2001年10月21日『さあ、天を見上げなさい』創世記15章1〜6節
神の約束を信じて歩むこと―――これこそキリスト者の恵みである。恵みと言えない試練を通されたとしても、最後には神に感謝できるのは、造り主の神を信じる者の特権である。遠い先の約束を信仰を持って待ち続けることほど、私たちの歩みにとって大事なことはない。本日は、アブラムを通してこのことを学びたい。
@アブラムの悩み事
1節:「これらの出来事の後、〜」と書かれている。どういう出来事が、前の14章に書かれているのであろうか。14章のアブラムは、<戦いの人アブラム>である。自分の親戚のロトを反乱軍から助け出すのである。しもべ318人と戦いに出て、ダマスコ北方で捕虜と財産と共にロトを奪還するのである。大勝利を納めるのである。
しかし、アブラムは大勝利を納めたのに、何か不安と恐れに囲まれた。神は「恐れるな。わたしはあなたの盾である。」と励まされる。戦いの緊張からの解放の故に、疲れていたのか。また報復があるのでは、と不安になったのか。大勝利という大きな恵みの陰で、アブラムには大きな悩み事があった。これがきちんと回答が出るまでは、心が安まらないという大きな関心事があった。それは「子孫を与える」という神の約束であった。年老いたアブラム、70歳後半を迎えたアブラム、毎年毎年誕生日を迎えれば迎えるほど、その約束が非現実的なものとなってゆく。その可能性がどんどん薄くなって行くのである。
アブラムの生涯は、まさしく<約束>がキーワードである。12章には「わたしはあなたを大いなる国民とする」、13章でも「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる」と約束を神はされた。
しかし、アブラムの気持ちの中には、“どんなによいものが与えられても、世継ぎが与えられないではどうしようもない”がある。戦いの後の恐れの中、「あなたの受ける報いは非常に大きい」と神に言われても、悩み事はその言葉と比例して大きくなるばかり。報いは大きいと言われれば言われるほど、悩みも増していったのである。
2節「神、主よ。私に何をお与えになるのですか」と挑戦的である。“何を与えられても、肝腎なものがあるでしょう、神様。”アブラムは続ける。「私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼル
になるのでしょうか」。 ワッツという註解者は、「子がありません」を次のように言い換えています。「子のない状態がいつまでも続いているのです」“ずーと待っているのですが、この状態が続いているのです。いったいどうなっているのですか”と言うのである。
さらにアブラムは、追い打ちをかけます。
3節「ご覧ください。あなたが子孫をくださらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」この「
なるでしょう」という言葉は、原語的には、<なりつつある><なるに違いありません><なるに決まっています>という少し強い語調が含まれています。アブラムは最初の約束を強く意識しているために、不満の言葉をかけるのである。
私たちはどうでしょう。自分の計画通りにならないと不満を持つのではないでしょうか。神の約束が提示されているのに、待ちきれないのである。“一応信じていますが、でも”と私たちは呟くのである。神に挑戦的な言葉をはいてしまうのである。今、私たちの悩み事は何でしょうか。本気で神様と格闘するのは大切であるが、神の御主権に委ねずに、神を恐れない態度を悔い改めてゆく必要がある。
A神の実物教育と約束
神の教育は次の二つからなっている。
1. ことばによる教育
そのようなアブラムに、神は言葉を選んで、噛んで含めるように語りかける。
4節「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」
「あなた自身から」という言葉は、原語で「あなたの腹から」と言う意味である。男のアブラムの腹から生まれ出てくる者というのは、大変ユニークであると同時に、直接的な表現である。他人ではなく、あなたから生まれる者から子孫が与えられる、というのである。
2.創造のみわざによる教育
神はなお、言葉だけでなく、目に見える形でアブラムを教え、約束を確認するのである。
アブラムは自分の中に閉じこもっていて、主のみわざを信じることができなかった。天幕の中に閉じこもって年老いた自分を見、サライを見、そこに子どもがいないという現実を見ていては、この不信仰から抜け出すことはできなかったのである。主はアブラムに何を教えようとしたのか。
@ 5節「さあ、天を見上げなさい。」=全能者にして創造主なる神の偉大さを知るようにとの招きである。(詩篇19:1)
A「星を数えることができるなら、それを数えなさい。」=人間の無力さ、限界を知らせるためである。
人は神の偉大さ、神の計画の偉大さを究めることができない。(詩篇8:3〜4)
B「あなたの子孫はこのようになる。」=約束を守られる主の力である。無から天を創造され、満天の星を造られた主は、年老いたアブラムから、この星のように多くの子孫を生み出すことができるのである。
B アブラムの決心と神の祝福
アブラムは夜空を見上げたのである。万感の思いをもって見上げたのである。アブラムの思いは自分自身から離れて、主御自身に向けられていったのである。
6節<彼は主を信じた>のである。この<信じた>という言葉は、<ウエヘエミン>というヘブル語の言葉で、アーメンという言葉がもとになっている。<信頼した>という意味で、「主と主のことばへの無条件の信頼」を表す。坂野圭慧吉著『創世記』の中に、次のような文章が紹介されている。
<信仰とは単なる感情や知的な理解ではない。神と神のみことばに対する全人格的な・全存在的な応答であるということができる。自分自身に対して全く絶望したとき、そこから神に対する全き信仰への転機が生まれる。>
<その信仰を主は義と認められた>のである。
義と認めるとは、罪なき者と認めるということである。アブラムは神の約束を信じ切ることができない者であり、自分の信仰に絶望した。しかし彼は、そのような者をも受け入れてくださり、御自身の約束を実行してくださる神を見上げて信じたのである。このように不信仰の者を義とされた神の憐れみに感謝し、主を見上げて歩んでゆきたい。