2000年12月3日 ヘブル書12:1―13 「父の訓練」
序.先週は2カ所に分かれて礼拝を持ったのですが、どちらの礼拝でもヘブル書の12:1がひかれて、「信仰によって生きる」ということに関してメッセージが取り次がれました。別に打ち合わせた訳ではなく、神様がそのように導い下さったのだと思います。さて、クリスチャンの人生は信仰によって歩む人生ですが、そこには様々な困難があります。どんな困難があろうと、人生のゴールの後に約束されている祝福を仰ぎ見て忍耐して生きるのが信仰による生き方です。しかし、ただ耐え忍ぶのは、消極的に思えます。実はもっと積極的な意味がそこにはある。その事を今朝はお話したいと思います。それが「父の訓練」ということです。
まず、初めに、なぜ訓練が必要かということを考えます。それは、「罪との戦い」があるからです。第二に、訓練が必要だとしても、どうして神様は他の道ではなく、訓練を通させようとなれるのか。それは「父の愛」があるからです。最後に、訓練の結果、どのような事があるのか。それは「実を結ぶ人生」です。
1.罪との戦い(1−4節)
1節では、クリスチャンの人生をレースに例えています。競争といっても、他の人をけ落として自分だけがゴールする、という競争ではありません。むしろ多くの仲間と励まし合いつつ走るレースです。この手紙の読者にとっては雲の上の存在ともいうべき旧約聖書の偉人たちが、雲のように周りを取り巻いて走っている、と聞かされて、彼らは励まされたことと思います。信仰の生涯は、決して一人ではなく、自分たちだけでもなく、実に全ての信仰者たちが一緒に走っている。大マラソン大会です。
では、そこには何も戦いは無いのか。あるのです。それは「罪に対する戦い」です。
ところで、ここで語られている「罪」というのは、普段私たちが考えている罪とはちょっと意味合いが違うようです。私たちはそれぞれ罪といったときに心の中に思い浮かべることがあると思います。自分にはこんな罪を犯しやすい弱さがある、ということを感じておられる方も少なくないでしょう。具体的に何かは、その人と神様だけが分かることですので、それはここでは取り上げません。その罪を犯さないように、そこから離れるように、そのような意味で罪と戦った経験をお持ちだと思います。確かに私たちの心の中の罪との戦いは存在します。しかし、それだけが戦いではない。それも含んでもっと大きな戦いがあるのです。4節に「罪と戦って、血を流すまで抵抗した」と書いてあります。何らかの罪を犯さないように、歯を食いしばって努力する。それでも足らないで、自分の身を傷つけて血を流して、その痛みによって罪を遠ざける。ちょっと、変ですね。
ここで語られている「血を流すまで」とは、恐らく迫害の中で殉教することを指していると思われます。罪との戦いとは、内面的な戦いだけではなく、外のものとの戦いもあります。ヘブル書の書かれた時代もそうですが、今の私たちも、罪によって動かされている社会に生きています。神様を信じさせないようにする考え方が主流となっているのが世の中です。それは単に世の中が悪い、ということではないのです。そこに生きている全ての人の罪が、世界をそのような罪の世の中にしているのです。もし罪が純粋に精神的なこと、自分の内面的な戦いだけなら、楽ではありませんが、まだ「まし」です。ところが、それだけでも大きな問題なのに、実際は外からやってくる戦いがあるのです。世の中で生きているときに受ける誘惑もその一つです。また、神様を否定し、キリストの救いを否定する考え方が忍び込んできて、信仰から引き離そうとします。世の中のペースによって動かされるときに信仰を貫くのが困難なことがあります。「忙しい」という事がどれほど多くのクリスチャンを教会から、聖書から、そして神様から引き離していることでしょう。実に社会全体を覆い尽くしている罪の中に私たちは生きている。ですから、信仰による人生は困難に満ちているのです。もちろん、社会のせいにするのではありません。そのような罪に応答しているものが私たちの内側にもあります。私たちはそのような内側と外側の罪に対して戦わなければならない。
