2000年9月10日 ヘブル書2章5〜18節 「人となられた救い主」
序.みなさんにとってイエス・キリストはどんなお方でしょうか。まだキリスト教を信じようと思ってもいない人にとりましては、イエスは昔の四大聖人の一人、偉大な教師、ということでしょう。でもイエスが神であるとは思わないはずです。それに対し、クリスチャンにとりましてはこのお方は神の一人子であり、聖い貴いお方で、決して私たちと同じような人間とは考えにくいかもしれません。神であるかたが人となられ、いまでも真の神であると同時に真の人である、このキリストのあり方は現代人にとっても理解しがたいとおなじように、初期のクリスチャンたちにとっても難しい問題でありました。ですから長い間キリストの本質についての議論が重ねられ、その結論がキリストは神であり人である、ということです。でも、これは退屈な神学論争ではありません。実は全ての時代のクリスチャンにとって意味のあることである。私たちにとってもとても大切なことなのです。今日開きますヘブル書の2章は、そのことを私たちに教えてくれます。イエス様が私たちと同じように肉体を持った人間である、そのことの素晴らしさを知るときに、私たちの人生が変わるのです。じゃあ、その素晴らしさとはどんなことでしょう。三つのポイントに分けて見ていきます。
1.キリストは人間となって死の苦しみを味わって下さった
このヘブル書という手紙はヘブル人、すなわちユダヤ人に向けて書かれたものだと考えられています。それはこの手紙のなかで旧約聖書が数多く引用されていることから、手紙の受取手は旧約聖書に慣れ親しんでいたものたちだと考えられるからです。6、7節にも詩編8編の言葉が出ています。この箇所は人間とは何かということを考えるときに良く引かれる言葉です。ところで、気づかれた方もおられると思いますが、旧約聖書で書かれているのとここに引用されているのではちょっと違うところがあります。7節には「あなたは彼を御使いよりもしばらくの間低いものとし」となっていますが、旧約聖書では「御使い」ではなく「神」となっています。これは、旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、この手紙が書かれた当時、ギリシャ語に翻訳された旧約聖書があって、この手紙では主にそのギリシャ語訳から引用されています。問題の部分は、ヘブル語ではふつう神と訳される言葉が使われているのですが、この言葉は異教の神々について使われることも、また天使たちを指す場合もあるので、決して間違いということではありません。ちょっと話が難しくなりましたが、とにかくどちらにしても、人間は小さな存在にすぎないが神様はその人間を特別なものとして顧みて下さった、というメッセージであることは代わりありません。
ところがヘブル書の著者は、この人間について書かれたことは、実はキリストについての預言だと説明しています。8節の最初に、「万物をその足の下に従わせた」とあります。でも、実際には世界の全てが人間の支配下にあるわけではない。ですから、この言葉が当てはまるのは神の御子であるキリストだけだ、という理論です。私たちはこのように旧約聖書をつかって考えることになれていませんので、なんだか分かり難い気がします。昔、学校で数学の証明を習ったとき、なんだかよく分からない、という経験をした方が少なくないと思います。証明をしているはずなのに全然証明できているように感じない。でも良く理解してなれてくると、これが数学的証明なんだということが分かるようになります。(ならなかった人もいるかもしれませんが。) このヘブル書も旧約聖書に良くなれていた人々を対象に書かれているので、ちょっと難しいと思うところもあると思います。そういう時はどうしたらいいかというと、とばしましょう。いえ、少なくとも、結論の方に目を向けます。
9節。「御使いよりも低くされた」とはイエスが神の御子であったのに人間のなられたことを指しています。そして、人間となっただけでなく、死の苦しみを味わわれた。いったいなぜでしょう。それは「神の恵みにより、全ての人のため」と書かれています、つまり私たちの救いのためです。これはどういうことを意味するのでしょうか。
第二次世界大戦が終わった後、日本で天皇が人間宣言をしました。それまでは天皇は神だとされていたのですが、本当は人間なんだと宣言した。その後、その天皇が日本の各地を廻ったことがあります。昔は神だと言われた方が自分たちのところに来てくれた、ということで古い人たちは感激したのです。でも、天皇陛下が来られるということで、その前に必ず行われることがあった。たとえば、もし道がでこぼこだったらそれをきれいに直す訳です。汚い場所があったらお金をかけれきれいにする。ですから、実際の庶民の姿は隠された訳です。社会の一番底辺で生きていた人々にとっては、本当の意味で天皇が自分のところに来てくれたのではない。
