2000年10月22日 ヘブル9:11−28 「新しい契約」
序.聖書の前半は旧約聖書、後半は新約聖書と言いますが、旧約・新約というのは旧
い契約・新しい契約という意味ですね。でも、その契約とはどういうものでしょうか。簡単に言えば、この契約は救いに関する神様と人間の間の約束です。昔イスラエルが神様から与えられた約束が旧約で、イエス・キリストによって教会に与えられたのが新約です。ですから、今、私たちは、その新約によって救われているのです。今日はその新約と言うことをヘブル書を通して学びたいと思います。
今日はお話を4つに分けています。まず第一に「旧約と新約」ということを考えます。それから、新しい契約はどういうものであるか、それは心を清める契約であること、そして罪を赦す契約であること、最後に未来の約束に関係する契約であること、という順番でお話ししていきたいと思います。
1.旧い契約と新しい契約
さて、前回はヘブル書の7章からメッセージを取り次ぎました。今日は9章ですから、もしかしたら、8章はどうなったのかな、と思われた方もいるかもしれません。普通は、7の次は8ですか
らね。千代崎牧師は元数学の教師だと言うけれど、とうとう数の数え方も分からなくなったのか。そう言われるとちょっとしゃくなので、8章のこともちょっとだけ触れたいと思います。後でお帰りになってからゆっくりとお読み下さっていただければ良いのですが、8章から9章の最初の部分に書いてあるのはこう言うことです。 7章までにキリストが新しいタイプの大祭司である、ということが書かれていました。大祭司というのは、神様との契約に従って人間と神様の間に立つ働きをします。ですから新しい大祭司が立てられたと言うことは契約も新しくなった。しかも、新しい契約が結ばれることは、すでに旧約聖書の中で予告されていたことなのです。特にそれがはっきり分かる言葉がエレミヤ書という書物のなかに出てきます。それが8章の8節から12節に引用されています。ですから、大祭司キリストなどという話をしてきた本当の目的は、実はこの新しい契約を説明するためだったのです。なんだかずいぶん遠回りをしてきたような気がします。イスラエル人でない人たちには旧い契約は直接関係してはいないので、そう思いますが、イスラエルにとっては重要な問題です。実は新しい契約によって救われている私たちにとっても旧い契約は無関係ではないのです。9章の最初、1節から10節では、旧い契約のことが書かれています。ちょっと読みづらいところですが、本当は大切な部分です。といいますのは、新しい契約を理解するためには、その前に旧い契約がどんなものであるかを知ることが必要だからです。ヘブル書というのは旧い契約と比較しながら新しい契約を説明している書物です。ですから、ユダヤ人にとってはよく理解できる話だったのです。
さて、旧い契約とはどう言う契約だったのか。それをヘブル書は礼拝ということを例にして話しています。礼拝というのは人間が神様の前に出ていくことです。本当ならば神様に逆らって生きてきた
人間は神様によって滅ぼされてしまう。そんな人間を神様は救おうとされました。そして人間と共にいて下さり、人間が神様に近づくことができるようにして下さった、それを表しているのが礼拝です。旧い契約の礼拝では、祭司が人々のささげる動物の犠牲を神様の前に持っていって神様にささげます。それによって彼らの罪が赦されて、神様の前に進み出ることができるのです。しかし、どこまで神様に近づけるかというと、途中までです。礼拝は幕屋、後に神殿となりますが、その幕屋で行われます。その幕屋の中心に聖所と呼ばれる部分があります。その聖所の一番奥にあるのが至聖所で、そこに神様のおられることを象徴する契約の箱が置かれていました。もちろん天地を造られた神様はそんなちっぽけな所に収まるようなお方ではありませんが、礼拝のためには神様がそこにおられることとされていたのです。でもその神様のおそばに行くことはできません。人々に許可されていたのは幕屋の前までで、祭司たちだけが聖所に入れた。でもその祭司たちも中心の至聖所には入れない。大祭司だけが、年に一度だけ特別な儀式をした後に入ることができるのです。ですから、救いを神様に近づくことと考えると、旧い契約では途中までの救いだったのです。ですから本当の救いのためにはどうしても新しい契約が必要となる訳です。
さて、8:13にはこう書かれています。 新しい契約ができたのだから旧い契約はいらなくなったということでしょうか。聖書も重いから旧約は捨てて新約だけにしよう、と考えた人たちもいます。
でもそれは間違いでした。新約聖書のなかにはここに書いてあることとは反対に、旧い契約である律法は決して無くなることはない、とも書かれています。ではヘブル書ではなぜ「消えていく」と言っているのでしょうか。それは旧い契約に書かれている礼拝、つまり大祭司を中心とする儀式によっての救いが古くなって消えゆくものなのです。
ですから、今の私たちは旧約の時代のように動物の犠牲をささげる必要はありません。でも旧約聖書を通して示されている神様の御心、特に来るべきメシアであるキリストに関することは、決して無効になった訳ではありません。ですから、旧約聖書の見方は変わったのですが、旧約聖書そのものは今も変わらず大切なものなのです。
この旧約の礼拝の問題点は何か、ということを一言で表したのが9:9です。 それは礼拝する人の良心を完全にすることができない、ということです。それに対して、新しい契約は私たちの良心を清めることができる、というのが14節に書かれていたことです。そのことにお話を進めていきましょう。
2.心を清める新しい契約
