2000年10月8日 ヘブル書7:1−28 「私たちのための大祭司」


序. 人間にとって空気が無くてはならない大切なものです。知識としてはよく知っていることですが、それを本当に実感できるのはふだんとは違う環境、例えば水の中、に入った時かもしれません。クリスチャンにとって、そして実はすべての人間にとってもそうですが、イエス・キリストがどんなに大切なお方であるかも、私たちはやはり頭では理解していますが、普段の生活の中ではあまり考えないことです。今日はいつもと違う世界に入ってキリストとは何なのかを考え直してみたいと思います。それは初代のユダヤ人クリスチャンから見たキリストです。ヘブル人への手紙は1世紀のユダヤ人クリスチャンに対して書かれた手紙と思われます。現代の私たちからは時代も文化もずいぶん違うので、最初はちょっと理解しにくいかもしれません。でも、彼らの目から見たキリストを学ぶことで、福音書で知っているのとはひと味違うキリストの姿を知ることができます。それは、一言で言えば「キリストは大祭司である」ということです。
 今日は、前半ではユダヤ人キリスト者にとって「イエスが大祭司である」ということがどういうことかを考えます。後半で、では私たちにとって「キリストが大祭司である」ことにどんな意味があるのかをお話ししたいと思います。

1. 特別な祭司メルキゼデク
   さて、実はヘブル書の読者たちにとっても「キリストは大祭司である」という話は、初めは驚きであったようです。イエスが大祭司だって? そんなはずはない。なぜならイエスはイスラエル12部族のうちユダ族の出身である。しかし、大祭司はレビ族、それもアロンの子孫でなければならないと律法に定められているではないか。そう考えたはずです。そこでヘブル書の著者は、キリストはただの祭司ではなく、「メルキゼデクの位に等しい大祭司である」と2度述べています。一度は5:10、もう一度は6:20です。では、その「メルキゼデクの位に等しい大祭司」とはどういうことか、それを説明するのが今日学ぶ7章です。
 もっとも、いったいメルキゼデクって何だろう、と思われる方も少なくないと思います。読者の中にもうっかり忘れている人がいるかもしれないと思ったのか、著者は短く説明しています。1節。メルキゼデクというのは創世記の中に出てくる人物です。まだ読んだことのないために説明しますと、イスラエル人の先祖であるアブラハムという人がいます。神様はアブラハムに約束をして、彼の子孫が増えて一つの民族となる、それがイスラエルです。そのアブラハムが在るとき戦争に巻き込まれ、ました。どんないきさつかは、あとで創世記をご覧下さい。彼がようやく勝利して自分の土地へ帰ろうとしていた。その途中でアブラハムを出迎えて、祝福したのがメルキゼデクという人です。彼はいと高き神、すなわちアブラハムの従っている、世界を造られた神様に使える祭司だったので、その神様の名前で祝福した。そこでアブラハムは感謝して彼に自分の全財産の十分の一を捧げました。それが創世記14章に出てくる記事です。
 メルキゼデクとはどんな祭司か、それを2節の後半から3節で説明しています。「まず彼は、その名を訳すと義の王」とあります。メレクが王、ゼデクが義を表すヘブル語です。名前が王であるだけでなく、彼はサレム、すなわちエルサレムの町の王でした。サレムというのは平和という意味です。ですから彼は祭司であると同時に、義の王であり平和の王、つまり王様としても素晴らしい人物であることを表していると著者は述べています。そればかりではありません。3節。「父もなく、母もなく、系図もなく」。創世記の中では14章の記事以外にはメルキゼデクについて何も書かれていないので、いわば神秘的な人物です。さらに「その生涯の初めもなく、いのちの終わりもない」。

