2000年9月24日 ヘブル書34章 「確信による救い」
序.今、私たちはヘブル人への手紙を順番に読み進んでいます。聖書のある箇所を説明しながら説教する形式のことを講解説教などといいます。特に、こうしてある書物を順番に学んでいくスタイルを連続講解説教と呼びます。こうした形の説教というのは現代だけのものではありません。実は新約聖書が書かれた時代にはすでに行われていたものです。今日学びますヘブル書3章、4章というのはこの講解説教のような形です。3章の711節は旧約聖書、詩編95編からの引用です。ヘブル書3,4章はこの詩編をもとにした説教となっています。しかも、ちょっと複雑なのですが、詩編95編というのも、ダビデ王がさらに数百年昔の出来事を振り返って詠んだ詩です。その出来事というのは、イスラエルの民がモーセによってエジプトから助け出された時、彼らの不信仰のために荒野でさまよったことです。あれ、どっかで聞いたことがある? そうです、旧約聖書の民数記のことですね。ですから、今日は民数記のことを思い起こしながら学んでいきたいと思います。
 さて、聖書に教えられている救いというのは信仰による救いです。自分の力で自分を救うのではなく、救ってくださる神様に対する信頼です。イエス・キリストが十字架で成し遂げてくださった贖いが自分のためであったことを信じる時、私たちは救われる。このことは特に新約聖書にはっきりと書かれていますが、実は旧約聖書にすでに始まっていることです。といいますのは、新約聖書の時代の人たちは旧約聖書を通してそのことを学んだからです。今日は、ヘブル書の読者とともに、詩編95編と民数記を通して「信仰による救い」を学んでいきます。


1.不信仰への警戒 (3:1219)
   さて3章の中心は12節です。 人間と神様のあるべき関係は信仰です。神様に対する信頼です。その信頼を壊すのが不信仰。民数記の人々は不信仰にゆえに神様から離れてしまった。神様の方はそれでも彼らを守り導き、荒野でもそばにいてくださったのですが、イスラエルの方が神様に背を向けたのです。そのために第一世代は荒野で滅んでしまった。生ける神から離れることは滅びなのです。「ただ信じるだけでよい」、信仰によって救っていただいた私たちにとっても不信仰は大変深刻な問題です。不信仰というのは信じられない状況だから信じないのではありません。イスラエルの民は神様の奇跡、力強い御業を見ました。9節。どんなにすばらしい奇跡を見ても信じないのが人間の不信仰です。また、彼らは神の言葉を聞きました。16節。神様が「戻って来い」とおっしゃるのを聞いても、聞こうとしない。それでは救われないはずです。私たちはよく「こういう理由があるから信じにくい、こうなったら信じられる」と思いがちですが、そうではない。どんな難しい状況でも、それでも信じると決断するのが信仰です。反対に、どんなに信じられそうな時でも信じようとしないのが不信仰です。民数記の人々がまさにそれでした。
 信じるとは別に「良い子」でいることではありません。人間関係でもそうですが、個性のある人間ですから、お互いにぶつかる時はあります。でもそれでも言葉をかけ、それを聞く。そのようにコミュニケートするならば人間関係は築かれていくのです。聞いても聞こうとしない、それでは関係が壊れる一方です。神様に対しても腹を立てることがある。別に取り繕わなくても良い、神様は心の中までご存じです。どんなに私たちが怒っても、神様は忍耐強く語りかけてくださる。その声を聞いたときに応答すればよいのです。不信仰とは、それを聞こうとしない態度です。神様との関係を破壊するものです。
 不信仰にならないためにどうしたらよいでしょう。人間は生まれつき不信仰な者です。弱い存在でもある。そんな私たちが不信仰にならないようにヘブル書の著者は具体的なことを教えています。13節。励まし合いなさい。私たちに教会の交わりが与えられているのは本当に恵みです。助け合い、祈りあう。それがクリスチャンの交わりです。
今日は礼拝の後、ファミリータイムです。お茶を飲みながら楽しい時がもてたらいいですね。でも、もし誰かが悲しみや苦しみを持っているならその人のために皆で祈る。それも素晴らしい交わりです。不信仰に陥りそうなときに支えとなるのが兄弟姉妹です。 それから「罪に惑わされ」ない。罪がある時に、私たちは惑わされます。罪の中にいるのはちょうどぬるま湯に入っているようなものです。何となく出たくない、このままの方が気持ちがよい。そんな錯覚を起こさせるのが罪です。で、やがてお湯は冷たくなっていき風邪を引く。罪を切り捨る決意をしないと神様の関係までおかしくなります。
 「信仰による救い」というと弱い人のすることだと言う人がいます。でも、実はなかなか大変なのです。「不信仰にならないように」というのは言い換えれば「信仰を堅く持ち続けなさい」ということです。マラソンでも、走るのは簡単です。でも走り続けることが難しい。「イエスキリストを信じます」と言ったその最初の信仰を持ち続ける。
「私は救われたんだ」という確信を最後まで保つ。それが大切なのです。でも、闇雲に信じるのではありません。信じ続けるためには、信じる内容がはっきりしなくてはいけない。キリスト教信仰は神の契約、つまり約束に対する信仰です。信じる者になにが約束されているか、それを次にみたいと思います。

