2000年10月29日『本当の愛』ヨハネ13:1ー17

導入
皆さんは、誰かを本当の愛をもって、愛したことがあるか?と尋ねられたら、どう反応するでしょうか?  まず、最初に浮かんでくるのは本当の愛って何だ?という疑問ではないでしょうか?  現代の世の中は、あまりにも、愛という言葉が氾濫していて、本当の愛というものを定義づけるのは、至難の業です。  いろんな人がいろんな定義をつけるでしょう。  「心が燃え上がるように踊ったから、これは本当の愛だ」という人もいるでしょう。 あるいは、「他人がどう言おうと、自分でこれこそ本当の愛だと決めたから、本当の愛だ」という人もいるでしょう。 あるいは、「本当の愛なんてないのさ。 ただ、みんな錯覚しているだけだよ。」なんて、冷めている人もいるかもしれません。 一体、本当の愛とはどのようなものなのでしょうか? 何か、基準と呼ばれるものがあるのでしょうか?

本日は、先程お読み頂いた聖書箇所を通して、本当の愛に基準があるのか、また、あるのだとしたら、その基準とは一体どのようなものなのか、 どうやれば、その本当の愛を伝えることができるのかということについて、共に学びたいと思います。

背景
まず、始めに、本日の聖書箇所の背景について、少し見てみたいと思います。 弟子達と苦楽を共にしてきたイエスさまは、いよいよ、ご自分がこの世に来た本当の目的を達成する時が来たことを知り、弟子達と共に、エルサレム入りをしました。  本当の目的とは、世の人の罪を背負って十字架上で死に、神様の栄光を顕わすため、3日目によみがえることです。  時はちょうど、過越の祭りという、神様がユダヤ人をエジプトの奴隷状態から解放し、連れ出すときに、羊の血を門柱と鴨居に塗りつけることを命じられ、その血の塗ってあった家だけを、主の霊がエジプト中の初子を打ったとき、過ぎ越したというユダヤの人々には、忘れることのできない主の救いの日を記念するお祭りのシーズンです。 たくさんの人々がこのお祭りに乗じて、主の宮で礼拝しようと、続々と集まってきます。 このお祭りのために、羊がほふられ、みんなに分け与えられるのです。 ところが、イエスさまは、この羊を食べることはできなかった。 なぜなら、その羊のほふられる前日に、彼は十字架上で、無惨な死を遂げていたからです。  ちょうどエジプトで人々を奴隷状態から解放するために羊の血が流されたように、全ての人を罪の奴隷状態から解放するために、彼自身が、ほふられる羊となったのです。  その十字架の前日、イエスさまは弟子達と夕食を共にします。 最後の晩餐と呼ばれる会食です。 その冒頭部分に当たるのが、本日の聖書箇所です。 ここでは、イエスさまは弟子達の足を洗って回るのですが、その一連の行為を通して、今まで苦楽を共にしてきた弟子達に、本当の愛を示そうとされました。 この物語を通して、イエスさまは、本当の愛とはどのようなものなのか、どのように示せばよいのかということを教えています。

PROPOSITION
この箇所を通して、この福音書の著者であるヨハネが言いたかったこと、それは、「イエスさまは、教師として、案内人として、そして、訓練士として、私達に本当の愛を伝授してくださる」ということです。  イエスさまは、ただ、教師として教えるだけでなく、教えた後、案内人として次に何をするべきかを示し、そして、訓練士として、教えた内容ができるようになるように訓練してくださるのです。  では、本当の愛を教える教師として、本当の愛に導く案内人として、そして、本当の愛の実践を訓練する訓練士として、イエスさまがしてくださったことを、それぞれ、共に見ていきたいと思います。

I. まず、イエスさまは、本当の愛の教師として、何が本当の愛なのかについて示しています。  ここでは、イエスさまは、何が本当の愛なのかを示すに当たって、彼の模範的行動を通して、大きく2つのことを教えています。  それは、「本当の愛とは、謙虚である」ということと、「本当の愛とは、無条件である」ということです。  まずは、「本当の愛とは、謙虚である」ということについて見てみたいと思います。  4節から8節前半まで。  お読みします。

