2001年10月14日『試練を喜ぶ』ヤコブの手紙 1章1−18節
イントロ
この世には様々な宗教が存在します。 皆さんは、クリスチャニティと他の宗教の一番の違いは何だと思われますか? 私は何も神学的な議論を始めようとしているわけではありません。 ただ、自分の直感で、あるいは、実体験の中で感じた違いを伺っているのです。 私にとって、一番大きな違いだなーと感じる点は、他の宗教が「熱心に信仰すればするほど、様々なこの世の苦しみから逃れることができる」と教えるのに対し、クリスチャニティはむしろ、「熱心に信仰したからといって、この世の試練・苦しみから逃れる事ができるわけではないですよ」と明言している点だと思います。 他の宗教にはどことなく御利益主義的要素があるのに、クリスチャニティにはそれがない。 むしろ、信仰をしっかり持てば持つほど、周りとの摩擦は増え、試練・苦しみが必ずやって来ますと明言しているのです。 また、必ずやってくるだけではなく、やって来なければならないとも言っています。 というのは、そういった試練・苦しみを通して、私たちの信仰が完成へと導かれるからであると教えているからです。 だから、試練・苦しみは嫌がるものではなく、むしろ喜ぶべきものなんだというのです。 どうです? なんか大変な宗教ですね、クリスチャニティって。 なんで、そんな大変な宗教を信じられてるんですか?
でも、私たちの現実の生活を見るとき、試練や苦しみを完全に回避して生きることなどできないということは、恐らくほとんどの方が直感的に感じられていることではないでしょうか? いくら高価な壺を買おうとも、いくら毎朝熱心に祈祷を捧げようとも、それが目の前の現実の苦しみを完全に取り去ってくれるなんて、実は誰もまともには考えていないのではないでしょうか? そういった意味で、クリスチャニティは少なくとも現実的であるという点で、他よりも優れている気もします。 でも、ただ、苦しみが起こることを認めて、現実的だというだけでは困ります。 神様も私たちがこの世の苦しみの中で、もがき苦しんで生きる事を望んではおられません。 しかし、ここに矛盾が生じます。 もがき苦しんで生きてもらいたくないと言われても、試練や苦しみは必ずやって来るわけです。 どうすればよいのでしょうか? 唯一の論理的解決法は、聖書の示すとおり、試練・苦しみを苦しみと捉えないことです。 試練・苦しみをむしろ喜びとすることです。
「何を理想論を…」とお思いかも知れない。 でも、聖書ではそれを大まじめに語っているのです。 理想論なんかではない。 それこそが、与えられたこの世でのいのちを実りあるものにするための大切な鍵なんだよ、と言っているのです。 それでは、一体どうやって試練・苦しみを喜ぶことができるのでしょうか? 共に本日の聖書箇所であるヤコブの手紙1章を見ていきましょう。
背景
まずは、ヤコブの手紙の書かれた背景に少し触れておきましょう。 この手紙の著者は、マリヤとヨセフの間に生まれた、イエスキリストの兄弟・弟のヤコブであろうと言われています。 ヤコブは、イエスキリストの生涯の晩年、あるいは、よみがえった後くらいに、キリストを受け入れ、その後、初代教会のリーダー的存在となった人です。
エルサレムでペンテコステの日に聖霊を受けて生まれた初代クリスチャンたちは、その後、急激に数を増やしました。 しかし、その分、ユダヤの伝統的宗教指導者たちとの間に摩擦が起きるようになってきました。 ステパノがあの決定的な説教をして、そういった伝統を重んじるユダヤ人たちに石で打ち殺されて以来、エルサレムでのクリスチャン迫害に拍車がかかり、多くのユダヤ人クリスチャンたちが住み慣れた都から逃げ出すように去らなくてはならなくなりました。 こうして、多くのユダヤ人クリスチャンたちは、ローマ帝国のあちらこちらに散らばっていきました。 これは、福音が全世界に広がるための大きな前進となったのですが、取るものも取らずに出て行ったユダヤ人クリスチャンたちは、大変な生活を強いられました。
「なんで、神様を信じ、キリストを受け入れたのに、こんな大変な目ばかりに遭うんだろう。」 知らない地に来て、日々、命の危険にさえさらされる苦しみの中、こう考えて信仰から離れていく者もいたのかもしれません。 そういった状況を見て、そういった各地に散ったユダヤ人クリスチャンたちを励ますために、みんなから慕われていたリーダーのヤコブは、この手紙をしたためました。 そういった、日々、命の危険にさえさらされるような苦しみの中にある人達に向けて書かれているということを、どうぞ念頭に置いておいて下さい。
それでは、本日の聖書箇所を共に見ていきましょう。 2節から4節。 ヤコブは、冒頭からいきなり核心に切り込んでいます。 苦しみにあえぎ、心から光を待ち望んでいる聖徒達には、格式張った挨拶文などより、直接、彼らの直面している問題に切り込んだ方がよいと考えたのでしょう。 「様々な試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」 このような緊迫した事態に、理想論は通用しません。 ヤコブは大まじめにこれを書いているのです。 この最初の言葉は苦しみにあえぐユダヤ人クリスチャンたちにどれほどの衝撃を与えたでしょうか?
