2001年10月28日『ひとり主の前に立つ』泓王記19:1〜14
私たちの信仰生活は、常に平坦ではない。自分の思い通りの道のりではない。登りのきつい坂道、真っ暗なトンネル、足を取られる草原、一人でしか渡れない一本橋、できれば避けて通りたいでこぼこ砂利道と、様々である。神は私たちの信仰を壊される。信仰の根っこをぐらぐらと揺する。大きな試練や困難を送って、恵みの補給路を断たれるようなことをされる。疲れ切って重い足を引きずり、悲しみに沈みそうになる。しかし、そういう中で、自分の信仰を考えさせられて「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)に到達する。私たちは今、どういう道を歩いているのだろうか。今主の恵みの補給が断たれるという心配があるだろうか。やがて降りかかろうとしている脅威の災害を見つめては、すっかり気分が滅入っているのではなかろうか。しかし、勇気を出すがよい。それは単に、主へ、またより良い信仰生活へとあなたを追いやる潮の流れにすぎないことを知ろう。
私たちは、後になって、窮地に立たされた時のことを、生涯に起こった最善のこととして振り返るようになる。やがて、悲しみと不運の時のために神をほめたたえる時がきっと来るのである。
今月は、漁師のペテロ、ヤコブの手紙の試練、天を見上げたアブラム、本日の逃げるエリヤを通して<信仰>について見ている。信仰の素晴らしさ、信じていることの喜びを共に味わいたい。
18章は、バアルの預言者450人との戦いにおける大勝利の偉大なる預言者エリヤが描かれている。19章では、そのエリヤが恐れ逃げている。意外な弱音を吐くエリヤ。大勝利の後の逃避行である。エリヤ大勝利を聞いたイゼベルは「明日中にエリヤを殺す」と言明。エリヤはその言葉に恐れをなして逃避行の旅に出る。
1. エリヤの落ち込みと矛盾
逃避をすればするほど、落ち込みと矛盾が深まる。どのような矛盾であろうか。
@第一の矛盾――3節「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」
自分のいのちを救うために逃げたが、しかし自分の死を願う矛盾である。これが逃げる者の矛盾である。救ってくれたことが大きければ大きいほど、落ち込む自分を責める。その勝利さえ喜べない自分を見いだす。恵みを数えられない落ち込みは、自分の想像と予測をはるかに越える。こんな自分ではなかった。こんな筈ではない。所詮私はこんな者だと自己憐憫の世界に入り込む。深みは底なし沼である。神さえ呪う者になってしまう。
4節「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」
この最後の言葉に、エリヤは逃げ込む。エリヤだけでなく、私たちも同じように逃げ込むのである。そしてそれが得意である。他人と自分を比べる得意技である。でも、心の奥底では、「違うよ。よく頑張っているよ」と声をかけてくれることを密かに願う私たちである。
A第二の矛盾――主の問いかけに対する矛盾
9〜10節<すると、彼への主のことばがあった。「エリヤよ。ここで何をしているのか」>
<今ここで何をしているのか>と現在のことを尋ねている主に対して、エリヤはどう答えているのか。10節<私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかしイスラエルの人々は〜殺しました。〜私だけが残りました。〜彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」と、エリヤは過去のこと、他の人のことを語っているのである。<今>の質問には答えられないのである。これがエリヤの逃避行の矛盾である。この矛盾にエリヤは気づいていない。
<現在すべきことをしているか>というチャレンジである。エリヤのするべきことは、逃げることではないのである。
2. 回復への道程――先行する主の取り扱い
神は、逃げるエリヤをそのままとがめ立てせず、逃げ切らせるのである。矛盾を抱えたままのエリヤに神は何をされたのであろうか。なんと逃げるための力を与えていたのである。何という恵み、
何という愛、何という憐れみか。回復に向けて何をされたのか。
@ 御使いを送ってパン菓子と水を与えられた。
5〜6節「彼がえにしだの木の下で眠っていると、〜」
A やさしい言葉をかけられた。
7節「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」=直訳<あなたにとって道のりは多い>
神の愛は、どんなときにも与えられているのである。確かに遠い道のり、まだ続く歩み、それも逃げる旅路にもかかわらず、すべてのものを与えられるのである。食事、休息、安眠だけでなく、言葉による励ましを与えられるのである。「あともう少しだから、頑張れ」でなく「まだまだ先は長い」と現実を明言される中でも、それを受け止めることのできる力をくださるのである。
B 再起への促しの指示を与えられた。
逃げ切らせる向こうに、はっきりとした目的を神は持っておられる。
四十日四十夜、歩いた先の目的地は、<神の山ホレブ>=かつてモーセが十戒をいただいた山――
にエリヤを導く。洞穴で一夜を過ごした彼に、「外に出て、山の上で主の前に立て」と命ぜられる。ここに立たせるために忍耐強く導く神である。どれだけ再起を願ったことであろう。主の御目的は
私たちの再起である。リバイブであり、再出発である。
3.「個」を問う主に応答するエリヤ
@ ひとり山の上で主の前に立つエリヤ
モーセが神と会った場所ホレブ山。<ホレブ>には「荒野」「孤独」という意味もある。荒野に
ひとり立たない限り、神に会うことはできない。ホレブ、そこは「個」が問われる場所である。
誰でもない、<私>はどこに立っているのか、どなたを信じているのか、何を恐れているのか。クリスチャンホームに生まれようが生まれまいが、<あなた自身>はどうなのか、を問われるのである。ひとりとなり、裸になった時、初めて神と会うのである。たった一人になりきれないために、
この世の人々は、神に出会うことができないのではないか。
オウム真理教の研究をされている芦沢俊介氏は「日本では、かつての古典的な家族や夫婦の像がなくなり、個が吹きさらしになっています。個になることの不安ゆえに何かに帰属して包まれたいという動機が、若者たちをオウムへと走らせたのであろう」と語っている。一人自分の在り方を問われることは、素晴らしい恵みへの門口なのである。
A かすかな細い御声を聞くエリヤ
11〜12節「激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火に中にも主はおられなかった。」
激しい戦いを経験したエリヤは、<バアルよりより強い神><よりましな神>を探した。あの勝利をもう一度と言わんばかりの願いを胸に探した。しかし、大風の中にも、地震、そして火の中にも神を見いだすことはできなかった。
しかし、主は、かすかな細き御声として、エリヤに現れる。ある意味で、大きな図体で現れるのではなく、静かに待つ者にそっと語られて、さとし、励まし、教え、行く道を示されるのである。<主の、低くささやくような声>をもって語るのである。私たちにも同じように語られる。聞き逃してはならないのである。みことばをもって私たちに語られるのである。忙しければ忙しいほど、
静まる時を確保して主の道を歩んで行きたい。