道路もきれいに舗装され、靴とか靴下とかいったものを当然のように愛用している私達にとっては、足を洗ってもらうというのは不自然に感じるかもしれません。 ところが、皆さん、想像してみてください。 この頃、舗装された道路なんかどこにもありません。 しかもエルサレムのあるパレスチナ地方は、乾燥地帯で、いつも砂埃の上がっているようなところです。 それに加え、履いているものはといえば、サンダルです。 ちょっとその辺に買い物に行っても、足はすぐに砂だらけになってしまいます。 そのような汚くなった、しかも、他人の足を洗うのです。 皆さん、したいですか? イヤでしょう? その当時の人達もイヤだったんです。 ですから、足を洗うというのは、奴隷の仕事、その奴隷のなかでも、最も位の低い奴隷の仕事だったのです。 普通の一般人が、他人の足を洗うなんていうのは、考え得ることではなかった。  ましてや、先生と呼ばれる人が弟子達の足を洗うなんていうのは、前代未聞だった。  ですから、イエスさまが足を洗いだしたとき、ここには詳しくは書かれてはいませんが、弟子達は、どう反応して良いのかさえわからなかったでしょう。 まさしく、固まった状態だったでしょう。

それでも、なんとか口を開いたのが、一番弟子ペテロです。 こういう背景を知って、この部分を読んでみると、ペテロの驚きが手に取るように伝わってきます。 「主よ。 あなたが、わたしの足を洗ってくださるのですか?」  イエスさまはもちろん彼らが驚き、どう反応して良いものかわからず、躊躇しているのをよく御存知ですので、彼らをリラックスさせるために言います。 「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、後でわかるようになります。」  それでも、ペテロは引きません。 「いえ、決して私の足をお洗いにならないでください。 めっそうもない!」  それほどまでに、イエスさまの為されたことは、その当時の慣習から見ると、常軌を逸していたのです。 まさに、掟破りだったのです。  しかし、イエスさまはこの掟破りの行動を通して、本当の愛とは、この世の常識に左右されず、プライドを消し去った、謙虚なものであるということを教えているのです。

私達が愛を示そうとするとき、あるいは、誰かに仕えるとき、最も大きな障害は、私達のうちに潜むプライドです。  「何でわたしが自分より身分の低い、あるいは、自分より若い、あるいは、そんな価値のないこいつにしてやらんといかんのか?」 あるいは、したとしても、「この忙しい、有能な私がしてやったんだ」とか、「この金持ちの私がしてやったんだ」という気持ちが入ったとき、たとえ、どれほど、この世的に見て、評価を得るような内容だったとしても、その行為は、本当の愛とは無縁のものになってしまう。  イエスさまがなさった行為は、その当時の教師達には、プライドがあって、とてもできるものではなかった。  まさしく、プライドもなにもかもかなぐりさって、本当の意味の謙遜さをもって、初めて、できる行為だったのです。  本当の愛とは、まさに謙虚さ、そのものなのです。

それでは、もう一方の「本当の愛とは無条件である。」ということについて見てみたいと思います。 8節―11節までをお読みします。

私が、まだ、クリスチャンになる前に、この箇所を読んだとき、このイエスさまの最初の答えにとまどったのを覚えています。  一つ目のポイントでお話ししたような文化背景など、もちろん、全く知りません。 ですから、「このイエスっていう人は、なんか、いい人かと思ったけど、実はよくわからん人やな。  なんか、頼みもせんのに人の足を勝手に洗うという奇怪な行動をとっておいて、それを辞退したいと言っている人に、“私が足を洗ってやるって言ってるんだから、洗わせなさい。 でないと、あなたは、わたしとは、何の関わりもない。” なんて、横暴なこと言って。 これやったら、“俺の酒が飲めんのか”って言ってるうちの上司とかわらんやん。」なんて、思ったことを覚えています。  自分の事ながら、自分一人で聖書を読んで、勝手に解釈する危なさというものを示した良い例だと思います。  