この社会を動かしている罪というものがエスカレートしていきますと、迫害を生み出します。日本やアメリカでは「信教の自由」ということが法律で守られていますから、クリスチャンであるという理由で命を落とすことはめったにないと思います。しかし、社会全体が罪に支配されるとき、法律までもキリスト教を否定するようになります。ヘブル書の書かれた時代もそのような傾向がありました。時に、ローマ皇帝が自分を礼拝するように強制することがありました。そんな時、真の神様を信じている者に迫害が加えられたのです。現在でも、国によってはキリスト教信仰が否定されていることがあり、実際に殉教するクリスチャンも多くいます。
イエス・キリストが十字架についたのは、もちろん私たちの罪を贖うためですが、同時にそれは世の中を覆い尽くしている罪によって十字架につけられたのでもあります。そのような罪に動かされていた人々によってキリストは十字架に追いやられた。ですからキリストに従うクリスチャンは多かれ少なかれ苦難にあうのです。そんな世界に、神様は私たちを置き去りにしておられるのでしょうか。そうではありません。様々な助けを備えていて下さいます。それだけでなく、そのような世界で信仰による生涯を全うできるように私たちを訓練して下さるのです。訓練と言っても、環境の整ったトレーニングセンターに何年間か入って、十分に強くなってから世の中に復帰する、のではありません。救われても、罪の世の中に生きています。(それは神学校にいても、教会の中でも、同じです) だから困難がある。その困難をも神様は用いて、訓練して下さる。いわば実地訓練です。罪に対する信仰の戦いの中で、神様は私たちを取り扱って下さるのです。
2.父の愛(5−9節)
神様は、父が子を訓練するように私たちを訓練される、と書かれています。愛する子に鞭を加える、と言っています。
しつけ、というものはそれぞれの家庭によって基準が違いますから、あまり人と比べない方が良いでしょう。でも、どこの家庭にも何らかのしつけが存在します。鞭が多いか飴がが多いかは違っても、しつけがまったくない家は少ないでしょう。しつけとは、それによって何が正しいか、何が間違っているかを教えることです。これを教えないで、まったく自分の好き勝手に生活させたらどうなるでしょう。
以前、学校で銃の乱射事件がありました。その町の事がテレビで取り扱われたことを少しお話ししたことがあります。その番組に出てきた家庭は、大きな屋敷で何の不自由も無く生活しています。子供たちは欲しいモノは全て与えられ、好きなことをして生きています。決してしかられることもありません。その結果、幸せになったのでしょうか。そうではありません。それぞれの部屋にテレビと電話があって、家族はバラバラです。子供たちはセックスと麻薬におぼれていきます。これは極端な例かもしれませんが、訓練が全くないか、あるいはほとんどない状態で子供が育っていくならどのような結果が待っているかを浮き彫りにしているのではないでしょうか。それが分かっているなら、子供を愛する親は必ずしつけをするはずです。
神様は私たちを救って下さり、神の子としての身分を与えて下さった、と書かれています。身分はしょうがないから与えるけれど、子としては扱ってくれない、というのでしたら、私たちは愛されていません。しかし、神様は愛するが故に訓練をされるのです。
こう言いますと、なんだかありがた迷惑だ思う方もおられるかもしれません。どうせ、愛するなら、苦しい訓練よりも、毎日が楽しい、楽な、そんな世界につれていってくれたらいいのに。ところが、そんなディズニーランドのような所に行っても、問題はあるのです。私たちは、つい周りが変わることを求めがちです。環境が良くなって、自分の周りの人が良くなったら、それで全ての問題が解決する、と錯覚しています。しかし、どんなに周りが変わっても、なお一番大きな問題が残ります。それは自分自身の罪です。自分の周りを自分の思い通りにしようとするところに実は自己中心がひそんでいる。ですから、決して問題は終わらないのです。
神様は人間の罪を良く御存知です。ですから、罪の世の中が変わるよりも、まず私たち自身が変えられる方法を選ばれたのです。それが訓練です。どんな困難でも、私たちが倒れきって起きあがれなくならないように、神様は助けと逃れる道を備えて下さいます。しかし、困難そのものを無くされるのではない。それを経験することで、わたしたちが訓練され、罪との戦いに勝利できるように成長させてくださるのです。
その神様の愛を忘れてないようにしましょう。