旧約聖書を読んでいくと、神様がどんなお方で、私たちがどのような生き方をする事を願っておられるかが書かれています。その正しい生き方をしたいと願うのですが、それがなかなかできない。クリスチャンになってからもよく経験することですが、こうするのが正しいと分かっていながらそれがなかなかできない。例えば、「隣人を愛しなさい。」 それは分かっているのですが、愛せない人がいる。愛せない時があるかもしれません。そんな時に、一生懸命愛そうと努力します。でも自分の力でどうにかしようとすればするほど行き詰まってしまいます。自分の行い、すなわち体を押さえつけてどうにかしようとしても、無理なのです。心の中からわ
き上がってくるような愛でなければ愛せないのです。良いことをしようというのも、心の奥底からそうしようと思えなければ、表面だけで終わってしまいます。実は、それが旧い契約なのです。動物のささげもので自分の体を清めます。でも心の中は変えられないので、また同じことをしてしまう。それは私たちも同じです。その私たちが救われるためには、心の奥底から造り替えられる必要があるのです。それがここで良心をきよめる新しい契約です。
旧い契約は不完全ではありましたが、決して無意味ではなかった。ちゃんと有効に働いていました。それによって少なくとも体は、宗教的な汚れから清められ、儀式的ではありますが、神様のそばに進みでることが許されたのです。動物の犠牲による礼拝でもそれだけのことができたのですから、動物なんかよりもはるかに優れたささげものとしてキリストが十字架上でご自分を捧げてくださった、その時流された血はもっと優れたことをして下さる。それが良心のきよめということです。イエス様の十字架の救いを受け入れたとき、私たちは自分の力ではなく神様によって心が変えられていきます。まだ旧い生き方をしてしまうことがありますが、少しずつ心
の内側から新しくなっているのです。以前だったら思いもしなかったことを考えられるように変えられて来たことにお気づきの方もいるでしょう。
それは神様があなたの心を清めていて下さるからです。自分でも気がつかないところで、神様は新しい契約の故に私たちの心の中まで御手を伸ばして御業をなしていてくださるのです。十字架の贖いは旧い契約よりもはるかに勝って有効であり、力があるのです。
でも、そのことはどのように可能なのか。そのカギとなるのが罪の赦しです。
3.罪を赦す新しい契約
16節から突然に「遺言」という言葉が出てきます。実は15節で「契約」と訳されている言葉と16節の「遺言」は同じ言葉です。「死亡証明」という言葉が出てくるので同じ言葉をこちらでは遺言と訳しています。英語でも新約聖書をNew
Testamentと言いますが、このTestamentは、神と人の間の契約と、人間の遺言という意味も持っています。これは言葉の問題だけではありません。
遺言というのは死ぬ前に書かれますが、書いた人が死んだときに初めて効力を発します。実は昔の契約も死と関係がありました。古代中近東世界では二人の人が契約を結ぶ時には、動物を殺し、その体を二つに引き裂きます。その二つの肉の間を当事者の二人が通ります。これは、もし契約に違反したら、自分の体がこのように引き裂かれても文句は言わない、という意味です。だから命がけで契約を守るのです。
神様との旧い契約に従えば、全ての人は罪を犯して、すでに契約を破っているので、死ななければならない。旧い契約は無くなった訳ではありません。今でもそうです。ところが、キリストはその死ななければならない私たちの身代わりとして十字架で死んで下さった。そして、そのキリストの死によって新しい契約は有効となりました。
旧い契約では、動物の血によって全てのものがきよめられました。本当は動物に血にそんな力はありませんから、清くなるはずはないのですが、神様がそのように定められたので、清く「なった」のです。新しい契約では、キリストの血によって罪が赦され、私たちの心も血によって清められます。それは、こういうことです。私たちの罪を赦すためにキリストが命を捨てて下さった。尊い血を流して下さった。そのことを知るときに、私たちの頑なな心が揺り動かされます。そして、そのキリストを思う時に、罪から離れたくなる。赦して下さるキリストの愛によって心が変えられて行くのです。罪を赦して下さるキリストの十字架を、いつも心の中に持つな
らば、そして、その血によって罪が赦されたことを信じるならば、私たちの心は新しくされるのです。
4.約束による新しい契約
新しい契約は、犯してしまった罪の赦し、すなわち過去のことだけではありません。28節にはキリストの再臨について少しだけ書いてあります。 赦された者の救いを完成するためにキリストがもう一度来られる。その約束も新しい契約は含んでいるのです。ちょうど、旧い契約に新しい契約の予告が含まれていたのと同じです。そして、旧約の中の新約の約束は実現しました。同じように、新約の中の約束も必ず成就します。それは、神様は約束を守られるお方だからです。
その約束とは、キリストが来られて私たちの救いを完成して下さるということです。今はまだ未完成です、だからいろいろな問題もあります。でも神様は私たちをそのままで放って置かれない。必ず始めて下さった救いの業を私たちの上に完成してくださる。私たちは、その完成に向かって進んでいるのです。どんなに今がうまく行っていても、将来が分からなければ不安です。どんな努力も無駄になってしまうかもしれません。
でも、神様が未来の完成を約束していて下さる。だから、一歩津津でも確実な歩みをすることができるのです。未来に対する姿勢が今の生き方を変えるのです。未来が絶望や不安ではなく、希望と確信に変わるとき、私たちは変えられるのです。
まとめ, キリストの十字架による贖いによって、私たちは救われました。その救いが新しい契約です。この新しい契約によって、そしてイエス様の贖いによって生きて行きましょう。神様の約束を信じて、まっすぐに完成を目指して進んでいこうではありませんか。