でも、確かに、このイエスさまの答えはわかりにくい。  こういったときに、大切なのが文脈、このことが言われている前後関係を見ることです。  イエスさまは、これを文字通りの意味合いではなく、象徴的な意味合いを持たせて言ったのです。

冒頭で触れたとおり、この晩餐の翌日、イエスさまは、十字架上で、人々の罪を、ご自分の血でもって洗い流します。  私達は、その流された血の洗いをもって初めて、神様との関係を修復できるのです。 言い換えれば、もし、イエス・キリストの十字架で血の洗い受けなければ、私達と神様・イエスさまとは、壊れた関係のまま、すなわち、無関係ということになります。

イエスさまは、もう何度も、弟子達にその血の贖いの必要性を説いてきました。  にもかかわらず、弟子達はこの時点で、それを全く理解していませんでした。  その良い証拠が次のペテロの反応です。  何の関係もなくなると聞いて、これはたまらんと思ったのでしょう。  「足だけといわず、手も頭も洗ってください。」  象徴的な意味合いを全く理解して無いどころか、もっといろいろ洗ってもらえば、もっと関係が親密になるとでも思ったのでしょう。  そのような鈍感な弟子の反応にも、イエスさまは怒らず、優しくたしなめ、“あなたがたは清いですよ”と励まします。

ところが、そのすぐ後に、すごいことをポツリと言います。  「あなたがたは清いのですが、みながそうではありません。」  ヨハネは、後ほど振り返って、恐らくその時には聞き流していたこの言葉の本当の意味に気づいたのでしょう、この言葉に対してのコメントを差し入れています。  11節、「イエスはご自分を裏切るものを知っておられた。 それで、“みなが清いのではない”と言われたのである。」  イエスさまは、イスカリオテ・ユダが自分を裏切る企みをしていることを、このとき、既に知っていたのです。  皆さん、想像してください。  常に共にいて、信頼し、様々な機会を通して愛を示し、自分の人となりをだれよりも良く知っている弟子の一人が、今、自分を裏切ろうとしている、そして、その裏切りのために自分は、無実なのにも関わらず、十字架という最も苦しく、最も惨めな刑に、処されようとしている。  彼の中に憤りはなかったのでしょうか?  しかも、彼は、やろうと思えば、天から火を呼んで、この目の前でのうのうとしている裏切り者を焼き尽くすことだって可能だったのです。  でも、彼はそのようなことはしなかった。  それどころか、なんと自分を裏切ろうとしているこの弟子に対しても、他の弟子に対するように、愛をもって、足を洗って仕えたのです。  足を洗った弟子達のリストからユダが省かれていたというようなことはどこにも書かれていません。

イエスさまの示した愛は、まさに差別無く、また見返りを期待しない無条件の愛だったのです。  本当の愛とは、雑誌や歌の歌詞で言っている、「好きだ、愛してる」「恋に落ちた」という軽いものではないのです。  本当の愛とは、どのような犠牲もいとわない、自分を無にしないとできないもの、まさに無条件なのです。

このように、イエスさまは、教師として、ご自分の示した模範の中で、本当の愛とは、謙虚であり、無条件であるということを教えてくださいました。

II. 次に、イエスさまは、本当の愛の案内人として、私達が次にすべきことを示してくださいます。  12節から15節まで。 お読みします。

まず、はじめに、イエスさまは、弟子達が自分のことを先生とか主とか呼んでいるということに触れて、「あなた方は正しい。 わたしはそのようなもの、すなわち主であり先生である。」と宣言されます。 いよいよ神の栄光を顕わすときが近づいて、イエスさまは、自分のアイデンティティーを、明確に示されています。 自分は、確かにあなたがたの主であり、天の神様に遣わされた者・神の子であると。  そして、その主であり、先生である自分が、あなたがたの足を洗って、愛の示し方の模範を示したのだから、あなたがたもまた、その模範にならって、お互いに足を洗い合うべき、愛し合うべきであると命じられます。

