礼拝説教 11月26日 「信仰によって、生きる」 ヘブル11章
 昨日までのセミナーで私たちは「キリスト教人間論・生と死」ということを学んできました。(もしこれを読んで、このセミナーでの学びに興味を持たれる方がおられましたら、二上師の著書「オレンジ色の朝焼け」をお読みください。生命倫理の問題を聖書に基づく視点で取り上げています。お薦めします。) 
 命と死というのは人間にとって避けて通れない問題です。遠い将来のこと、誰か知らない人の問題、なのではなく、実に私たち一人一人に関わる重要な問題であることを教えていただきました。自分の命、そして死の問題をしっかりと受け止めなければ、決してしっかりとした生き方をすることはできません。その意味で、今回の学びは本当に貴重な機会でした。さて、学びはこれで終わりではなくこれからも学び続けなければならないことですが、まず、今回の
学びをした者として、そしてクリスチャンとして、私たちはこれからどのように生きていけばよいのでしょうか。それが、今朝、ヘブル書11章を通して共に学びたいと願っていることです。
 11章のキイワードは、もちろん「信仰」です。それはただここに信仰という言葉がたくさん出てくるからだけではありません。これまで、ヘブル書を通して学んできたことは、イエスキリストによって私たちに素晴らしい救いが与えられたということです。そして、その救いの確信をしっかりと持ち続けなさい、というのがヘブル書を貫いているメッセージです。それが「義人は信仰によって生きる」ということです。10章の39節には、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じて命を保つ者です」とあります。死ぬことを恐れ、でも結局は死という滅びに向かっていくのではなく、クリスチャンは信じて永遠の命を保つ者です。では、その信じるとは何か。信仰とは何か。それが11章です。ですから、11章はクリスチャンが生きるということを信仰というテーマによって見ていこうとしています。私たちは、クリスチャンとしてどのように生きるか。それは「信仰によって、生きる」のです。そのことを、三つの点から考えます。まず、信仰というのは「クリスチャン人生の土台」だということです。第二に、その信仰は「神様の約束、それは見えないものですが、それを待ち望むこと」だということ。最後に、この信仰は「クリスチャンの人生を造り替えるもの」だということを見ていきます。

1.クリスチャン人生の土台としての信仰
 信仰とは何か、という問題に対して、11章の1節では信仰の定義と呼ばれることが書かれています。「信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」 望んでいること、というのは自分が欲しいこと、したい事、という望みではなく、後で話ます「神さまの約束を待ち望む」ということです。そして、目に見えないものを確信させる。確かに、見える物は、信じるというよりも確認するものです。見えないから信じる必要がある。かといって、見えなければ何でも信じる、という事ではありません。3節に天地創造のことが出てきます。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られたことを悟り」です。天地創造か、ビッグバンと進化論か、なんて議論があります。でも、誰も世界の始めを見た人はいませんから、事実は確認できません。そういう意味では、どちらもそう信じているだけです。でも、それが信仰ということではありません。神様は目に見えない、でも神様の存在を信じることが信仰ではない。悪魔も神の存在を信じて恐れおののいている、と聖書に書かれています。

 信仰とは何か、ということを、この11章では具体的に描いています。それは旧約聖書時代の信仰者たちの生き方を通してです。
 と言いましても、ここに出てくる人を一人一人詳しく取り上げていたら、もう一度三日間のセミナーになってしまいます。ですから今日はいくつかの事だけをみたいと思います。その中で、6節にこのように書かれています。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」 この「神に喜ばれる」とは、神様がニコニコしておられる、という事ではありません。これは「神様の御心にかなっている」ということです。神様に受け入れられている、それが救いでもあります。そして、これこそ人間と神様の関係において無くてはならないことなのです。今回の学びの中で、「人間の命、人間の尊厳というものは、神との関係において考えるべきである」という言葉がありました。大変重要な言葉だと思います。どのように生きるかは、神様との関係抜きには考えられません。
 ではどんな関係でしょう。
人間は神様によって造られ、命を与えられた、と聖書は告げています。そして、罪を犯した人間を神様は愛してくださり、人間を救うためにキリストを送ってくださいました。そうして救っていただいた私たちが、何をなすべきか。