続く3節4節でなぜ試練を喜べるのか、その理由について述べています。 「信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなた方は知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。 そうすれば、あなた方は、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」 試練は忍耐を生み、忍耐はあなたを完全な者にする。 だから、試練を喜びなさいと言っているわけです。 ここで、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者とあります。 完全な者とはどういった者のことを言っているのでしょうか? 人格的に神のように完全な者になるということでしょうか? 人は、どんな試練に耐えても、どのような過酷な修行をしても、神のような完全な者になることはできません。 ここでいう完全な者とは、苦難や試練が来ても、揺るぐことなく、しっかりと信仰の上にとどまり、最後まで立ち続けることのできる者ということです。 その姿は、苦しくて苦しくて、何度ももう立ち止まってしまおうかという誘惑に駆られながらも、ぼろぼろになってもただゴールをめがけて走り続けるマラソンランナーに例えられるかも知れません。 試練はそういった最後まで走りきれる者になるために必要なものなのだと言っているわけです。
しかし、苦難や試練に耐えるとは、そんなに簡単ではありません。 皆さんも、1つや2つはどうしても耐えきれないと思われた苦難や試練を経験されているのではないでしょうか? ヤコブは、続けて、そういった試練に耐えていこうとするとき、どうしても必要な3つの事がらについて、述べています。
1. 解決の知恵
まず、私たちが苦しみの中にいて、耐えきれなくなる理由の一つとして挙げられるのが、「出口が見えない」という問題です。 解決の糸口が見えない事ほど、絶望を誘うものはありません。 少しでも、解決の明かりが見えていれば、私たちはその試練に耐えることができるのです。 しかし、時として、解決の糸口が見えない試練に出会うことがあります。
この手紙の受取人であるユダヤ人クリスチャンたちも、解決の糸口が見えず、苦しんでいました。 その彼らに、ヤコブは、アドバイスを与えています。 5節、「あなた方の中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、誰にでも惜しげなく、とがめることなく、お与えになる神に願いなさい。 そうすれば、きっと与えられます。」 文脈から考えて、この知恵の欠けた人とは、直面している試練に対し、解決方法を見つけ出せない人と見るべきでしょう。 出口が見えない人は出口を見つけだす知恵を、誰にでも惜しげなく、また、過去の不従順をとがめることもなく、与えて下さる神に願いなさいと言っているわけです。
ここで、知恵を願えと言っているところに注意して下さい。 出口そのものではなく、出口を見つけることができる知恵を与えて下さいと願え、と言っています。 神様は、安易な解決を与えられる方ではありません。 しかし、求めるものには、その糸口を必ず与えられます。
ただし、6節―8節、「少しも疑わずに、信じて願いなさい。 疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。 そういう人は、主から何かを頂けると思ってはなりません。 そういうのは、二心ある人で、その歩む道の全てに安定を欠いた人です。」 解決の知恵を遠慮なく神に願えば、必ず与えられる。 ただし、その際、疑いを持ってはだめだ、疑う者にはその知恵は与えられない、というわけです。 つまり、「本当に与えられるのかなー、心配だなあ。」といった心境で祈るのではだめだと言っているわけです。 いわんや、自分でクリスチャンだと名乗りながら、「もし、本当に、神様がいるんだったら、なんとかしてちょうだい」のレベルでは、与えられるのは難しいということです。
疑う人は、風に吹かれて揺れ動く海の大波のようだと例えられています。 荒れ模様の海か湖に小さめの船で沖にこぎだしことのある方はいらっしゃるでしょうか? 私もサウスダコタでよく湖に釣りに行ったのですが、荒れ気味の湖というのも結構大変なものです。 船の揺れもさることながら、風に吹かれて、好き勝手に寄せたり引いたりする波を見ていると、本当に気もちが悪くなります。 その波に揺られて、船も常に不安定で次はどっちにどれぐらい振れるのかわからず、ややもすると、水の上に投げ出されてしまいそうになります。 放っておくと、船はどんどんと波に流されてしまいます。 そういったとき、流されないようにするにはどうするか御存知ですか? いかりを降ろすのです。 いかりをしっかりと水の底につけると、たとえ水面がどれほど荒れようとも、船は流されず、その位置をキープします。