イエスさまは、ただ、本当の愛とはそれがどのようなものかを知るだけでは、十分ではない: 本当の愛とは、それを実践するときに、初めて、本当の愛となり得るのであるということを示されているのです。  そして、本当の愛とは、すなわち、神の御国での愛の基準でもあり、神の子供として、私達が実践すべき事でもあるのです。

さて、完全な謙虚さと無条件を要求される本当の愛を、イエスさまは、弟子達に、そして私達に、実践するように命じているわけですが、「じゃあ、みなさん、この命令通り、早速今日から完全に謙虚で無条件の愛を行動をもって示しましょう。」と言われたとして、みなさんはどのように反応されるでしょう?  「そんなん、できるわけないやん」と言って、途方に暮れてしまうのではないでしょうか。  本当の愛がどういうものであるかがわかればわかるほど、その愛を実践するというのはほとんど不可能に見えてくる。  キリストに付き従うものとして、その命令通り、本当の愛を示していきたい。  それはすばらしいと思うし、その気持ちはある。  しかし、実際問題として、なかなか、そのようにうまくいかない。  自分の敵どころか、自分の味方や愛すべきものたちにさえ、本当の愛を示せない。  自分のプライドや感情がどうしても邪魔してしまう。  自分は愛のメッセージを送ろうと思っているにもかかわらず、送っているメッセージは、自分のエゴだったり、相手を責め立てるものだったりする。  謙虚さや無条件といった本当の愛からほど遠いものになってしまっている。  神様の私達に対する熱い期待と現状の従いきれない自分の弱さ・罪深さの間に板挟みになって、どうしていいのかわからず、もだえている。  それが、残念ながら、私達の現在の姿ではないでしょうか?  では、一体、このジレンマをどう解決すればよいのでしょうか?

III. ここで、三つ目の、訓練士としてのイエスさまの役割を見てみたいと思います。  イエスさまは、私達の訓練士として、私達に本当の愛を実践させると約束してくださっています。  16節17節。  お読みします。

イエスさまは、そもそも、「自分が模範を示したのだから、あなた方もそれを行いなさい」とおっしゃったとき、弟子達がこれらを守り行うことができると考えていたのでしょうか?  もちろん、これらを守り行うことは、神の御国の基準でもありますし、イエスさまは、弟子達に守り行って欲しいと強く望まれていたことは間違いないでしょう。  ただ、弟子達が、守り行うことができない弱い存在であることも、同時に、イエスさまはよく御存知でした。  それは、このあとすぐ、「あなたのために命を捨てます」という“本当の愛を示します宣言”をしたペテロに対し、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言います」とペテロがイエスさまを否定することを予言したことからも、明らかです。  また、弟子達と同じように、今を生きる私達も、弱く、罪深いものであり、その愛を実行しきれない存在であるということも、イエスさまはよく御存知なのです。  

だからこそ、イエスさまは、その私達のその実践できない弱さ、従いきれない罪深さのペナルティ・罰を背負って、私達の代わりに十字架についてくださった。 ― そのような神の基準に達することのできない私達が、それでももう一度許されて、神の前に立つことができるようにと。  ここに、イエスさまの私達に対する本当の愛を見ることができます。

また、イエスさまは、私達の罰を代わりに受けて下さっただけでなく、私達が、実際に、その本当の愛を示すことができるようにと、聖霊様を送ってくださった。  その聖霊様が私達の中で働いてくださることにより、その本当の愛というものを実際に示すことができるようになる。  聖霊様を通して、この本当の愛を実践してくださったその人・イエス・キリストが訓練士として、私達の中に住んでくださることにより、私達は、その本当の愛を実践できる者へと変えられていく。  

私達の主であり、私達を遣わしてくださる方であるイエスさまは、このように、為すべきであるにもかかわらず、為すことができない弱さから来る私達の罪をぬぐい去り、できないことをできるようにと直接助けてくださる方なのです。  そのイエスさまがどのような方なのかということが、16節の「しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません」ということばの中に示唆されている本当の意味ではないのでしょうか。  イエスさまは、私達を遙かに越えた方であり、私達の全てを引き受けることのできる方なのです。  また、17節の「あなた方がこれらのことを知っているのなら、」のこれらのことの具体的内容は、16節を指していると思われます。