 神様が私たちに望んでおられること、それが信仰です。造り、愛し、救ってくださったお方を、信頼する。どんなに良いことをしても、根本的には神様を信頼していなければ、神様は喜ばれない。別に信仰があれば何をしてもいい、ということではありません。義であり、愛であり、聖である神様を信じ、敬っているなら、神様の言葉である聖書に従って行動するはずです。でも、その行動の土台に信仰が無ければ無意味です。ですから、神様と私たちのあるべき関係を人間の側から見れば、信仰です。これが神の御心にかなう、すなわちクリスチャンのあるべき生き方です。
クリスチャンとしてどのような生き方をするのか、命や死ということ、様々な問題をどのように考えていくか。それは信仰によってです。神様とのあるべき関係に基づいて私たちは判断し行動するのです。では、その信仰とは、何をどのように信じるのか。それが次の問題です。

2.神様の約束を見ずとも信じる信仰
 さて、8節からアブラハムのことが出てきます。アブラハムは信仰の父と呼ばれる人です。かれの生涯は信仰に満ちていました。彼は神様から声を掛けられて、行き先を知らずに出発しました。やがて彼はカナンの地に付き、その地を与えると神様から約束されました。しかし、彼は死ぬまでその地に旅人として、一時滞在者として生活しました。

 かれの目的地はどこだったのか。ヘブル書の著者は、天の都であった、と語っています。たとえ彼や彼の子孫がカナンという土地を手に入れても、本当の安住をつかんだわけではなく、この地上にいる限りは争いや災害がおこります。ですから、彼の最終目的地、また神様の約束の最終的成就は、神の都、天の国です。それは世の終わり、終末に関わることです。同じ事が実は私たちにも言えます。私たちは救っていただきました。でも救いは完成したわけではありません。それは天国に行ったときに完成する。ですから、私たちもまだ見ぬ神の都の約束を信じて生きているのです。
 信仰は、こうした世の終わりとしての終末だけのことではありません。一人の人間の人生の終わりとしての終末、すななわち死ということとも関係します。同じアブラハムに関して12節。「ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハム」。子孫を残す、子を産む、という点では妻のサライ、後でイをとってサラになりますが、彼女もまたアブラハムも死んだようなものだ、ということです。それが、信仰によって神様から命を与えられ、子どもを宿すことができるようになった。ある意味での死からの救いです。また、そうして与えられた一人息子イサクをアブラハムは神様にささげました。そして、やはりある意味で、死んだ息子を生きて返して頂いたのです。死からの復活ということは11章の後のほうでも出てきますが、クリスチャンにとって死は終わりではない、その後に復活があり、天の国が約束されている。聖書を通して与えられたその約束を信じるのが信仰です。
 この終末に関する約束を信じる信仰、すなわち見えないものを信じる信仰、というのはクリスチャンにとってなくてはならないものです。私たちはつい目に見える部分の救いだけを考えたり追い求めたりしがちです。例えば心の平安が欲しい。たしかに神様がくださる恵みです。でも救いは精神安定剤ではありません。
 信じていても心が揺れ動く事が起こるのがクリスチャン人生です。また、喜びを求めます。でも苦しむということの価値を考えなければなりません。これらは救いの結果であり、そこから沸き上がってくるものですが、救いそのものではありません。愛。兄弟愛、人類愛。これは気をつけないとヒューマニズムというキリスト教ではないものにすりかえられてしまうことがあります。罪からの救い。これは救いの最重要部分ですが、罪責感からの救いということに話を限定しますと、救われても私たちはまた罪をおかします。それが続くと、自分の救いが不確かになるか、あるいは罪に対していいかげんになりがちです。これらは、どれもこの地上において感じることのできる救いの側面です。そういった目にみえる部分だけを求めていきますと救いが薄っぺらになってしまう。本当の救いは、目にみえない終末に関する約束を信じる信仰によります。例えまだ約束のものは受けていなくても、信仰によってそれが与えられることを信じて生きる。それがクリスチャンの生き方です。これをしっかりと確認しておきませんと、クリスチャンとして生きていくのは困難なことがありますし、死ぬときにはどうしようも無くなってしまいます。ぜひ、自分の信仰を点検し、信仰によって約束を望み見ているかを確認して頂きたいと思います。
 さて、この終末の約束に関する信仰は決して、死後の世界を信じて安心するという次元の事ではありません。実に、今の生き方に影響するものなのです。