ここで、ヤコブが言いたいことも、そのいかりと同じなのです。 「波のように安定を欠いてふらふらしていてはいけない。 安定した基盤にしっかりといかりをおろせ。 イエスキリストという決してふらつかない、しっかりとした基盤に。」と言っているのです。 ここで求められているのは固い心の決意です。 コミットメントです。 イエスキリストを信頼し、全てを任せる決意をして、神に願うとき、その願いは聞き入れられ、必ず、解決の糸口を見つけだす知恵が与えられるのです。 そして、解決の糸口が見えたとき、その試練に耐えることができ、また、そのような心強い神様という後ろ盾があることに気付くとき、試練を喜ぶことさえもできるようになれるのです。
2. 正しい自己認識
試練に会ったときに、なかなか耐えきれない理由として挙げられるのは、出口が見えないということだけではありません。 あまりにも続く苦難の連続の中で、「自分はだめなんだ。 自分なんて者は、幸せになる資格が無いんだ。」と自分を卑下してしまい、立ち上がる力を失ってしまうなんてこともあります。 自分自身を小さく無力で無価値な者だと自分で自分にレッテルを貼り付けてしまう。 「こんなみじめな自分のことなど誰も本気で気づかってはくれない。 自分はだめなヤツなんだ。」 苦難の連続は、人間から自己の尊厳を奪い取ってしまいます。
恐らく、ユダヤ人クリスチャンたちの中にも、このように、自分自身の尊厳を見失ってしまって、もがいていた人がいたのでしょう。 ヤコブは、そういった人を引き上げる素晴らしいアドバイスをしています。 9節、「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」 私たちは、イエスキリストの贖いのゆえに、神の子供とされた者です。 全ての王の王・主の主である神の子供というこの上ない高い身分にあるのです。 キリストは、私のために、そして、あなたのためにその尊い血を流されたのです。 あなたは、キリストが自分の命に代えてまで救い出す必要があったほど、尊いのです。 なんと素晴らしいアドバイスでしょうか。
また、場合によっては、逆に、自分の立場や役割、財産・名誉・プライドが邪魔して、さらなる苦難を背負い込んでしまっている場合もあります。 こういったものは知らぬ間に私たちをがんじがらめにしてしまっていて、そのために、実は小さな苦難であったはずのものを自分自身で何倍にも膨れ上がらせてしまっているなんてことが結構あるものです。 そういった状態にある人のことを総じて、ヤコブは、「富んでいる人」と表現しているのではないでしょうか? 10節11節、「富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。 なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。 太陽が熱風を伴って上ってくると、草を枯らしてしまいます。 すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。 同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えていくのです。」 この世の栄光や繁栄は、一過性のものです。 どのような栄光もいずれ輝きを失います。 どのような繁栄も、永遠に続くものではありません。 どのような美しい花も、永遠にその姿をとどめることはできないのです。 私たちは、キリストに贖われ、今や、永遠のいのちを持っています。 この世のいずれすたれる一時的なものではなく、与えられた、すたれも滅びもしない永遠のものに目を向けるべきです。
そして、この世においては、主イエスキリストがされたように、自分を低くすることです。 イエス様は、ご自分は全能の神の御子であったにもかかわらず、無力な制限だらけの人間の姿をとられました。 そして、その人間の世界においてさえも、人に仕えられるよりも仕える者の態度を示し、ひいては、最も卑しく、苦しく、恥辱に満ちた十字架に、神の栄光を顕わすため、ご自分から進んで上られました。 神の栄光のために、財産や名誉やプライドを捨てることは、クリスチャンにとって、恥ずかしいことではありません。 むしろ、それは、主イエスキリストに近づくことなのです。
このように、自分自身を卑下することもなく、誇ることもなく、バランスのとれた正しい自己認識を持つことは、目の前にある苦難・試練を乗り越えていくうえで、とても大切になります。 どのような状況下にあっても、自分は神の子供という高い身分を保証されている者であり、また同時に、この世においては、キリストに続く、神に任命された仕え人なのだという正しい自己認識を持つとき、試練に耐えることができ、そして、喜ぶことさえも可能になるのです。
3. 報酬
これまで、解決の知恵、正しい自己認識が試練を乗り越えていくとき、必要不可欠であるということを見てきました。 もう一つ、試練を乗り越えるとき、どうしても必要なものがあります。 何でしょう? 苦しいレースをゴールめがけて走るとき、私たちは一体何を望むでしょう? 日々の苦しい仕事を必死の思いでやり遂げようとするとき、私たちは一体何を望んでいるのでしょう? 眠いのを我慢して、頑張って徹夜でテスト勉強しているとき、私たちは一体何を望んでいるのでしょう? 努力に見合った報酬じゃないでしょうか? ゴールの栄冠であり、給料であり、良いグレードでしょう。 弱い私たちは、なにか頑張った頑張りに対する報酬がないとなかなか頑張れないのです。 でも、神様は私たちのそういった性質も良く御存知です。 造り主なんですから!
