2001年10月7日『新しいゼロ−信仰の旅立ち』ルカ5:1〜11
ある40代のクリスチャンのご夫妻に出会いました。ご夫妻の話を紹介します。
主人の頭に腫瘍ができ、珍しい病気になりました。とても慌てました。動揺しました。神様のことがどこかへ飛んでいってしまいました。この出来事を通して、自分の信仰がなんだったのか、とても考えさせられた。今まで全てに恵まれた中での信仰であっただけに、深く自分の信仰について思い返すことができました、と。
いつも私達は、信仰とは何なのかと、問われ続けます。
本日はペテロの召命の出来事を通して、信仰の原点を共に考えてゆきたい。
@空しさへの深み−夜通し働いたペテロ
ガリラヤの田舎で群衆が集まり、イエスのほうへ押し迫り、舟に乗り込まざるを得ない状況です。しかしその中で、漁師たちが黙々と網を洗っていたのである。人々が押し掛けても、御言葉を聞いていても、ペテロは知らん顔であった。何の関心がないように。
ペテロがイエスと出会ったのは、この時が初めてではない。4章の38節以降にペテロの姑の癒しがあり、その前にはイエスに出会っている。もうすでに弟子入りが行われていたのであろうか。もしそうであれば、無関心はおかしい。ペテロは、イエスのそばにいるのに、なぜ知らん顔なのか。
自分のことで精一杯だった?
今、イエスの話を聞いたところで、何の意味もないと考えた?
イエスは群衆に語っていたのか、ペテロに語っていたのか。でもペテロを気にかけていた。何の応答もないことを気にとめていた。ペテロに近づいた。
4節「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
この言葉は、ただ単に“浅い所じゃ取れないよ”といういうのでなく、信仰的な示唆の言葉。また、ペテロにとってドキッとする言葉。舟を出し、網をおろすことに関心を持っている故に、ペテロはすぐに反応します。
5節「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」
この言葉は、ペテロの心の中に詰まっていること、心全体を覆っていること。話してもしようがないと思っていたところに、イエス様が先んじて言ってくださったことへの反応である。これによって、心の重荷が少し軽くなったか。しかし、何一つとれなかったというのは現実の事実。あと一回、いやもう一回やってみたが駄目だった。
ペテロの心の中はこの思いでいっぱいだった。
このペテロにとって、4節の言葉は<空しさへの深み>である。
これだけやったのに、尚まだやれと言う。助けの言葉ではなく、空しさの増幅にしかならない。無駄なのに、亦空虚な気持ちが深まるだけだと。しかしペテロにとって、空しさへの深みに行かないと、本当の信仰に到達しない。
私たちも、やっても駄目なことはよくあることだよ、とか、当たり前だよと簡単に片づけてしまうことがある。
私たちも弱さから来るところの現実に直面させられて、自分というもの、自分の生き方、神様のこと、信仰のことを考えさせられる。空しさを知れば知るほど、どう生きたら、どう信じたらと思わせられる。しかし、主イエスにあるところの現実は、人のことをはるかに越えた現実であり、それをはるかに越えて接してくださる方である。これは我々にとって生きる土台である。ここからスタートするのである。
Aお言葉通りに−主の言葉に従うペテロ
夜通し働いても<ゼロ>は正真正銘の現実。
5節後半「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と「何一つとれなかった」との間に何があったのか?
すぐに出てきた意識は、“俺は疲れている。でもイエス先生が言うんだから、どうせ駄目かも知れないがやってみようかの、半ばネガティブな意識である。一晩中働いて駄目だったペテロ。悩みました、恨みました、苦しみました、諦めました、と思っていたペテロ。
ペテロの内に転換が起きた。
“主が言われるならば、やってみましょう”という信頼。結果は考えていない。網をおろすこととその結果との間は空白。取れるかどうかは100%期待しているわけでもない。神は何をなさるかも分からない。魚がとれると信じ切ったわけでもない。しかし不信仰というのでもない。
でもペテロは「おことばどおり」にと主のことばに従った。信仰が成り立つ。でも疑いなく信じたという信仰でなく、淡い気持ちを神は信仰として成り立たせてくださった。期待と信仰の強さが本来であるが、かすかな信仰を神はくみ取ってくださるのである。小さな信仰を主は導いてくださるのである。信仰の原点は、<主がおっしゃるならば進んでみよう>とからし種の信仰なのである。
B新しいゼロ−信仰の出発をするペテロ
主のことばに素直に答えることは素晴らしいことである。主御自身が喜んでくださる。
ペテロがイエス様に会ったとき、夜通し働いてのゼロという空しさ、悲しさの中にあった。しかし、「おことばどおり」と言って従ったとき、大漁となった。漁師にとってめでたいことは大漁であろう。ペテロはキリストに会って人生の問題の解決と希望が与えられている。このまま終わっても不思議ではない。もしこの後、町で打ってたくさんのお金を持ち、感謝したこともあったかも知れない。これも一つの人生であり、ペテロの自由であったでしょう。
しかしこの続きを見ると、イエス様に出会って大漁という喜ばしいことが全く違ったことになっている。ペテロの考えている方向とは別の状況である。大漁が「ゼロ」を解決するのではない。真の意味の希望を持たせることではない。イエス様の目指しているのはこのことではない。
ペテロは、この大漁を放棄して「ゼロ」となるが、同じ「ゼロ」でなく、新しい「ゼロ」、主にある「ゼロ」である。ペテロはこの「主にあるゼロ」をどう捉えたか。
8節「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」これが「新しいゼロ」である。これはこの世では、白けることばであろう。「私が罪深い」やだー、うそー、ということであろう。
しかし、主と出会った者にとって、主にあるところの「新しいゼロ」を知って始めて、おめでとうと言うことができる。私たちの信仰の原点は、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」である。「ゼロ」の現実を生み出し、支え続け、深みへと漕ぎ出してくださるのです。罪を知り、罪人の自分を知らされて新しく出発できるのである。ですから「ゼロ」でいいのです。その「ゼロでいい」と言い切ることのできるのはイエス様のみである。
ペテロはこのイエスから、この自分は汚れているという認識を得た。イエスとの触れ合いは、聖さへの恐れである。ペテロは本当の聖さを求めたのである。
<主の前には立てない><主の前に自分自身の姿があぶりだされる><主の前からは逃げ出せない>
この汚れの認識が新しい「ゼロ」であり、信仰の出発点がある。私たちもここから出発するのです。主の教会の私たち一人一人は、罪人のお互いであることを認め合い、赦し合い、神の家族とされたことを心から喜び合って、新しく出発するのです。
私が神学校で教えられたのは、実にこの「ゼロ」でした。
一人の先生がある日の礼拝の中で次のように語られた。
「何もできない、信仰をもって献身しているのか、と問い続けることは大切である。
神学校の学びを大学の続きであると考えていないか。
単位を取得して一つのコースを終えればいいと思っていないか。
ちょっと信仰があれば、ちょっと頑張れば、問題を起こさなければ通過できると考えていないか。
神学校入学も、即おめでとうではない。様々なことを周囲から言われてきたでしょう。これらの周囲の声に鈍感であるが故の<おめでたさ>ではなく、汚れというものに敏感でなくてはならない。聖さを求める者でありたい。」
10節イエスはシモンに言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」
私たちの信仰生活は、イエス様の足元にひれ伏し、「私は罪深い人間ですから」と告白し続ける、どこまで行っても<ゼロ>という心の歩みなのである。その主が、安心して怖がらずに信仰をもって行きなさい、わたしがあなたとともにいてあなたを遣わすと言ってくださるのである。