2000年11月5日 『全き救いに生きる』ヘブル書10章


序.皆さんの中で、「自分はクリスチャンになったけれど、本当に救われたのだろうか」ということを考えたことのある方がおられるでしょうか。私はあります。自分は本当にクリスチャンなのか、と悩んだことがあります。でも、聖書を通して神様が語って下さったのは、「あなたは救われているんだよ」というメッセージでした。神様が与えて下さった救いは、完全です。イエス・キリストを救い主として信じたなら、あなたの救いは完全なのです。そして、「自分は救われているんだ、これで良いんだ」と心から言える、それが救いの確信です。この確信を持つということは、クリスチャンとして生きていく上でとても大切なことです。今日はこの「完全な救いと確信」ということについて、ヘブル書10章から学びたいと思います。
 第一に、なぜ私たちの救いは完全だということができるか、その根拠として「完全な救いの土台」ということをお話しします。第二に、そのような救いをいただいた者はどのように生きるのか、「完全な救いの成長」ということを考えます。第三に、「完全な救いの確信」ということをお話ししたいと思います。それから、今日は説教の後で聖餐式を行うのですが、この聖餐式の意味についても少しだけお話しようと思っています。

1. 完全な救いの土台 (1節から18節)
   前回、9章からメッセージを取り次いだ時に、旧い契約と新しい契約、ということを話しました。旧い契約にも救いはあったのです。しかし、その救いは条件付きであり、不完全なものであった。それに対し、新しい契約の救いは完全なものです。旧い契約と新しい契約、つまり旧約と新約の違いはどこにあるのか、といいますと、それはキリストが来られたことです。神であられるお方が人間になられたというのは、大変理解しにくいことです。現代人にとってもわかりにくいのですが、紀元1、2世紀の人々にとっても受け入れ難かったようで、たびたび、そのことについて議論が起こったくらいです。その結果、今日、使徒信条の中でも告白されているように、神の御子は聖霊によってマリアの体内に宿り、マリアから人間としてお生まれになった。生身の体をもった人間となられたのです。このことが教会にとって動かすことのできない真理として確立しました。キリストが人間となられたことを、専門用語で受肉と言います。肉体を受けられた、という意味です。どうしてこのことが、議論されるほど大切なのかといいますと、私たちの救いに関わることだからです。そのことをヘブル書の著者はこのように説明しています。
 5節から、詩編40編の言葉が引用されています。 5−7節。 ここに「私のために体を作って下さった」というのはキリストのことを預言しているのだと、著者は説明しています。ところで、この7節には面白いことが隠されています。詩編40編を読んでみますので、お手元のヘブル書5節からと聞き比べて下さい。「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。(ここまではあまり変わりませんね。) あなたは私の耳を開いて下さいました。」ちょっと違いますね。これは旧約聖書がヘブル語からギリシャ語に翻訳されたとき、この「耳を開いて下さった」というのがわかりにくかったので、イスラエルに住んでいない人にも分かる表現に言い直したのです。そのギリシャ語の聖書をヘブル書の著者は使ったので、違いがあるわけです。でも、何で「耳」が「体」になったのかと言いますと、こんなことだと考えられています。
 詩編の方も、ヘブル書でも、そうですが、ここに書かれているのは、神様は動物のいけにえよりも神様の御心を行うことを喜ばれる、ということです。神様が耳を人間に作って下さったのは神様の声を聞いて、それを行うためでした。それは耳で聞いて、体全体で実行します。ですから、神様に従う、ということから考えれば、耳を開けて下さったのと体を作って下さったことは同じだ、ということです。ある人は、この詩編にはもう一つの背景があるらしいと説明しています。出エジプト記や申命記に出てくることなのですが、昔、イスラエルの人が借金を返せなくなったとき、自分の身を売って借金を払うことがありました。自分を売ったら、今度は買った人の召使いとして働くことになります。そのときに、律法によれば、六年間働いたなら、七年目には自由の身になれる、と決められていました。もしも、その召使いが、このご主人は素晴らしい人だからこの人の下でこれからも働きたい、と思ったときには、一生忠誠を誓う儀式が行われました。その儀式とは、その召使いの耳を入り口の柱にキリで刺し通す、というものです。これも、恐らく主人の命令を良く聞くことを象徴する意味があったのでしょう。
 キリストが人間の体を持たれた、というのは、旧約聖書の表現を使えば、耳に穴を開けられた、それは忠実な僕となるためです。そして、神様のみこころを全て成し遂げられたのです。神のみこころとは何でしょうか。神様は動物のいけにえやささげものでは満足されなかった、と書かれています。神様はステーキが食べたかった、というのではありません。動物のいけにえは、本当の救いが現れるまでの応急措置でした。でも、人間の罪が赦されるためには、動物の犠牲ではだめなのです。そこで、神様は神の御子であり、神ご自身と等しいお方であるキリストを人間にし、その体をいけにえとされたのです。これ以上の価値のある犠牲は他にありません。そして、神様の方が人間を救うために犠牲を払うことで、神様が愛であることを示された。ですから、キリストの贖いは神様のみこころだったのです。言い換えると、神様のみこころに完全に従ってキリストが十字架上でご自分をささげて下さったことで、人間の救いのために必要な神様の基準は完全に満たされたのです。キリストによる救いは完全なのです。どのくらい完全かというと、繰り返す必要がない、とヘブル書は語っています。自動車免許の試験で、不合格でしたら何度でも試験を受けなければなりません。でも、合格したら、もう二度と試験の必要はありません。キリストのいけにえは神様のみこころにかなっていたので、もう二度と同じことはなさらない。その一回だけで、全ての時代の人を救うことができ、どんな罪をも赦すことができ、心の奥底まで聖めてくださることができるのです。
 私たちが十字架による救いを受け入れたとき、私たちは完全に救われたのです。なぜなら、それは神様のみこころだからです。例え私たちには自信が無くても、神様がそのように決められたのですから、私たちの救いは確実なものなのです。10節、14節。
 神様が与えて下さる新しい契約による、そしてキリストの贖いによる救いは、完全な救いです。その救いをいただいてから後、私たちはどうしたら良いのでしょう。完全な救いを手に入れたのだから、何もする必要は無い、神様もキリストももういらない。そんなことではありません。救われた者の生き方が19節からに教えられています。