12節、「試練に耐える人は幸いです。 耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」 神の与えられる報酬は、いのちの冠です。 いのちの冠。 冠と聞いて、皆さんはどういうことを想像されるでしょうか? 私は、このような図をイメージします。 きらびやかな宮殿の王座に座った年老いた王様。そしてその頭上に光り輝く冠。 そして、素晴らしい活躍をして、充分に自分の代わりを努めるまでに育った、自分の愛する息子が王座のもとにひざまづいている。 王様は、自ら王座を降り、誇りと喜びをもって、自分の頭からその光り輝く冠をとり、その自分の愛する、信頼に価する息子の頭へと載せてあげる。 そして、その息子は、その瞬間から、王様の全ての栄光を受け継ぐことになる。 そういった新しい王様の戴冠式の情景が目に浮かびます。 冠とは威光と栄誉を表します。 冠を授けるとは、その人の全ての栄光を引き継ぐということを意味します。 冠は、誰にでも与えられるものではありません。 自分の後を継ぐ、真の後継者、相続者にだけ与えられるものです。 神様は、私たちの忍耐の見返りとして、ご自分の栄光の相続者である御子イエスの共同相続人として、試練を耐え抜いた私たちに、いのちの冠を授けて下さるとおっしゃっているのです。 神の栄光を引き継がせて下さると約束して下さっているのです。
あなたはどんなことを光栄に感じるでしょうか? 例えば、あなたの大好きなスーパースターが直々にあなたに感謝と信頼を示すことでしょうか? マイケルジョーダンがあなたに直々に会いに来て、自分の最も大切にしている記念すべきタイトルメダルを差し出し、「私の最も大切なものを、最も信頼できる君に持っていてもらいたい。」と言われたときでしょうか? あるいは、ブッシュ大統領があなたをホワイトハウスに招いて、直々にあなたに感謝を述べ、国民的英雄として奉ってくれたとしたらどうでしょう? 光栄に感じるでしょうか? 小さい、小さい。 そんなことは、あなたが今、約束されていることに比べたら、ものの数ではないのです。 全知全能の、言葉を発するだけで光や全宇宙を創ってしまうことのできる神様のその比べることのできない栄光を、公式に受け継ぐ者として、冠を授与されるのです。 ただの物や感謝の言葉を頂くのではないのです。 受け継ぐのです。 イエスキリストと共に後継ぎとして、相続するのです。 その時、どれほどの光栄を感じるだろうか、皆さん、想像できますか?
