2000年10月1日 「成熟を目指して」 ヘブル5:11―6:20
序.私たちがお茶を飲みながらおしゃべりでもしているとき、だんだんと話が脇道にそれていって、ちょっと前まで何を話していたのか分からなくなってしまうことがありますね。学校の授業でも、先生の話がちょっと脱線して雑談になってしまうことがあります。授業そのものよりも雑談の方がおもしろくて、難し
い授業の時は半分寝ながら聞いている学生が、雑談になると目がぱっちりと開く、なんてこともよくあります。 優れた説教者の中には、こういった「脱線」を上手に用いる人がいます。難しい話の最中に「脱線」や、あるいは例話のようなものを織り交ぜて、聴衆の注意を引きつける、なんていうテクニックもあります。 今学んでいます、このヘブル書は手紙の形をした説教のようなものですが、その中にも幾つか「脱線」部分があります。本論からちょっと離れて違うことを語る。それは、私たちのおしゃべりとは違って、実は意図的にそうしているようです。脱線することで読者の注意を引きつけ、同時に大切なことを印象づけて語る。そういう意味では、ヘブル書の著者は、大変優れた説教家と言うことができます。
 今日、これからお話をします、ヘブル書5章11節はそんな「脱線」の始まるところです。5章の始めから読んできますと、キリストが大祭司である、というヘブル書の大事なテーマが語られていま
す。ところが急に話がそれていきます。8節から11節をちょっと読んでみます。 キリストに関する話から「あなた達」すなわち読者に関する話題に突然変わる。いったい何故、著者はこんなことを言うのでしょうか。実は、この「脱線」には目的があるのです。そのことを考えながら、この5章、6章を読んでいきたいと思います。
1. 成長を選ぶ (5:11―6:3)
   12節。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならない」とありますが、もちろん教会で聖書を教えるのは年数や経験ではなく、神様からの使命に基づくことです。でも、クリスチャンになって何年もたつのにまだ初心者だ、なんて言われたら、プライドの高い人だったら、気分を害するかもしれません。"これから「キリスト大祭司論」という難しい話をするが、あなた達は耳が鈍くて分からないだろう。堅い食物は食べられない幼子だ。"そんなことを言われたら怒ってしまうかもしれません。なぜ、こんなことを言うのでしょうか。
 12節から14節には3種類の対照的なペアが出てきます。まず、教師と初心者、それから堅い食物と乳、そして幼子と大人、です。あなたは初心者で、乳しか飲めない幼子ではないのか、と言われたら誰でも反発したくなります。こんな言い方をされて、乳と堅い食物のどちらを選ぶかと聞かれたら、へそ曲がり
の人でなければ、堅い食物を選ぶのではないでしょうか。どうも、著者の意図はそんなところにあるようです。少しくらい怒らせてもかまわない。読者を発憤させて、堅い食物に挑んでほしい。キリスト大祭司論という長くて難しい議論をするために読者の心を奮い立たせようとしているみたいです。
 作者が本当に言いたいことは6:1に出てきます。「キリストの教えの初歩をあとにして、成熟を目指して進もうではありませんか。」 今日の説教の題はここから取っています。成熟を目指してほしい、成長することを選んでほしい、それが著者の読者に対する願いなのです。クリスチャンは神の子供とされたものです。子供は必ず成長するはずで、いつまでたっても成長しなければ、病気かもしれないと心配ですね。成長するためには時には訓練も、厳しいことも必要になっていきます。それは子供を憎いからしているのではなく、成長を願ってすることです。ヘブル書の中では何回か大変厳しい口調で書かれているところがあります。でもそれは、著者が読者の成長を願ってのことなのです。
