその最後の部分で彼は大切な真理を語っている。それは、「救いは主のもの」であること。そして、その言葉が発せられるのを待っていたかのように、神は彼を魚の中から陸地へと戻して下さった。自己中心で高慢な祈りさえも神は用いて、大切な真理を告げさせている。船の上でヨナが人々に語った「天地の神」というのもそれと同類かもしれない。2回目は、ニネベの町で。ヨナは渋々神の命令に従って、ニネベに行き、神の言葉を伝えた。しかし、それは、最小限度の働きで神の命令を果たそうとするものだった。ヨナ書の中でヨナが神からの言葉として語っているのは、3:4の「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」だけだった。実際神はそれをヨナに伝えたのかもしれない。しかし、普通の預言者はその言葉を伝えるために、出来る限りの言葉を使い、効果的にメッセージを伝えようとする。でも、ヨナは神の意図を知らなかった訳でもないのに、最小限のことしか伝えなかった。ところが、驚くべき事が起こった。人々は、ヨナのその言葉、滅びのメッセージを聞いて、その背後にある神のメッセージを理解したのである。そして、神を信じ、悔い改めた。そして町中が救われた。要は、下手なメッセージ、いや悪意さえこもっているメッセージでリバイバルが起こったのである。これは極端な例かもしれないが、神が失格者を用いて下さるという意味を良く表している。
ヨナには預言者としての賜物が在っただろうか。少なくとも彼は預言者としての資質に欠けていた。語る能力があったとしてもそれを使おうとしなかった。でも神は彼に預言の賜物を与え、神の真理を語らせ、救いのメッセージを取り次がせた。それが、神から与えられる霊的な賜物である。人間的な能力、つまりタレントと、神からの賜物とは違うことがセミナーで何度も強調された。人間的には能力が無かったとしても、賜物は神から来るのである。 私は、子供の頃から牧師になりたいと思っていた。ところがある時、自分は献身者として失格であることに気付いた。これでは牧師には成れない。そして神様に牧師になるという思いを帰した。一度あきらめたのである。ところが、それから、何年かしてから、神はもう一度私に声をかけて下さった。そして牧師となって何年かしてから、自分に牧師としての使命を果たすためのいくつもの賜物が与えられていることが分かった。その一つは説教の賜物だと思う。でも、私は人前で話をするのが苦手だったし、いまでも下手だし、できれば一人でいるほうが気が楽だとも思う。ところが、説教では別人になる。少なくとも神様が御言葉を語らせて下さっているのだと思う。能力としては、私より離すのがうまい人はたくさんいる。もっと通るいい声で、魅力的に語る事ができる人はこの中にも何人もいると思う。よく、神学校に行くと、私には説教の賜物があるという学生がいる。確かに説教すると上手に語る。ところが、そんな人が卒業したら必ずしも説教者として用いられるとは限らない。人間の能力と神が用いることとは同じなのではない。時には、ぼそぼそと話す人、原稿から目を離さずに語る牧師もいる。ところがその説教によって素晴らしい神の恵みが伝えられ、多くの人の信仰が養われていく。そこに神からの霊的賜物がある。
もちろん、能力のある人を神は用いて下さることも多くある。しかし、生まれつきのままの能力、人間の力、というのは、生(なま)であって、ほっておくとやがて腐って悪臭を放ち、人に害を及ぼすようになる。自分にはこれが出来ると高慢になることで問題が起きたり、自分が用いられないと不満が生まれる。それが、神の火の中を通されていった時に、賜物となる。それは、特に、その人が失敗し、挫折を味わったときである。失敗は、神の恵みのチャンスでもある。それを最後に学ぶ。
3.愛の主と失格者(主の目的は用いることで失格者への愛を示し、作り変える)
(1)神は奉仕の中で失格者に愛を示して下さる
ヨナ書の中で神は天地の主、また救いの主として描かれているだけでなく、愛の神としてご自分を表されている。4:2で、ヨナの言葉の中で、「情け深く憐れみ深い神」と言われているのがそうである。また、愛という言葉は使っていないが、4:11で「大きな町ニネベを惜しむ」と言っているのは明らかに神の愛の表現である。また、神の救いの業そのものが神の愛に根ざしているのは言うまでもない。しかし、ヨナ書全体で伝えている神の愛は、実は他でもないヨナ自身に向けられている。神はヨナを立てあげるために、嵐を起こし、魚を遣わし、とうごまと虫を備えられた。それだけでない。4:1〜3でヨナは神に一方的に文句を言っている。それに対して神が声をかけられたが、ヨナは一言も質問に答えず無視をした。そのヨナがもう一度神との対話に戻るように、神は4:6〜7の事をされたのである。神から逃げ、耳をふさごうとする者をも神は救おうと手を伸ばし続ける。一匹の羊を探し求める羊飼いの姿がここにある。神はヨナの、失敗、不満、挫折、そういった中で実は彼に神の愛を教えようとされたのである。
神が私達を用いるのは、決してこき使うためではない。神は天地の主だから、私を使わなくても他のもの、虫けらさえも用いることが出来る。それでもあえて私を用いる本当の目的は、その奉仕の中で、特に奉仕がうまくいかずに悩み苦しんでいるときに、神の愛をより深く示すため、神の豊かな愛を注いで下さるためである。
そして神の愛を頂いたときに私達はもう一度他の人への愛を新たにされる。それがパッションである。奉仕の原動力が生まれてくる。
(2)神は奉仕の中で失格者を作り替えて下さる
ヨナ書は4章以後は書いていない。ヨナがその後どうなったかは直接は書いていない。しかし、それまでは自分を誇っていた彼が、この自分の失敗談を人に伝えるために、そしてその中で示された神の愛のメッセージを知ってもらうためにこの書ができあがった。彼は、神の僕、本当の預言者となったのである。それは、この出来事を通して、神が彼を作り替えて下さったから。神に仕え、奉仕をするのは、私達が神の愛により、作り替えられ、成長し、キリストの姿、真の僕の姿を私達の内側に形作っていただくためである。時には、霊的訓練を奉仕の中で与えていただくこともある。また、自分の出来ないことをせざるを得ないとき、あるいは出来ると思っていたことで失敗したときに、私達はなんと多くの事を学び、神の恵みを味わうだろうか。パッションと賜物とスタイルがミニストリーとぴったり一致するもの素晴らしいし、また、そうでないときも主にあっては益である。その全てを通して神は私達を取り扱って下さる。それは特に私達が仕えようとするとき、神はそうして下さる事が多いと、私は今までの経験で学んでいる。
まとめ. 神様が賜物を与えて下さったのは、それは私達が無意味な存在ではなく、キリストの体の大切な一部であることを自覚できるようにである。賜物セミナーで学んだのは、決してもっと忙しく奉仕をするためではなく、自分を知り、自分の働きを整理し、より神様の望んでおられる状態になるため。奉仕は神のために私達が何かをするのではなく、神の業に参加する喜びを知り、神の愛を豊かに頂き、キリストの似姿に変えられる機会である。自分がダメであると絶望することはない。神は失格者を愛し、賜物を与え、用いて下さる。失敗や挫折を恐れることはない。それは神からの恵みを受けるチャンスだから。奉仕は、仕えることは、神からの恵みである。