しかし、そのいのちの冠に到達する前に、避けて通れない、最も難しい難問があります。 そして、その問題は、クリスチャンにとって、得てして、最も辛く、苦しいものになります。 それは、神様に対する疑いです。 「自分はこんなにも従ってきたのに、どうして神様は自分をこんな目に遭わされるのだろう。 ひどいじゃないか。」 何か、信じて付き従ってきた神様に欺かれたような、あるいは、裏切られたような気持ち。 各地に散らばって困窮生活を送るユダヤ人クリスチャンたちも、否定しようとしても心の底からわき上がってくる神を疑う気持ちを押さえることができなかったのではないでしょうか? これは、この当時のユダヤ人クリスチャンたちだけに限った現象ではありません。 旧訳・新訳を通して、登場する全ての聖徒達が、等しく格闘した問題です。 アブラハムが、モーセが、ダビデが、エリヤが、ヨハネが、そして、パウロが…。 「なぜ、神様はこのようにひどいことが起こるのを許されるのだろう?」 「なぜ?」 もちろんこの手紙の著者であるヤコブも、この問題と戦ったに違いありません。
苦しんでその問題と戦った者だけが到達する真理を、ヤコブ独特のストレートな切り口で、語っています。 13節、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。 神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれをも誘惑なさることもありません。」 この誘惑と訳されている言葉の語源は、2節にある試練という言葉の語源と、原語で見ると、同じものが使われています。 その語源には、誘惑という広い意味合いも含みますが、特にここの場面では、話の流れから言っても、特に試練・苦しみに焦点が当たっているものと理解すべきです。 したがって、ここは、「だれでも試練にあったとき、神によって試練に会わせられた、と言ってはいけません。 神は悪によってご自身が試されることなどない方であり、また、ご自分でだれをも試練に会わせたりなさることもありません。」と読まれるべきです。
ヤコブは、いきなり話のど真ん中にくぎを差しています。 苦しみの逃げ場がないとき、何かを責めなくてはやりきれなくて、神様の方へ的を持っていきたくもなる気持ちは痛いほどわかるけれど、それは、お門違いですよ、と指摘しているのです。 そして、その神様を疑う気持ち、神様に裏切られたように感じる気持ちは、神様からから出ているのではなく、実は、私たちの中から出ているのだということを続けて言っています。 14節、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」
トリニティに、ジョン・ファインバーグという組織神学の神学者がいます。 とても頭のきれる方で、特に哲学を学ばれてきただけあって、彼のロジック・論理は完璧にも思えるくらい優れているのです。 この方、神学者として、そして、クリスチャンとして、この神に裏切られたのではないかという神を疑う気持ちと、人生をかけて戦った、いや、今なお戦い続けている一人なのです。 ファインバーグ先生は、その戦いの一部始終を「Deceived
By God?」という本の中で、詳細に語られています。
彼はクリスチャン家庭に育ち、神様に仕えていく道を選び、クリスチャンの奥さんをもらい、神と共にある順風満帆の人生を歩んでおられました。 ところが、今から14年前、突然の不幸が彼と彼の家族を襲いました。 1987年11月、彼の奥さんが体の不自由を覚え、医者に診てもらったところ、ハンティングトン病と診断されました。 私は、この病気のこと、全く知らなかったのですが、とても恐ろしい遺伝性の病気で、30才を過ぎる頃までは何の兆候もないのに、ある日、体の自由が部分的にきかなくなり、段々ひどくなるにつれて、ついで、脳にも障害が広がり、アルツハイマーのような兆候が出るようになり、そして、そのまま、死にまでも至るという病気だそうです。 なぜ、この病気が起こるのか、また、有効な治療法もまだ解明されていないようです。 ただ、遺伝性であり、その病原を持った人の子供は、半々の確率で、30歳を過ぎた頃、突然発病するそうです。 ファインバーグ先生は、奥さんとの間に3人のお子さんをお持ちです。
奥さんの病気や子供達の心配もさることながら、先生を苦しめたのは、どうしてこのようなことになってしまったのかという疑問でした。 先生のお父さんも献身した主の働き手だったのですが、お母さんが体の弱い方で、その為、いつもお父さんの働きに差し障りがあったそうです。 それを見て育ったファインバーグ先生は、献身するに当たり、自分は、他はなくてもいい、ただ体の丈夫な奥さんをもらおうと心に決めていたそうです。 海外での働きを考えていらっしゃった先生にとって、家族の健康の問題はとても重要だったのです。 奥さんのパットさんと知り合ったとき、彼女は健康そのものでした。 ただ、彼女のお母さんは、精神的な症状が出ていたようです。 家族の人々、かかりつけの医者などに尋ねたところ、パットさんがこのような症状を受け継ぐ可能性は無いだろうと言われたそうです。 この病気が発見されたのは、それから、しばらく後のことだったのです。
先生は、神様に仕えるため、自分の考え得る最も効果的な道を探し求め、とても気をつけて道を選んできたのにも関わらず、そのような大事な事実が自分から隠されており、このような結果になり、ミニストリーにも大きなハンディを背負うことになったことに伴い、心の中に大きな疑問がわき起こりました。 「自分は神様に欺かれたのか?」 神様は、全知全能で、自分の妻に、家族に、そして自分自身にこのようなことが起こるのを阻止できたはずだ。 少なくとも、自分の子供達にまで、そのような重荷を負わせるところまで行く前に、自分に知らせることくらいのことはすべきではないか?
