2001年11月25日『ここに、私がおります――汚れから献身へ』イザヤ書6:1〜8
「人生は出会いで決まる」――この人に出会ったから、人生をもう一度やり直そう、と思ったことがあるでしょう。もしこの人と出会っていなかったら、今の自分はないとも思うことがあるのではないだろうか。また、この人と会ってしまったから、腐れ縁が始まったと言う人もあるかも知れない。神は、私たちの人生に素晴らしい出会いを与え、人生にアクセントを与えてくださっている。
粋な計らいをなしてくださる方である。キリスト者との出会い、そして神との出会いへと続く、この恵みは何と表現したらよいのでしょう。その時には気づくことができなかったものに、救われて主の道を歩むようになって始めて気づけるのである。そして、「私を用いてください」と主にささげてゆく生涯へと進むのである。では、神に用いていただくためには、どうすればよいのか。形式的な仕え方ではなく、真にきよめられた、いのちあふれる、ダイナミックな生涯を主にささげたイザヤを通して学びたい。
@ 全能の神との出会い
イザヤは不安な時代に召された預言者である。ウジヤ王が死んだ年に預言者に召された。この
年がいつ頃であったか。おそらく、紀元前748年から734年の間と考えられている。第歴代誌の26章を見ると、後半生は高ぶりの思いから主に打たれてらい病にかかったとはいえ、ウジヤ王は52年もの間、よく治めて、政治的にも軍事的にも優れて業績を残した。南北に分かれた、南王国のユダは、この善王のウジヤによって実に安定した半世紀を過ごしたのである。
このウジヤ王が死んだのである。この死を契機に、ある帝国が動き出したのである。アッシリヤ
帝国である。ユダ国にとって、はるか北東に位置するとはいえ常に地中海沿岸地域を経由してエジプトと対決するメソポタミヤの脅威の勢力である。状況は確実に悪化の方向へと進んだのである。
アッシリヤ帝国が必ず攻めてくる、という恐怖の中で、人々の心は、みことばから離れ、神から離れていったのである。そういう時代に、イザヤは全能の神に出会ったのである。
1節からの記述は、この世の中のどのようなメディアでも造り出せない威厳と力に満ちた情景であった。宮全体に煙が立ち込め、御使いが飛び交い、互いに建物を揺るがすような声を出して呼び交わしている。とりわけ、神の御姿はあまりにも大きく、宮は神の御衣の裾を入れるのにも、充分な広さがない有様であった。イザヤは、神の力を体験し、神の恵みを新たに経験したのである。栄光の主を見て、彼は、主こそ真の王であられると実感したに違いない。誰が全世界を統治しているのか。それは、全能の父なる神であるとイザヤは確信したのである。私たちも、イザヤのそれとは異なるが、様々な場面で神と出会うのである。まざまざと神を見させていただくのである。
私は、1995年の阪神淡路大震災の時のことを思い出す。多くの方が亡くなった。ボランティアで駆けつけた私の目に今も焼き付いているのは、焼け野原となった長田区の一角に、厳然と立ち残った十字架であった。神はいないのか、と誰もが口にしたくなるような惨事の中で、今こそすがって行くものは何か。天地を創り治めていられる主に他ならないと知らされた。そこに神を見いだしたのである。
圧倒的な、神との出会いこそ、私たちの信仰生活の根本であると信じる。
A 汚れへの開眼
その幻を見たイザヤの反応は、喜びに我を忘れるというものではなく、5節を見ると恐怖その
ものである。聖なる主の前に、自分はいったいどういう存在なのかを、深く省みさせられたのである。神を賛美するのが単に口先だけである、との示唆か。そのくちびるの汚れた民の中で、実は自分も汚れていると知ったイザヤ。いや、自分こそくちびるの汚れた者と知らされたのである。くちびるは心の思いが外に表れる器官である。ヤコブの手紙3:5〜10を見ると、舌という器官の罪を警告している。イザヤは、預言者として、説教者として、神のことばを取り次ぐ者として、自分の内面の汚れを認識したのである。他人と比較して相対的には自分を聖く正しいと弁護し得ても、
「万軍の主である王」の臨在という絶対的状況下では、自分の無力さを告白せざるを得なかった。
滅びだけが正当な結末である罪の深さを、徹底して認識し、「ああ、私は、もうだめだ」と告白するしかなかったイザヤ。
あわれみの赦しを求めることすら考えられなかった時に、主のほうから近づいてイザヤの罪を赦し、贖いを与えられたのである。主のあわれみが彼に注がれたのである。燃える炭火を持ってきよめるのである。
私たちの汚れへの開眼は、次のように進んで行く。信仰が私たちの内に芽生え始めると、不思議なことが始まる。
<あの人は罪人。私は違う>→<私たちは罪人>→<私が罪人>→<私こそ罪人、それも罪人の頭>へ成長して行く。神の目に麗しい成長である。「あの人こそ変わるべきだ」とは、もう到底言うことができない。「私は汚れている」と目覚めるとき、それは恵みの時である。徹底した汚れへの目覚めが私たちを変え、主の赦しの中に入れられて行く門口である。主は、その門口から私たちを迎えに出てこられるのである。十字架の主の出迎えである。十字架の上の贖いを、私たちは忘れてはならない。
B 神の召命と献身
罪が贖われてきよくされたイザヤの耳に、初めて、高きに座しておられる主の声が聞こえた。
8節「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」。セラフィムの声でなく。主の御声を彼は聞いた。滅びしかないと覚悟していた者が、罪の赦しをいただいたとき、救いの主、栄光の主にどのようにでもお仕えしたいとの思いが充満したのである。「だれが」と言われた時、それは自分以外の誰でもないと、イザヤは確信を持ってその使命に携わる決意を表明したのである。
「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と。イザヤは、主のために何でもしようと決意したのである。
一昨年、日本福音自由教会50周年大会で、ウエイブライトという宣教師とお会いした。師は、
「献身は神の恵みに対する感謝から始まる」と言われた。主は、汚れを知らせて献身への道を開かせる。罪の赦しの恵みを体験させて、使命に導かれるのである。汚れを知らずして、自分を主にささげることはできないのである。
神の召しに進んで応答したイザヤは、時代の不信仰を厳しく指摘する主のことばを語る預言者となった。平安や繁栄を語るより、さばきを宣告するという困難な役回りを仰せつかった。それも、多くの人々に受け入れられないと予告されている使命である。彼は、困難を承知で働くのである。しかしイザヤは真剣に成し遂げようとその使命に従事していったのである。神のみことばは人を
最終的には生かすものであると信じて、主に己をささげたのである。
私たちも、神と出会って汚れを示されたのである。罪の赦しを神から主イエス・キリストを通してあわれみのうちにいただいたのである。主は今何をささげよと私たちに言われておられるのか。
主に全面降伏して、私自身をささげたい。「主よ。ここに、私がおります。私を遣わしてください」と静かに祈りつつ。