3.クリスチャンの人生を造り変える信仰
 11章の終わりの方は、さすがに著者もこのペースで一人一人を取り上げていったなら時間がなくなることに気が付いたようです。そこで、たくさんの例をまとめて語っています。その内容を見ていきますと、あることを発見します。33節から37節。最初は信仰による勝利とか奇跡が出てきます。ところがそれが死からの復活になり、話題は復活を信じて迫害や苦難を堪え忍ぶ、ということに移っていきます。そのような厳しい時代に生きていた信仰者にとって、約束への信仰は彼らの生き方を、信仰を持っていなかった生き方から大きく変えていきます。信仰抜きにはとても耐えられないような迫害を喜んで忍耐できるのです。これが著者が読者に旧約の信仰者たちを示した理由です。彼らも困難な時代のクリスチャンでした。そんな彼らが信仰を持って生き抜くことができるようにと書かれたのです。

 しかし、人生が変えられるのは迫害時代だけではありません。
私たちも、聖書を通して示されている神様の約束を信じていくとき、まず考え方の土台が変わります。見えないものである、終末や復活ということまで視野に入れて考えるようになり、価値観が変わります。価値観や世界観が変わるなら自然と行動も変わります。つまり、信仰にしたがって、御言葉にそって生きるようになるのです。そして、その変わり方は世の中の人、クリスチャンになっていない人が見ても、分かるものです。
そして、その変わり方が、彼らにとって魅力のあるものであれば、みんなの方から救いを求めて来るようになります。
この私たちの教会の交わりは、本当に素晴らしいと思います。でもそれが、ただの仲良しの集まり、になってしまっ
てはいけない。楽しいだけではいけないと思うのです。もちろん、そこらの宴会なんか目じゃない、そこぬけの楽しさがあってよいでしょう。でも、もし誰かが苦しみ悲しむなら共に苦しみ、悲しみ、そして祈り合う。またキリストに仕えるように喜んで互いに仕え合う。そんな交わりの教会でありたいです。それは、実は天国の交わりの先取りでもあります。約束を信じるクリスチャンの集まる教会は、その目標である神の国を見つめて生きるので、それに似てくるのです。そして、一人一人の人生もそれにそって変わります。信仰によって生き方を変えて頂きこうではありませんか。
 今回、命と死ということを学びました。そして、もし救われないならばどうなるか、ということも最後に話されました。でも、そういったことをクリスチャンではない人たちにいくら語っても、なかなか信じてもらえないのは事実です。でも、約束を信じている私たちが希望に満ちて生きるなら、またどんな状況でも忍耐する内側からの強さを備えているなら、そして、そのように実例を示している私たちが証をするなら、それは説得力のある言葉になるでしょう。ぜひ、信仰によって生き、そして信仰による命を伝えていきましょう。

 まとめ.さて、決して信仰は簡単なこと、というのではありません。特に見えない、終末のことを信じるのは困難かもしれません。そんな人のために、ヘブル書が示している信仰の秘訣に目を向けます。それは12:1、2。その秘訣とはキリストです。信仰の完成者であるキリストを見るときに信仰が生まれます。それはキリストにおいて表された神の愛、義、聖を知るとき、御子を与えて下さった神様の愛を信頼できるようになるからです。そして、旧約の人々もある意味でキリストを指し示しています。聖書全体を通してキリストを知るとき、イエスキリストを信じる信仰が生まれるのです。また完全な人間となられた神の御子が本当の人間の命を与えて下さるのです。イエスキリストを仰ぎ見つつ、走るべき競争、クリスチャンの人生を進んでいきましょう。