2001年11月11日『悔い改めて子どものように』マタイ18:1〜14
キリスト者として「世的な成功」を追い求めるのはやめたが、今度は「キリスト者としての成功」を追い求める危険がある。つまり、立派な説教者、指導者、讃美歌歌手、信者としての経歴やしもべとしての評判を求める危険である。「どうぞ私を謙遜にしてください。〜そしてみんなに注目されますように」という態度である。天の御国を目指す者として、私たちはどうあるべきかを教えられたい。また信仰者として、主にささげてゆく歩みを確認したい。
@ 天の御国では誰が一番偉いのか
どうして弟子たちはこの質問をしたのか。主に仕える傍ら、弟子たちにとって、誰が一番偉い弟子であるのかは大きな関心事の一つであった。それも、<天の御国では>であった。1節を見ると、
「それでは」という言葉から始まっているのに気が付く。何が<それでは>なのであろうか。前の17章の後半のやり取りが引き金になっている。17章24節から<宮の納入金を納めるべきか否か>が議論されている。この議論の結論は、<世の王の子どもたちにはその義務はない>ということであった。この世の王国において納税の義務がない者がいるとイエスが語ったために、神の国でもそのような特権があるのかという議論になっていったのであろう。その特権があるなら、もちろんそこで一番偉い者がその特権に預かれると考えたわけである。
しかし、イエスは、その質問に直に答えられていない。小さな子どもを呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせて、言われた言葉は3節の言葉である。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国にはいれません。」 悔い改めて子どものようにならない限り天の御国にはいることすらできないとイエスは教えられる。考え違いをしてはならない、この世の標準で考えてはならないと言われる。この世の能力や自分の道徳的な徳で、天の御国に入れるわけではない。<悔い改めて>、罪から離れ、向きを変えて、神に心を向けて生きることが、天の御国への入り口なのである。
A子どものようになるとは?
本日の箇所は、今まで案外誤解されていた箇所と言える。ここでの「こどものように」の解釈である。当時、子どもたちはどのように受け止められ、理解されていたのであろうか。子どもは無邪気で、単純で、人を信頼し、人なつこいという私たちの感傷的な見方を昔の人も持っていたわけではない。
主イエスの時代のラビたちは、子どもたちのことを疎かにしていたわけではない。ミシュナー(ユダヤ文書の初期の集録)は、子どもが最初に罪を犯すことが可能になるのはいつかについての討論のことを述べている。ラビたちと子どもたちの遊びのことにまで触れている。しかし、大まかに言うと、子どもたちのことが重要視されたのは、ただ教育面においてだけであったようである。紀元前1世紀までには、律法の正式な教育が確立され、また重んじられるようになっていた。子どもたちはまた、神から授かったもので、契約の民に属すると考えられていたが、律法教育以外では、ラビは子どものことには関わらなかった。当時ローマ世界で一般的であった態度に比べると、これは非常に子どもたちを重んじたものと言える。ローマ風の考え方では、子どもたちは時によって理想化されたこともあったが、思い通りにできるものとされた。ローマ世界には子どもを遺棄するという、恐ろしい出来事が相次いでいたことは、すでに立証されていること(『子どもに近づく』パウル・バトラー著より)である。これはユダヤ人たちが決して真似をすることはないことであった。しかし、律法教育に専心するのみで、一般的にユダヤ人は子どもを無力な者と見ていたのである。神の国を示された主は、全く新しい態度で子どもたちに接し、またそのように見られたのである。4節で<だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です>と主は言われた。イエスは、むしろ自分が子どものように無力な者であることを認めてへりくだり、神により頼む者こそ神の国に相応しく、一番偉い者と評されるのである。
B主は失われた者を救うために来られた
ある看板が教会の入り口に建ちました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、蛭沼のところに来なさい。蛭沼があなたがたを休ませてあげます。蛭沼は心優しく、へりくだっているからあなたがたも蛭沼のくびきを負って、蛭沼から学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」
こんな看板を建てた蛭沼という人は、人をつまずかせて湖の深みでおぼれ死ぬということになるのでしょう。6節〜9節の<つまずき>に関する警告は、私たちの背筋をしゃんとさせるものです。「手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。一方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。片手片足片目でいのちにはいるほうが、あなたにとってよいことです」と語られた。これは誇張表現であると解される時もある。しかし、必要なものが整っていて神を見失うより、大切なものを欠いても神に近づくほうがよいと教えられるのである。明確な天の御国への招きである。真に、全てが整っていて不自由がないように思えても、いのちを持たない
者を救うために主は来られたのである。イエスだからこそ、<わたしは心優しく、へりくだっている>と言うことができる。その主は、この小さな子どもを大切にされたのである。天の御使いたちも、天におられる父なる神の御顔をいつも仰いでいるのだから、私たちも神を仰ぎ、主の御教えに
教えられて、へりくだる者として自分をささげてゆく必要があるのである。
主イエスは、以前は知らなかったような品位のある態度をもって女性たちに対応されたように、子どもたちにも根本から新しい態度を取られたのである。迷った羊を探す羊飼い。その一匹が見つかり喜ぶ羊飼い。その羊飼いのように、主はひとりとして滅びることを望まない。小さな子どもたちがその主の愛と慈しみの中で、一人一人かけがえのないものとして大きく育てられ、私たち大人も、子どものようにへりくだって成長してゆきたい。天の御国を目指して。