 読者がどんな状態だったのかは次のところを見ると少し伺い知ることができます。「キリストの初歩をあとにして」とありますが、これは十字架のことを指しているのではありません。ここでいう初歩の内容が出ています。「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばき」、といったことが基礎的なことと言われています。これらのことは、どうもユダヤ教の教えと関係することのようです。ユダヤ人がクリスチャンになるときに、おそらくこういったことについて学んで、それからキリスト教信仰へと進んでいったようです。私たちがクリスチャンになるときに学ぶこととはずいぶんと違います。クリスチャンになる前に、例えば「神は存在するのか」とか「聖書に書かれている奇跡は本当にあるのか」などの疑問を持っておられた方は少なくないと思います。しかし、やがてイエス・キリストを信じ、救われていったときにそういった疑問にとらわれなくなるのがふつうです。それが、クリスチャンになって何年もたつのに、未だに「神はいるのだろうか」と本気で議論しているとすると、ちょっと問題です。読者の状態というのは、そんなことだったのです。
 成長してほしい、成長に役立つことを選び取ってほしい、それが著者の願いです。私たちも、気をつけないと、難しいことよりも簡単なこと、苦しいことよりも楽なことを選びがちです。そのために信仰が停滞しているとしたら残念です。面白いドラマや本ばかりではなくて、時には信仰に関する難しい本を読む。他のことに使う時間を、聖書を読んだり祈ったり、いろいろな集会に出席するために使う。そのように、クリスチャンとして成長するために有益な方を自ら選び取っていく必要があるのではないでしょうか。もちろん、成長は神様の業です。人間が努力したからといって成長できるものではない、というのも真理です。しかし、自分から成長することを選ばなければ、よりよい成長はあり得ません。子供たちも、小さいときは親の言う通りにしていればよい。でもだんだんと大きくなっていたら、良いことを自分で選び取って欲しい、それが親の願いです。私たちも、堅い食物を進んで選び取っていきたいと思います。


2. 成長の妨げ (6:4―12)
   もし成長につながらないことばかりを選び続けたらどうなるでしょうか。成長できずにいつまでも同じ状態にいる、というのではないようです。多くの場合、成長しないクリスチャンはだんだんと信仰がおかしくなっています。そして神様から離れてしまうことも少なくありません。ですからクリスチャンとしての成長は重要なのです。遅くても良い、少しずつでもいいから成長することが大切なのです。
 ヘブル書の最初の読者はおそらく先程話したユダヤ人クリスチャンだったと思われます。彼らはクリスチャンになってからもユダヤ教の教えにとらわれていることが多く、福音を受け入れるのに困難を覚えることがありました。そんな時に、クリスチャンであるが故の迫害がやってきたら、簡単にキリストから離れてユダヤ教に後戻りすることがよくありました。著者はそういった状況を知っていて、救いから離れることの危険性を大変厳しい言葉で警告しようとしています。6:4−6
 この箇所はよく神学的な議論の対照となります。救われた者が堕落しうるのか、という問題です。でも、著者はそんなことを議論するためにこういっているのではなく、あくまで警告として書いているのです。9節に「愛する人たち」とあります。愛し心をかけている人たちが万が一でもキリストから離れて欲しくない、その真剣な思いからの戒めです。
 たしかに私たちの身の回りには信仰の成長を妨げるものが多くあります。世の中の快楽、間違った考え方、そして困難な状況。こういった外からのことだけでなく、私たちの内側にも成長を妨げるものがあります。罪がそうです。自己中心、高慢、そういったものがどれほど成長を妨げているか分かりません。だからこそいつも神様の言葉に目を向け、上を見上げていかなければならないのです。でも、そういった成長の妨げとなるものを捨てて、正しい方を選んでいく、というのは楽なことではありません。痛みを伴うこともあります。ですから、放って置くとなかなか妨げとなるものから離れられない。それを知っているので著者は少し脅すようですが堕落の恐ろしさを説いているのです。一度信仰から離れて、もう一度立ち帰った人もいます。だからといって、「じゃあ、ちょっと離れて見ようか」と決して考えるべきではないのです。