2. 完全な救いの成長 (19−25節)
   私たちが救われたのには目的があります。それは、神様に近づいていくことだ、とヘブル書では書かれています。昔のイスラエルの神殿で、人々が動物の犠牲により罪を赦され、その血によってきよめられて、それから、神様の前に近づいていって礼拝ができたとうに、私たちが救われた、つまり罪を赦され、聖とされた、その目的は神様の下に近づいていくことです。そうすべき理由として、旧約の儀式の言葉を借りて、19節から21節に3つのことが挙げられています。まず19節、キリストの血が流されたこと、これは実は9章で語られたことの要約です。次に20節では、キリストの肉体によって神のもとへ行く道が設けられた。これは10章の、これまでのところで書かれていたことです。さらに21節、キリストが大祭司として私たちのために働いていてくださる、これは8章までで語られたことです。こうして見ますと、19節から25節はヘブル書の1章から10章までの結論となっています。キリストが大祭司となって下さり、新しい契約を結んで下さり、ご自分の体をいけにえとして下さった、こうして救いの全てが整えられたのだから、さて何をすべきか。それが22節です。 22節。 私たちはキリストの血によって罪に汚れた心をきよくしていただきました。きよい水で洗われた、というのは洗礼のことでしょう。そして、「ですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」 「全き信仰」というのは「信仰の確信」という言葉を意訳したものです。キリストの全き救いをいただいたことを確信するならば、神様に近づいていくことができるのです。神様に近づいていくというのは、違った言葉で言うと、クリスチャンの成長ということです。では、どのように近づいていくのでしょうか。具体的なことが23節から25節に示されています。 23−25節。 まず、神様の救いの約束、すなわち天国に行ったときに救いは完成する、ということを信じて、その希望を告白する。次に、愛と善行をするようにお互いに勧め合う。そして最後に、励まし合う。これらはどれも、教会における交わりに関係しています。希望に基づく信仰の告白、お互いに教え合い、励まし合う。この教会生活の中心が礼拝であり、その礼拝に於いて私たちは神様の見前に進み出ます。また、この教会から送り出されて、それぞれの場所で神様を証ししていきます。それを支え合うのもクリスチャンの交わりです。
 成長のために個人的な祈りも大切です。一人で神様と交わるのは素晴らしいことですが、気をつけないと、自分勝手な信仰になる危険もあります。教会の交わりには、時には難しい面もありますが、祈りあい教え合い、共に神様に奉仕をし、礼拝をするときに、自然と成長が始まるのです。
 ところが、25節の中に、教会に集まるのをやめてしまった人たちがいたらしいことが書かれています。その原因はいろいろと推測されますが、一つの大きなことは迫害でした。クリスチャンとなったユダヤ人の中には、迫害のためにキリスト教から離れ、ユダヤ教に後戻りする者たちが少なくありませんでした。私たちも、クリスチャンとして世の中で生きていくときに摩擦が生じます。救われて神様と共に歩んでも、困難は必ずやってきます。そんなとき、どうしたら良いでしょう。