神様の絶対的正しさに疑問を持ちつつ、神学者として、学生に神の絶対的正しさを教えなくてはならない、そのような辛く・苦しい日々を過ごされたようです。 それから、13年経って、先生は冒頭に紹介したその本にこのように書かれています。 「自分と自分の家族に起こったことが、なぜ起こったのか、また、それがどのような益になり得るのかということは、未だに自分にはわからない。 ただ、自分が自分にとって神に仕えていく正しい道だと思って、注意深く選んできた道は、自分にとっては唯一の道だったけれども、神様の側から見たとき、それは、たった一つの、唯一の道ではなかった。」 自分では、論理的に考えて、健康的な家族を持って、世界のどこででも神様に仕えることができるというのが唯一の自分の進むべき道のように見えていたけれども、それは、あくまでも、自分で考え出したベストでしかあり得ず、そこに執着するからこそ、神様に騙されたような気がするのだ、というのです。 先生はご自分の論理に自信を持たれてました。 その論理で考え得るベストに執着したことが、神様に責任を転嫁する原因になってしまった。 まさに、ここでヤコブの言っていること、「神様を疑う気持ちは自分の中から出ている」というのは正しいと、認められたのです。
ヤコブは続けます。 17節―18節、「全ての良い贈り物、また、全ての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。 父には移り変わりや、移り行く影はありません。 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。 私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」 私たちの心は、先程もありましたように、海の波のように安定に欠け、思いも、理屈も、感情も、時と共に移り変わります。 対照的に、神様には、そのような不安定さやぐらつきはありません。 そして、その神様から来るのは、良い贈り物、完全な賜物であり、悪ではありません。 神様は、滅びるべき私たちを、御子イエスキリストの血の贖いをもって、買い戻して下さった方です。 それには、神様の壮大な計画や目的があってのことです。 ですから、神様はご自分で、そこまでの犠牲を払って贖った者たちに、悪を与えたり、騙したり、裏切ったりはなさいません。 だから、ヤコブは言います。 16節、「愛する兄弟たち。 騙されないようにしなさい。」
結論
神様は私たちを愛しておられます。 私たちが苦しみの中であえぐのを、喜ばれる方ではありません。 私たちが出口を探して、知恵を願うとき、必ず与えて下さいます。 また、この世でどのような惨めな状況下にあろうとも、私たちを常にご自分の愛する、大切な子供として認めて下さっています。 そして、この世での試練・苦しみという過酷なレースを走り抜いた私たちに、いのちの冠を授け、その大いなる栄光の全てを与えようとされているのです。 試練・苦しみに耐え、それを喜ぶ。 そのために私たちのなす事は、私たちに全ての知恵と力を与え、私たちの身分を保証し、そして、ゴールで栄冠を手に待っていて下さる神様に目を向け、その目をずっと、どんなときも離さないことです。
最後に先程のファインバーグ先生の奥さんの言葉を紹介して終わりたいと思います。 奥さんのパットさんは、このような試練と苦しみの中ででも、神様の手は常に自分達と共にあったことを、ご紹介した本のあとがきで、力強く証しています。 確かに苦しい経験ではあるけれども、死を意識することによって、一瞬一瞬を大切に使うようになったこと。 特に、以前は神様に仕えたい気持ちはあったけれども、いつも後回しになっていたが、今は、神様に仕えることからするようになったこと。 この試練のため、証する機会も増えたこと。 夫も外国に行って奉仕することこそできなくなったが、トリニティで教鞭を執ることができ、実り豊かなミニストリーをすることができていること。 そして、自分の病気も驚くぐらいゆっくりと進行していること。 このような苦しみの中にありながらも、与えられている恵みを並べた後、このように閉じられています。 「自分がハンティングトン病だとわかってから、多くの月日が流れました。 神様は、その間ずっと私に対して、誠実でした。 神様の誠実さ、愛、そしてかけて下さった慰めに心より感謝しています。 私の体験が、読者に皆様に慰めと励ましになることを願って止みません。 最後に一言、今苦しみの中にある人達に言わせて下さい。 “神様はいつも充分であり、足りぬことのない方です。”」