もちろん、実際のメルキゼデクは死んだはずです。しかし、それが書かれていないため、聖書の中ではまだ死んでいないことになっている、と著者は述べています。これは文字通りのことではなく、これから話す祭司ということを説明するための話です。それは、まだ死んでいないのだから彼はいつまでも祭司であるということです。メルキゼデクは素晴らしい王であり、いつまでも変わらない祭司なのです。
 これだけだと、なんだか屁理屈のような感じですが、4節から10節ではもっと具体的にメルキゼデクの偉大さを説明しています。それはアブラハムが十分の一を捧げ、メルキゼデクが祝福したということです。旧約聖書では位の高い方が低い方を祝福するのであり、下の者が上の者に捧げる、ということになっています。ですからアブラハムよりもメルキゼデクの方が偉い。ところが、そのアブラハムというのはイスラエル人全体の先祖です。旧約の重要人物、モーセやダビデにとってもご先祖様です。誰よりも尊敬されるアブラハム、その人よりもメルキゼデクの方が上だ、ということです。イスラエルの大祭司はレビ族のアロンの子孫がなることに決まっていますが、そのアロンもレビもアブラハムの子孫です。ですから、ユダヤ人にとっての大祭司よりももっと位の高い祭司、それがメルキゼデクなのです。そして、キリストはそのメルキゼデクの位と等しい大祭司だというのです。
 ちょっとまった。メルキゼデクが偉大な祭司だというのはいいだろう、でもイエスはいつ大祭司になったのか。読者はそんな疑問を持つかもしれません。実はメルキゼデクという名前が旧約聖書にもう一度だけ出てきます。それが17節、あるいは21節に引用されている、詩編110編です。この詩編は早くからメシア、すなわち救い主を預言する歌であると理解されていました。福音書のなかでも何度か出てきます。そのメシア(キリスト)に関して書かれたのが17節。旧約聖書の中で救い主はメルキゼデクの位に等しい祭司だと述べられているではないか。しかも、21節を見ると、それは神様ご自身が誓って定めたことだから確実なことだと、言っているのです。
 ちょっとここでもう一つ説明をしておきます。ユダヤ人にとっては常識なので著者は書いていないことですが、私たちにとっては知らないとこの箇所がよく理解できないことです。「キリスト」というのはギリシャ語で救い主ということですが、それはヘブル語の「メシア」を翻訳した言葉です。このメシアは救い主という意味で使われる前は「油注がれた者」という意味でした。旧約聖書の中で油を注がれると言うのは特別な任務に就くことを意味し、普通は3種類の人たちを指します。王、祭司、そして預言者です。そのうち預言者は、神様から声をかけられれば誰でも預言者となるので別ですが、王と祭司は一人の人が兼ねることはありませんでした。例え王様でも祭司の仕事に手を出してはいけないことになっていた。ウジヤという王様はその決まりを犯したために神様から罰を受けたということが出てきます。ですから、イスラエルの基準からするとメルキゼデクというのは、王であり祭司である訳ですから、特別な存在だったわけです。ところで、このメシア、すなわち王、祭司、預言者というのはやがて来られる神からの救い主の果たす働きを示すものでもありました。すなわちメシアは王であり、祭司であり、預言者の働きもするのです。ところが、イエス様が預言者のような働き、つまり神の言葉を伝え、様々な奇跡を行う、というのは福音書に描かれていますし、クリスチャンでなくても多くの人が認めていたことです。またキリストが王である、ということも福音書に何度も書かれている。ところがキリストが祭司であるということは、すくなくとも表面的には福音書では取り扱われていない。そこでヘブル書ではその祭司としてのキリストという側面を強調している訳です。
 私たちにはちょっと分かりづらい議論ですが、救い主という働きをより深く理解するにはとても大切なことなのです。そこで、今度は「キリストが大祭司である」ということが、私たちにとってどんな意味があるのか、ということを見ていきたいと思います。