2.安息への約束 (4:111)
   信仰によって与えられる救いというものをこの場所では「安息」という言葉で表現しています。この箇所の言い回しは、ちょっと分かりづらいかもしれません。整理して話すと次のようなことです。
 まず「安息」とは何か。この言葉は創世記の始めのほうで、世界を創造された後、神様が七日目に休まれた、ということから来ています。すべての働きが終わるのです。私たちがふつう休むというと、一つのことが終わって、その疲れを癒し、次の働きのために力を蓄える、ということを考えます。でも、次の仕事を気にしているとあまり休みになりません。ここで言っている安息とは、すべてが終わった後、つまり世の終わりの後の、永遠の休みです。それは、実は世界のはじめから準備されていたものです。その神様の安息を人間に分け与えることが救いであるとヘブル書の著者は説明しています。神様はこの安息を与えるためにイスラエルをエジプトから救い出した。ところが不信仰のために彼らはそれを受けることができなかった。だから後の人々にそのプレゼントはとっておかれたというのです。
誰がそれをいただくのでしょうか。出エジプトの第二世代ではありませんでした。確かに第二世代は約束の地カナンに入ることができました。しかし、そこは安息ではなかった。戦いがあり続けたからです。そうなったのは第二世代も同じ不信仰を持ち、神様に従わなかった、その結果です。第二世代でないとすると誰が安息を受けたのか。それは「私たち」、正確には「信じた私たち」だと著者は説明しています。2節、「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです」。もちろん、旧約時代と新約では違いがあります。でも信じるなら救いが与えられるという点では同じだと言っています。「ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」しかし、「信じた私たちは安息に入るのです。」
 さて、この安息は永遠の安息だと言いました。その意味では世の終わりの後で与えられるものですが、今の生活にも関係があります。どんなに長いバケーションをもらっても、その後に大変な仕事が待っていることをいつも考えていたら心が休まりません。それと同じで、どんなに辛い仕事をしていても、その後にたっぷりと休みがあることを知っていたら、気分が変わります。永遠の安息は、今日の生活に影響するものです。これは「わたしの安息」と3節にあります。神の安息です。ですから、神様との関係がよければ、神様の安息に預かることができます。どんな困難な時でも、生ける神様がともにいてくださるならば大丈夫です。神様が平安を下さるのです。つまり神様との関係に基づく平安であり安息です。だから、信仰が大切なのです。神様との関係が正しければ周りの状況に左右されません。
反対に信仰が崩れると、どんな小さなことにでも動揺します。信仰による安息はすでに信じた者に与えられており、さらに天の御国に行ったときに完成するのです。この神の安息、永遠の安息を望みつつ歩むのが信仰の生涯です。
 11節。不信仰に陥らないように、約束に目を向け、信仰を保ち続けようと進めています。しかし、それは人間の努力によるのではありません。最後にそのことをみたいと思います。

3.キリストの助け (4:1216)
   11節だけを見ると、「力を尽くして努める」、つまり努力すればいいのかと思います。しかし信仰は努力とは違います。そのことを言っているのが12節、13節です。神の言葉を聞いた時に応答するのが信仰ですが、その神のことばは「生きていて、力が」あります。私たちの心の奥底まで届くのです。ですから御言葉の光で照らされるとどんな人でも罪が明らかにされてしまいます。不信仰が分かってしまうのです。そして、13節、神様はすべてをご存じのお方です。ですから、努力して信じた「振り」をしても分かってしまいます。努力によって信じるのではありません。 今、子供たちは「聖書」というテーマで学んでいます。今日は「御言葉を実行する」というお話をヤコブ書から聞いています。ヤコブという人にとって信仰と行いは堅く結びついていることです。先週の祈祷会でもそこから学んだのですが、信じたらそれは自然と行いに現れる。ですから、信じていなかったらそれも行いに現れてしまう。まして、神様の目から見たらなお明らかです。ではどうしたら信じることができるのでしょうか、また何を「力を尽くして努め」ればよいのでしょうか。
 ここで著者は再び「大祭司キリスト」に目を向けさせます。1416節。私たちの信仰は神の子イエス・キリストに土台しています。前回、2章から神の御子が人間となられたことの意味を学びました。このキリスト・イエスが大祭司であるというのがヘブル書の大きなテーマです。詳しいことは5章以降で語られますが、この大祭司は私たちのそのような弱さをご存じの方です。そしてそんな私たちを神様に近づけて下さる。それが大祭司の務めです。そしてもう一つの大切な大祭司の働きは、罪の贖いです。私たちの不信仰、不服従の罪を赦すためにキリストは十字架にかかって下さった。だから、私たちは神に近づくことができるのです。キリストの助けがすでに与えられているのです。神の憐れみの愛が示されているのです。だからあとは人間が近づこうとすればよいだけです。神に近づこう、そう努めることだけが求められているのです。だれも自分の力で聖い神に近づくことはできません。ただキリストの助けにより近づこうと願う、そのときに信仰が生まれているのです。キリストに対する信頼が芽生えているのです。
 これは別にクリスチャンになるときのことだけではない。恵みによって救われたのに、いつの間にか自分の力で信じているような気になってしまい、失敗するのではないでしょうか。自分の信仰はだめだ、と落ち込んでしまうのではないでしょうか。実は、もともと人間には信仰などないのです。ただ、キリストの助けにより、神の一方的恵みによって、「信じさせていただいた」だけです。この初めの信仰を保ち続けましょう。そして、今日も助けを受けるために「大胆に恵みの御座に近づこう」とヘブル書は勧めているのです。

まとめ. ヘブル書の中で著者は何度も「確信を持ち続けなさい」と励ましています。信じられないような状況の中に読者はたたされていたからです。福音の真理は知性によっては理解しがたいものです。また、信じる者には迫害がおそってきます。何より、信じたはずなのに何故こんなことがおきるのか」と思うようなことがやってきます。しかし、どのような状況の中でも信仰を持ち続けなさい。それがヘブル書のメッセージです。それはまた、私たちへのメッセージでもあります。神様が与えようとしておられる信仰の確信を、求め続ける。それだけが私たちに求められていることです。そのために、今日も「憐れみを受け、恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるため、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。