3.実を結ぶ人生(10−13節)
目的もなく、ただ鞭を打つ。それはいじめです。神様の訓練には目的があります。言い換えると、訓練には必ず結果が伴います。ここでは二つの結果が挙げられています。一つは「聖さ」、もう一つは「平安な義の実」です。聖さは人間と神との関係に関わる事で、それがやがて生活に表れてきたとき、平安な義の実となっていく。どちらも私たちの上に結ぶ実です。この二つの、もっと詳しい事は、次回とその次にお話しします。今日は、「聖さ」ということに簡単に触れるだけにします。
子供は親に似ます。顔だけでなく、性格や行いまで似ることがあります。似て欲しくないところまで似てしまって困ることもありますが、それはさておき。私たちは神の子としていただいたのだから神様に似るべきです。実は、神が人間を造られたとき、「神のかたち」に造られたと書かれています。ところがそれが罪のため壊れてしまった。完全に無くなったか、少しは残っているかは、わかりません。しかし、救われたときから神様はその「神のかたち」を回復し始めておられます。それが、神の聖さに与っていくことです。どのように似せられていくか。一つは神様に目を向けることです。親子が似るのは遺伝だけではなく、一緒に生活するからでもあります。神様の御言葉で養われ、いつも神様に目を向けるなら、段々と似せられていく。
ところが、人間というのは頑固なもので、それだけではなかなか変わろうとしないのです。するとどうなるのか。神様は私たちを正しい方向に導こうとしておられる。ところが私たちの方が駄々をこねて、逆らっている。だから問題が生まれるわけです。
しかし、神様はその苦しみを用いて私たちを練り清めるようにされるのです。クリスチャンになっても苦難があります。それは世の中の悪が原因のこともありますし、自分の自己中心の罪の故である場合もあります。どちらであっても、その苦難は、父なる神様が私たちを聖い者に造り替えようとしておられる証拠でもあります。愛していなかったら、私みたいな頑固者はほおっておかれるでしょう。でも、神様は私たちをご自分に近づけようとしていて下さるのです。
訓練は楽なことではありません。でも、神様はそれが大切だから与えておられる。だから、弱った手足を伸ばして、神様の訓練をしっかりと受け止めていくなら、リハビリのように、その弱さも癒されていくのです。私事ですが、最近体の老化を感じています。目は老眼になるし、腰は弱くなるし。これは運動しなければならない。でも、つい億劫で...。そこで、(町の住民であることを示す)レジデンス・カードというのを作りまして、これをつけていれば体育館のコースを歩くことができる。お金を払ったので、と言っても4ドルですが、なんとなく歩かなければ行けない気分になって、時々歩きに行っています。以前、学校の寮で生活していた時は体育館もグラウンドもすぐそばにあったのですが、なかなか運動できませんでした。いくら環境が良くても、自らやろうとしなければなかなかできません。神様の訓練も、私たちがその必要性を知り、神様の愛に土台していることを理解し、素晴らしい目的があることを覚えていないと、つい逃げ出したくなります。訓練とか、鞭とか聞くと、それだけで後込みしたくなるのが人間です。でも、訓練者である神様がコントロールしておられるので、決して無理なことではありません。信頼して従うならば必ず道が開かれていく、それが神の訓練です。
まとめ. 今日は訓練なんて言う、あまり楽しくない話題だったかも知れません。でも、決して神様は私たちを苦しめて喜んでおられるのではないのです。こうしなければ罪に負けてしまう。だから、あえて訓練をされるのです。それに神様は、ご自分は雲の上でぬくぬくして、私たちだけ冷たい水の中に落としているのではありません。さきに神様の方から、子であるキリストを人間としてこの世に送り、人生の様々な苦難を味わわせ、人間の罪を贖うために十字架につけて下さった。神と等しいお方である御子キリストがそのような道を歩んで下さったことを思えば、私たちが訓練として
受ける苦難は決して耐えられないものではありえないのです。
クリスマスを前にしたこの季節、十字架にかかるためにこの世に来て下さった救い主に目を向けて、またその十字架の上で完全に示された私たちへの神の愛に信頼して、進んでいこうではありませんか。