2001年11月4日『神に向かう生き方』マルコ12:35〜44
人の真実な心に触れるのは、とて良いものである。自分の心の在り方を考えさせられる。
香瑠鼓(かおるこ・43歳)さんというダンサーの記事がある日の朝日新聞の天声人語に載った。「慎吾ママのおはロック」などの印象に残るCMの振り付けも手がけた人である。次のような記事であった。―――
<舞台が終わるのを待ちかねて一人の中学生が訪ねてきた。「私にダンスを教えて」。そう言う目の焦点が定まらない。5年前、学習障害児たちとのダンスレッスンがこうして始まった。ひとこともしゃべらない子、独り言を繰り返している子。4人の生徒は何を言っても耳を貸そうとしない。
硬い体をほぐしてやりたい。音楽にも乗せてみたい。思いは空回りするばかりだった。やがて自分の腰を痛めて気がついた。「よくしてやろうなんて思ったのがまちがいでした」>
自分の在り方を振り返り、こうであってはいけないと気づくことは、大きな恵みである。神に教えられ、主にならう者になって行くことほど、感謝なことはない。しかし、自分は変わる必要はないと固持することは、自ら成長することを拒否することになる。このことは日々私たちに問われることである。今日の箇所を通して、神の前に悔い改め、救いの恵みを感謝して日々教えられ、変えられてゆきたい。
@ キリストを誰と告白するか。(12:35〜37)
<ダビデの子としてのキリスト>に関する議論が、律法学者たちとの最後の議論であった。それまで、カイザルへの納税の問題、復活についての議論、大切な戒めについての議論をイエスは受けてきた。今回の議論は、イエスの方から問題を提起をした。「キリストは誰の子か」 この問いに対する彼らの答えは決まっている。<ダビデの子>である。キリストはダビデ王家の血を引く子孫として生まれると定められ預言されていた。
しかし、イエスは詩篇の110篇を引用し、彼らに問う。
詩篇110:1<主(神)は、私の(ダビデ)主(キリスト)に言われた。
「わたし(神)があなた(キリスト)の敵を
あなた(キリスト)の足台とするまでは、
わたし(神)の右の座に着いていよ。」>
もしダビデの子なら、父祖であるダビデがキリストを「主」と呼んで自分より優れた者とする――
しかもこの方は神の右の座に着きなさいと神御自身から言われている――のは不可解ではないかと。第一に、この詩篇がメシヤについて語っていること、第二に詩篇が神の御霊によるものであることに異論を挟まない彼らは、答えを失ったのである。ダビデの治世にイスラエルは、勝利を収めて自由であったので、イエスの時代の人々はダビデを尊敬していた。彼らはまた、ダビデの子としてのキリストに、偉大な政治的征服者であることを期待していたのである。イエスは、そのメシヤ像を否定したのである。父なる神は、子なるキリストを地上に使わす前に時を定め、勝利を約束された。十字架から復活へ、復活から昇天、再臨に向かう勝利である。血筋としてはダビデの子キリストも、実はダビデ王の下にあるのではなく、ダビデの主であり、まことの王なのである。
この詩篇で、ダビデは来るべきメシヤを「わたしの主」と告白している。私たちは、キリストを誰と告白するのであろうか。キリストはあなたの人生の主であろうか。「キリストはわたしの主、人生の主」と、ダビデを導いた聖霊は、私たちの心をも導いて告白させてくださるのである。この信仰告白こそ私たちのキリスト者としての、心の在り方である。この告白を日々させていただき歩んでゆきたい。
この土台を教えた上で、律法学者たちの偽善を明らかにされる。
A 自我に生きる者――律法学者たちの偽善と貪欲(12:38〜40)
イエスは、律法学者たちの偽善を厳しく批判された。彼らは、人々に神のことを教えながら自分たちは自分の栄光を求め、敬虔そうに装っては、その実、自分の利益のみを考えていた。
@<長い衣>――特権階級のしるし。短いものには布佐を長くし、それをまとって歩き回ることが大好きであった。
A<広場であいさつされる>――有名人の証拠。わざわざ広場にいて、人々からあいさつを受け、そこに心地よさを味わおうとする。そして身分を誇示するのである。
B<会堂の上席や、宴会の上座が大好き>――尊敬のしるし。U字型の底の部分の席に座ることは社会的地位の表明であった。会堂や宴会でも、とにかく人々の前で上席上座を求めるのである。そうしたものに執着する尊大さと虚栄は、自我に生きる者の醜い現実と言える。
C<やもめの家を食いつぶす>――富めるやもめの訴えを上手に聞きつつうまく処理し、その財産をかすめるようなことをしていた。宗教的権威をかさに人目につかないところで貪欲をむさぼるのである。
D<見えを飾るために長い祈りをする>――いかにも長い祈りをして、さも信仰深そうに見せかける。