2  素晴らしい大祭司キリスト
   さて、メルキゼデクが偉大な人物であり、イエスはそのメルキゼデク・タイプの祭司である、という議論によりキリストが大祭司であることを論証したあと、作者はそれに基づく結論を述べます。それは、大祭司キリストがいかに素晴らしい存在かということです。22節では、神の誓いによって立てられた大祭司キリストは、「さらに優れた契約の保証」だと言っています。このさらに優れた契約とは、8章に出てくる「新しい契約」、すなわち新約のことですから、私たちの救いの根拠となる約束です。ですから、大祭司キリストというのは私たちにとって無関係なことではないどころか、私たちの救いの保証でもある、ということです。いったいどういう意味でしょうか。
 23―25節。ここではキリストが永遠の祭司であることを語っています。いつの時代でも祭司としての働きをされておられるのです。それだけではありません。実はユダヤ人にとっては意味がないのでヘブル書では書かれていませんが、キリストがメルキゼデク型の祭司であるというのにはもう一つの意味が含まれています。レビ族の祭司はイスラエルの人々のために働きました。異邦人はいわばお情けで礼拝を許されるだけです。ところが、メルキゼデクはアブラハムよりも上ですから、イスラエルだけに制限される存在ではありません。メルキゼデク型の祭司だからこそすべての人の救い主となることができるのです。ですから、すべての時代の、すべての国の人にとってもキリストは大祭司であって、人々を救うことができるのです。ユダヤ人にとってはユダ族のイエスが祭司であるということが理解しがたかったようですが、現代人にとっては、2000年前の人がなぜ今の自分の救い主でありうるか、という疑問があるかもしれません。しかし、キリストが復活し、今も天で生きておられる。ですから、キリストが大祭司なら今でもその救いの働きは続けられているのです。
 また、26−27節。レビ族の祭司は自分自身が積み在る人間ですから本当は人を救うことができるのではない。しかし、キリストは神の子であり、何の罪も無い。そして、そのご自分をいけにえとして捧げたことで、神に近づこうとするすべての人の罪をあがなうことができるのです。このことはもっと詳しくあとで解き明かされますので、今日はあまり話さないことにします。別に出し惜しみしているのではありません。
 さて、大祭司ということについては、私たちがあまり考えていない別のニュアンスがあると思います。7章では救いと言うことを祭司の働きと関連させて、「神に近づく」と表現しています。私たちはいつでもどこでも、祈ることで神様に近づくことができる特権を与えられています。特権というのは慣れすぎてしまうと特別な権利であることを忘れてしまいます。本当は、人間は神に近づくことができない存在なのです。現代人は神であっても自分と対等に扱ってしまいがちです。大統領だって同じ人間、です。しかし、昔の人にとって、王様は簡単には近づけない存在だった、それ以上に、神様というのは畏れ多くて近づくことのできないお方だったはずです。特に聖書の神は聖いお方です。罪ある人間がいい加減な気持ちで近づくならば滅ぼされてしまう。ですから、その罪の贖いをして礼拝をするために祭司が立てられたのです。祭司なしには神様の前で祈ることもできない。それくらいに大切な存在であり、イスラエルにとっては日常生活の中で祭司こそ救い主の働きをする存在だったのです。
 神様が私たちと共にいて下さる、私たちも神様に祈って近づくことができる、それはキリストなしにはできないことです。祈るときにキリストの名前で祈る、というのもそのためです。しかし、そのときに、神様の聖さを忘れてはいけない。クリスチャンとして成長していくときに、私たちは神様の聖さを前よりも知るようになり、同時に自分の罪深さにも気づかされていきます。以前、祈っていたときに、ふと自分が祈っている相手を考えたことがあります。

「主よ」と神様に語りかけたとき、その語りかけを神様が聞いていられる。そう感じたとき、自分の前に神様がおられることを実感したことがあります。もちろん、神様は世界中どこにでもおられる。でも、そのとき、自分の前に聖なる神様がおられることに気づかされた。畏れを感じました。そして、椅子をおりてその場にひざまづいたのです。何か触れてはいけないお方に直面してしまった。そう思ったとき、目の前が真っ暗になったのを覚えています。しかし、次の一瞬、そうだ、イエス様がおられる、キリストが私の罪を贖って下さった。それを思い出したとき、何とも言えない平安が与えられました。大祭司として取りなしていて下さるキリストの働きなしには、一時たりとも神様の前に生きることはできません。大祭司キリストはユダヤ人だけのことではない、私たちにとっても「まさに必要な方」なのです。

まとめ。 私たちがクリスチャンになるときにも、またクリスチャンとなってから日々神に近づいて行くときにも、キリストは大祭司としてとりなしの働きを続けていて下さるのです。この素晴らしいお方を心から感謝しましょう。そして畏れを忘れずに、しかし大胆に神様の下へ進んでいきましょう。