3. 完全な救いの確信 (26−39節)
   全き救いをいただいたのに、その救いから離れてしまうかもしれないクリスチャンたちに書かれたのが26節からの所です。 26節。 これを読むと、ちょっと怖くなります。でも、これを、救われてから罪を犯したらもう救いはない、というふうに理解するのは間違いです。ここで言われているのは、「ことさらに罪を犯し続ける」、さらに29節では「神の御子を踏みつける」、「キリストの血を汚れたものとし」、「悔い改めを促す聖霊を欺く」といった、きわめて悪質な状態です。それにしても、ここに出てくる「さばき」とか「処罰」などの言葉は厳しいものです。でも、それは理由があります。崖っぷちで子供が遊んでいる時に、「あら、あぶないよ」とのんきな言い方をする人はいないと思います。むしろ力尽くでも危ないところから連れ戻そうとしないでしょうか。キリストから離れてしまい兼ねない、そんな状況にいる人々に、多少厳しすぎるかもしれないが、必死で警告を発している、それが26節からの言葉です。ですから、ここの意図は、読者が救いから離れないように、ということです。そして、同じ意図で、しかし違った語り方で32節から語っています。
 ここまでの厳しい警告は、「私たちが」と、著者は自分を含めて言うことで、一方的な非難にならないように気をつけています。それに対し、32節からは、「あなたがたは」と言って、読者たちの良い面を誉めつつ、彼らが救いから離れないように勧めているようです。 32―34節。 彼らが救われた初めの頃に、苦難に耐えていた時のことを思い出させようとしています。救いの感激が強かったとき、彼らは迫害や非難に耐えたばかりか、迫害されている者たちの「仲間になった」と書いてあります。他のクリスチャンが辱めを受けたり、苦しんでいるときに、一緒にいることを恥ずかしく思って離れるのではなく、困難を共に味わう、これが本当の交わりです。また、そのような人たちを助けるため犠牲を払うことを惜しまなかった。ここにキリスト者の愛があります。そういった素晴らしい行いは、神様の約束、「もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っている」ことへの確信から出ています。その確信、そして彼らが素晴らしいキリストの救いを受けていることの確信を、投げ捨てないように、と35節でまとめています。
 36節には「忍耐」という言葉が出てきます。世の中でも、辛いときは忍耐することを教えます。しかし、聖書の教える忍耐は、何もしないでひたすら待つ、というような消極的な、根拠のない忍耐ではありません。キリストの贖いに基づく確信から出ており、約束に向かって進んでいく行動が伴う忍耐です。約束への信仰、ということも39節に出てきます。この信仰も、「恐れ退く」ことではない、もっと積極的な、命と結びついた信仰であり、忍耐です。どんな状況でも堪え忍ぶことができるのは、確信であり信仰です。もちろん、信仰も確信も人間が努力して自分で得るものではありません。聖霊は私たちの内に働いて下さるときに与えられる恵みです。ただ、私たちにまかされているのは、救いの確信を求めることと、確信を与えようとして心に迫って下さる聖霊に聞き従うことです。しかし、神様は弱い私たちのために様々な助けも用意していて下さいます。
 信仰とは何か、ということは11章のテーマですので、次回にお話ししますが、その中で、11:1に「信仰は、目に見えないものを確信させるもの」だと言われています。天国で与えられる約束のものも、そして救いそのものも目には見えないものです。見えないものを信じるのは、時には難しいことです。私たちの弱さをご存じの神様は恵みとしてさまざまなものを与えて下さっています。その一つが、これから行おうとしている聖餐式です。聖餐のパンと杯は、目に見えるものですが、キリストが人間の体をとって下さり、その体で贖いの業をなして下さったことの記念です。このパンと杯を見るときに、神の御子が人間となって下さったこと、その体と血をもって救いの道を開いて下さったことを、私たちは思い起こすことができます。ですから、この聖餐はキリストが神のみこころを成し遂げて下さったことの証拠です。その血によって罪が赦されたことの記念です。十字架上で裂かれたその体を通って神様に近づく道ができたのです。聖餐のパンと杯を受けるたびに、私たちはキリストによる完全な救いを思い出すことができるのです。そして、キリストが再び来られる日まで、この聖餐は守り続けられます。この聖餐式を中心した礼拝、礼拝を中心とした教会、そして底に連なる兄弟姉妹との交わり、それらが私たちに与えられている恵みです。


まとめ.救いの確信を持っていますか。自身がないかもしれません。でも、キリストがして下さった贖いは完全です。そこに信頼して、神に近づいていきましょう。また、教会の交わりを通して、励まし合い、祈りあい、ますます成長していきましょう。