イエスは最後に、「こういう人は人一倍きびしい罰を受けるのです」と、偽善の罪の重さを指摘
する。藤本満師はこの所の解説で、<正面切って我欲に走るのではなく、宗教的立場と敬虔を仮面として利用しつつ自分の利益を追求すること、自分を立てるために神を利用することは、神に対する裏切り行為である>と語っている。マタイによる福音書で、イエスは、同じ並行箇所で彼らの偽善を次のように表現している。
マタイによる福音書23:27〜28
「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。
あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、
内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、
あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」
民数記19:16には、墓に触れる者は七日間汚れるとある。祭りに上って来る巡礼者たちが、
過って墓に触れぬように、道端の墓は白く塗られた。しかし墓の外側は美しくなっても内側の汚れはなくならない。そのような墓と彼らは似ていると指摘するのである。
私たちは、律法学者のこれらの偽善を一笑にふすことができるであろうか。やはり私たちは、自分も同じ墓石のような存在なのではないか。自分に都合のいいことのみ求め、都合の悪いことは隠しながら、他人のそれを見ると大げさに批判する。自分は変わらなくていい。変わるべきはあの人だと。自分中心な生き方はないだろうか。悔い改めを主は迫られているのではなかろうか。
B 神に向かって生きる者――やもめのすがすがしい信仰(12:41〜44)
エルサレム神殿は、聖所を中心として、<祭司の庭>、<イスラエルの男子の庭>、<婦人の
庭>そして<異邦人の庭>が取り巻いていた。その異邦人の庭と婦人の庭の境にある<美しの門>
を入った場所に、その壁にラッパ形の受け口の十三個の献金箱が備えられていた。
イエスは、その場所に座り、献金の様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた中、そこに一人の貧しいやもめがやって来て、レプタ銅貨二つ投げ入れた。現在の貨幣単位で言うならば、1デナリ(=一日の労賃)は約4千円(時給500円×8時間労働として)、その128分の1が1レプタ=約32円。それが2枚であるから、約64円と言うことができる。ドルで換算すると約50セントちょっとである。
これを見ていたイエスは、弟子たちを呼び言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりも
たくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
彼女は、生活の全てをささげていた。神に完全にささげ信頼をしていた。彼女は、自分の思いをはるかに越えた摂理の神、しかも親しく私を導いてくださる神を知っていたのである。苦しくても常に神に向かって生きていた人であった。イエスは彼女の徹底した献身に深く感動を覚えられたのである。キリストに召された私たちは、常に神の前に悔い改め、自分中心の歩みを振り捨てて、主の十字架を仰ぎたい。そして主の最善のために、私たちの最善をおささげしたいのである。
最後に、次の言葉を紹介したい。
舟喜信師著『キリスト者が神を信じるということ』の中に、次のような文章が書かれている。
<間違ったなら主が教えてくださいます。ですから、悔い改めのない硬い心、霊的に散漫な
態度で、主の御声を聞き逃すことのないようにしたいのです。せっかく知らせようとし、
導こうとされる主のみこころに鈍感な者にならないようにしたいのです。励んで悔い改める砕かれた魂に、知らなければならないことが知らされないままではあり得ません。〜
(神との新しい歩みは)悔い改めることに疲れない歩みであり、日々赦しの恵みの中に生きる祝福です。神の聖(聖さ)を身近に意識する霊的な感受性、生きた信仰の輝きがそこにあるのです。>
そして、
旧約聖書の詩篇51篇16〜17を紹介したい。
<たとい私がささげても、
まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。
全焼にいけにえを、望まれません。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。
砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。>