 このような厳しいことをいったあとで、著者は「愛する人たち」と呼びかけています。9,10節。 確かに人間は弱い者です。気をつけないと成長どころか信仰から離れる危険性もあります。しかし、神様は憐れみ深いお方です。読者がこれまで示してきた神への愛と、その愛に基づく行い、奉仕、そういったことを神様は忘れないと言っています。ここで言っていることは。「行為義認」ということとは違います。良いことをしたから救われるという話ではありません。イエス様が弟子たちを使わしたときおっしゃった言葉の中にこんなことがあります。「もし、誰かがキリストの弟子だということで水一杯でもくれるなら、その人は神様からの報いを受ける」。この報いというのは救いそのものではありません。しかし、広い意味で救いに関係することではないかと思います。キリストの弟子に良いことをした人と、迫害した人ではどちらのほうが福音を聞く機会が多いでしょう。神様もそのような行いをした人により強く語りかけて下さるのではないでしょうか。もちろん、どんなに救いの言葉をかけられても、それに対して正しく応答しなければだめです。しかし、少なくとも神様は正しいお方だから、正しい愛に基づく行いを忘れることはない、と著者は語っているのです。
 神様は義なる方ですからどんな小さな罪でも見逃すことはできない。しかし、同時に、私たちの表した、小さな愛の行いですら覚えて下さる。ここに神様の愛があるのです。この神の憐れみがなかったら、私たちはとっくに信仰から離れたかもしれません。少なくとも、信仰の成長を妨げる多くのものに私たちは取り囲まれているのです。だからこそ、神様の憐れみにすがりつつ、正しい方を選んでいかなければならないのです。しかし、著者は、もっと素晴らしいことを教えています。


3. 成長のカギ (6:11―20)
   さて、成長することの大切さは語られました。成長させて下さるのは愛の神です。そして私たちは成長のために堅い食物を選んで行くことが必要です。でも、何を選んだらよいのでしょう。最後に、成長のカギとなることを考えましょう。
 11節で、著者は読者に対し、彼らが熱心に奉仕したように、同じ熱心さで確信を持ち続けることを願っています。それは、12節、「約束のものを相続する」ためです。キリスト教信仰は約束に基づいています。キリストを信じたものは救われて、来るべき天の御国に入れていただける。それが約束であり、私たちのゴールに待っていることです。それを受け損なうことがないように信仰を最後まで持ち続けなさい、というのがヘブル書の中で繰り返されるメッセージです。そのためにはその約束が確かなものでなければなりません。約束の確かさを教えるために13節からのところでアブラハムのことが出てきます。アブラハムという人も神さまの約束を信じて生きた人です。彼に対して神様はご自分をさして誓って約束を保証した。昔の人は約束事をするときに、例えば神様に誓いました。それはもし約束を果たさなかったときは神様から罰を受けても良い、ということです。そうならないように必ず約束を守るという意味です。神様が約束されるときはご自分をさして誓われた。責任はご自分が取られる、そういわれて約束を保証した、ということです。
 もちろん、神様は偽るようなお方ではありませんから約束は最初から確実です。しかし、人間が安心できるように神様は誓いによって保証されたのです。それはアブラハムに対してだけではありません。私たちに対する福音の約束についても同じです。では福音の保証はどこにあるのでしょうか。19節、20節。救いのゴールは天の御国です。

どんなに地上での生涯で素晴らしいことがいっぱいあっても、最後が神様から捨てられるならすべては無意味です。

ですから望みは幕の内側(これは神殿の一番中心で、神様のご臨在しておられると考えられた場所です。つまり、救いは神様の御下に行くこと)につながっている必要があります。その救いの完成が確実となる証拠が、キリストなのです。キリストが死者の中から復活され、天に昇られたのは、実は私たちがやがての時にそうなることができることを示している。そのことをヘブル書では「先駆け」と行っているのです。
 私たちがキリストのことを知るとき、それは私たちの救いを知ることになります。救われた者がどのように成長していくのか、それはキリストに似た者に変えられていくのです。救いの完成はどこにあるのか、それは神の右におられるキリストのところに行くことです。そして、このキリストにいつも心の中心の王座に座っていただき、キリストを目の前に置いて生活するときに、私たちは確実に成長し、天の御国に向かって進ん
でいくことができるのです。
まとめ. ヘブル書の読者とともに、私たちも来週から少し難しい部分、キリストが大祭司であることを学んでいきます。しかし、このことが私たち一人一人の成長につながることを願ってやみません。
どうぞ、このキリストから目を離さず、もっともっとキリストを知って行きましょう。