2001年12月2日待降節礼拝説教『それでも救い主を』マタイ1:1〜25

 講談社『新国語辞典』の中の「系図」という項目を調べると、次のように記されている。「先祖代々の親子・兄弟の間柄を書いた表」とある。一昔前、<自分のルーツを探る>ということが流行った。皆さんは探ってみたことがあるでしょうか。小学生の社会科の「士農工商」ではないが、武士でしょうか。それとも農家、商人か。「蛭沼」という姓は、武士ではなく、農家のようである。

 新約聖書を読み始めた時、初めにぶつかるのが、このマタイ1章の名前の「カタカナ」である。
舌を噛みそうな箇所である。しかし、この系図の中に、アドベントにふさわしい、私たちへの神からのメッセージが隠されている。

 1節を見る。『系図』という言葉は、原文では文頭に置かれていて、ギリシャ語で「ビブロス・ゲネセオース」といって、「創造の経緯、記録」という意味である。このゲネセオースという言葉は、旧約聖書の最初の書である創世記の英語読みの「ゲネシス」の元になっている言葉である。であるから、初期のユダヤ人にとって、この系図からの導入は、旧約聖書に対応する書物、つまり『イエス・キリストの創世記』であると、直ちにピンと来るものだったのである。神の御業と預言が始まる創世記という書物に対応するのが、このマタイによる福音書なのである。天地創造に匹敵する、新しく壮大な創造がここから始まる、ということが明確に述べられているのである。このイエス・キリストの系図から3つのことを学びたい。

@「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」の系図。
 ユダヤには、キリストはダビデの子孫から生まれるという預言が与えられていた。イエスが神の子であることを示すためには、その出所を提示しなければ、ユダヤ人たちはイエスをキリストと信じることができなかったわけである。そこでマタイは、系図をもって「イエスはアブラハムの子孫である」と記した。イエスは、神がアブラハムに約束された契約、つまり創世記12:2
   <わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する>
の成就者であり、地上の全ての民の祝福の基となる救い主であると、明示したのである。それだけでなく、ダビデの子孫である救い主であることを、系図により証明したのである。1000年前、イスラエルの王であったダビデは、第サムエル記7:12〜13の神の約束を頂いていた。
   <あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。>
 しかし、実にその王国は、BC930年に分裂し、721年に北王国が、580年に南王国が滅
んでゆくのであるが、その約束は絶えることがなかった。アブラハムから2000年、ダビデから
数えて1000年も前から救い主が立てられていたのである。

A14代ずつ三区分にまとめられている系図。
 これは、イスラエルの歴史が神の支配下にあることを示している。
・最初の14代=アブラハムからダビデまでの代。アブラハムの定住からダビデ王国までの時で
         <待ち望む時代、希望の時代>ということができる。
 ・2番目の14代=ダビデからバビロン移住までの代。高慢故にバビロン捕囚をまねいた、いわ
         ゆる<没落の時代>といえる。

 ・3番目の14代=バビロン移住からキリストまでの代。失われたダビデの王権が、イエスによる神の支配の到来によって真に確立される、まさしく<成就の時代>である。実現の一つ一つの時代であり、救い主の誕生が着々と用意されていったのである。

B特異な系図=4人の女性や悪王たちをも含める系図。
・4人の女性が載せられている。
@ タマル(3節)=舅ユダによって子をもうけた。不倫女性として創世記38章に登場する。
A ラハブ(5節)=正真正銘の遊女である。
B ルツ (5節)=貞淑な女性であったが、異邦人。
以上の3人の女性は、カナン人とモアブ人という、ユダヤ人にとっては救いから一番遠いとされた異邦人であった。
C ウリヤの妻バテ・シェバ=ダビデ王と姦淫の罪を犯した人妻であった。
 男性中心の社会の中で、位の高い女性であっても系図に入らない。ましてや不倫の女や、当時としては罪人扱いされていた遊女、そして異邦人の女性を聖なるキリストの系図の中に載せているという事実は、画期的なことである。
 また、8節のヨラム王は兄殺しの王であった。9〜10節のアハズ王もアモン王も、悪を極めた王として登場することの事実も、当時の系図としてはかなり特異なものと言える。

 神の御業としての救い主の誕生の系図に、このようなイスラエルの民の恥とも言える歴史や、またこのような女性たち、王たちのことが盛り込まれていることは何を意味しているのであろうか。それは、罪ある者も、数に入れられない者でも、また国が、そして自分が過去に犯した汚名がいつまでも消えず、その汚名の中で滅んでいかなければならないような者が、まさしくイエス・キリストの誕生によって、罪が赦されて行く道を見出すのである。十字架の贖いのために生まれてくださったイエス・キリストによって、真の神との正しい関係が回復されるのである。何という恵みであろうか。神は、イスラエルの歴史の中で、王国が一時的に失われたにもかかわらず、着々と救い主を立てられた。数に足らぬ者や自分の罪や弱さに沈み込んでしまいそうな私たち。切って捨てられても不思議ではない私たちであるにもかかわらず、それでもなお神は愛し、救い主を用意されたのである。この神の愛とあわれみをしっかりと心にとめ、主の御降誕を待ち望みたい。そして自分はすでにこの救いを受けたからもう十分であるというのではなく、逆に自分はそれを受けるに相応しくない者であることを自覚したい。神の前にへりくだって神の愛を感謝して歩みたい。

 最後に榎本保郎師の言葉を紹介したい。
「自分は偉いと思っている人は、自分は駄目なんだということさえ知らない哀れな人間であることを知ってほしい。人間にそんなに偉い者などいるはずはない。私たちはみんな数に足らない者であるが、そういう私たちが、イエス・キリストの系図の中に入れられている。まさに、私がラハブであり、ルツなのである。イエスがいてくださらなかったならば、無名のひとりの人間として滅んでいかなければならなかった私が、今日、神の民として神の国の名簿の中に名を記され、神のご計画の中に一つの立場を与えられているのである。何と幸いなことであろう。」