つまり、イエスさまがどのような方なのかを知って、それを行うとき、すなわち本当の愛を実践するときに、あなた方は祝福されるのです、と17節は言っているのです。  祝福されるというフレーズは、その愛のおこないの報酬として祝福が与えられるかように聞こえがちですが、文法上、報酬という未来に与えられるものというよりも、今の現実・リアリティを示している言い回しです。  従って、「あなた方は幸せです、あるいは祝福されています。」と訳されるべきなのです。  すなわち、ここは、「もし愛を命令通り実践することができれば、祝福を与えられるよ」というよりはむしろ、「聖霊様の助けを得て、本当の愛を示す事ができたとき、その示すことができたということ自体が、神様が私達のうちにて働いていてくださることの証拠であり、その者は既に現実問題として、幸せであり、祝福されているよ」ということなのです。

適用
このように、本当の愛を実践する過程においては、イエスさまが果たされる役割が非常に大きいということがわかります。  まさに、イエスさま抜きに本当の愛は語り得ません。  教師として、本当の愛とは、完全に謙虚で無条件なものであるということを教え、案内人として、本当の愛とは、神の御国での基準であるというその意義を示し、模範を示し実践を促し、そして、訓練士として、私達のやりたくてもできないというジレンマを、十字架により解決し、さらには、聖霊を通して私達一人一人の中に住むことにより、実際にできるようにと変えていってくださる。  まさに、イエスさまは本当の愛の一から十までを、責任もって伝授してくださるのです。  では、私達はなにもする必要がないのでしょうか?  そうではありません。  教えられる生徒や訓練されるスポーツ選手にやるべき事がそれぞれあるように、私達のすべきことがちゃんとあります。 私達のすべきことは次の3つです。

一つ目、「本当の愛は、神の国の基準であり、私達の実践すべき事であるということを自覚すること」です。  本当の愛を実践することは、私達神の御国の相続者にとって、してもしなくても良いオプションではないのです。 実践すべき基準・ルールなのです。  まずは、それを心に刻むことです。

二つ目、「私達の主・イエスさまに感謝すること」です。  私達が本当の愛を実践しようとして、失敗したときにでも、自分を責める必要はない。  人はその失敗のためにあなたを責めるかもしれない。  悪魔は巧みにあなたの心の中に自責の念を植え付けようとするかもしれない。  でも、神様は、あなたの失敗に怒って、責め立てたりしません。  なぜなら、イエスさまが、私達のその失敗の罪をも十字架上でぬぐい去ってくださったからです。  私達の為すべき事は、自分を責めてくよくよしたり、自暴自棄になることではない。  私達の本当に為すべき事は、そのような失敗だらけ私をも愛し、その罪をぬぐい去るため、血を流してくださったイエスさまに感謝することです。

三つ目、「イエスさまを信じて、もう一度チャレンジすること」です。  私達は、本当の愛を実践するのに失敗したとき、また、同じような失敗をして、自分の無力さや弱さに直面して傷つくのが怖くて、逃げ腰になったり、さらなるチャレンジを諦めてしまったりしがちです。  でも、私達はひとりぼっちで戦っているのではないのです。  私達の中には、全てを可能にすることのできるイエス様がいて、共に戦ってくださるのです。  イエス様は、そのような失敗や苦しみを通して、私達を本当の愛を知る者と変えていってくださっているのです。  私達のすべきことは、それを信じて、もう一度、本当の愛の実践にチャレンジすることです。

これら三つのこと、「本当の愛は、神の御国の基準であり、実践するべきものであることを自覚すること」、「私達の主・イエスさまに感謝すること」、そして「イエス様を信じて、もう一度チャレンジすること」を繰り返すことにより、少しづつ少しづつ、イエス様によって訓練され、本当の愛を実践できる者へと変えられていくのです。