キリストが人間の救いのために来て下さったとき、王様の子供として生まれて、きれいな楽な道だけを歩んで、すぐに帰られたのではなかったのです。むしろ貧しい大工の息子として生まれ、苦しみの生涯を送られ、最後には死まで味わわれた。そこまで降りてきて下さったのです。そして驚くべきことは、それを父なる神の命令だから嫌々したのではないということです。10節。ここに、死を味わわれたことについて、「全うされた」、また「ふさわしい」という表現がされています。死すべき人間を救うものとして、キリスト自身が死の苦しみを味わったの。それによって救い主として完全になった。形だけの救い主ではなく、全てを体験されたということです。そして、そこまで低くなって下さったことは、神の御子として、ふさわしい、というのです。このことは救っていただく立場から言うと、こんな私を救うことをしょうがないこと、義務感からしたのではなく、そうすることが相応しいこととしてして下さった。ここにキリストが、そして神様が私たちに対して持っておられる思いが表されています。
親が、子供のために様々な苦労をすることがあります。これを、自分の子供だからしかたがない、と義務感でするとき、イヤになってしまいます。しかし、そうではない。そうするだけの価値がある、大切な子供だからあえて苦労をいとわない。それが親の愛です。神様は人間を救うために御子を人間にし、死の苦しみまで味わわせた、それほどにする価値があるものと見て下さったのです。たしかし人間は神様から見たら小さな存在です。自分でも、どれほどの価値があるのか疑わしい。でも神様は天使よりも何よりも大切なものとして下さった。それが神様の愛です。キリストが肉体を持った人間となり死を味わわれた、それは私たちが神に愛されている存在であることの証明なのです。。
さて、次になぜ死を味わわれたのか、その目的について考えます。それは私たちを死の恐怖から解放するためです。
2.キリストは私たちを死の奴隷から解放して下さった
11節から15節を読んでみましょう。...ここにまた旧約聖書からの引用が出てきます。ちょっと分かり難いものでもあるので、詳しい説明はしませんが、これらの引用から二つのことが分かります。まず、キリストは御子であるが救われたものたちを兄弟と呼んで下さったこと。もう一つは、単に呼んで下さっただけでなく、実際に兄弟となるために人間と同じ姿、具体的には血も肉もある肉体を持って下さったということです。つまり、キリストが人間となられたのは人間と同じになるため、そしてその目的が14、15節です。すなわち、その肉体の死を通して、死の力をもって人間を支配している者を滅ぼし、人間を死の恐怖の奴隷の状態から救って下さったことです。私たちがこの肉体を持っている限り、死はさけられない問題です。ところが同じ肉体をもたれたキリストが死を経験され、復活によって死を打ち破って下さった。だから、救われた者は死によって支配される必要はなくなったということです。
15節に、人間は一生の間、死の恐怖につながれている、とあります。今度、いよいよ二神先生の本が出版されることになりました。私も見せていただいたのですが、本当に素晴らしい本です。ちょっと宣伝です。その本の中にも死の問題が出てきます。あまりバラスと後の楽しみがなくなるので話しませんが、人間はいつも死に捕らわれている、あるいは死の恐怖に支配されているということが出てきます。もちろん若いとき、元気な時はそんなつもりはありません。しかし、身の回りに、あるいは自分自身に死の問題がいつ関わってくるかは誰も分かりません。そして、それはどうにも解決できないことです。だから、それから目を背けて生きようとする。でも、死の問題を解決しないと、生きることも狂ってくる。今楽しければ良い、今旨く行けば良い。そこには欲望に支配されている姿があります。それこそ悪魔の思うつぼです。死の恐怖を使って人間の生き方を支配している。それが現実です。しかし、キリストはそれを打ち破って下さった。ですからクリスチャンは死の恐怖に支配されなくても良い。
もちろん、信仰を持っても死ぬときは死ぬ。怖くない、寂しくない、と言えば嘘かもしれない。でも、死を絶望と考える必要はないのです。なぜなら、神は御子を人間にして救いの道を備えて下さるほどに私たちを愛していて下さり、そしてキリストの死と復活によって私たちに永遠の命を、天国の祝福を、約束して下さった。だから、クリスチャンにとって死は決して恐怖ではないのです。その証拠となるのが、地上での生涯を送り、十字架上で肉体の死を経験してくださったキリストなのです。
キリストが人間となって下さった、しかも血と肉を備えた体を持って下さったというのは、同じ肉体を持つ故に人間が避けることのできない、最終かつ最大の問題である死を打ち破ってくださるため。でも、それでおしまいではありません、まだあるのです。
3.キリストは私たちを助ける大祭司となって下さった
16〜18節。... 奴隷からの解放という話題を聞いたとき、ユダヤ人にとって必ず思い出されるのは、彼らの先祖がエジプトで奴隷となっていたのを神が救い出して下さったこと。それが16節で言っていることです。エジプトから助け出しただけでなく、神は彼らに大祭司という存在を作って下さり、日々の生活の中で神様に近づくことができるようにして下さった。この大祭司というのはこのヘブル書では大変に重要なテーマで、あとでもっと詳しく扱われますから、ここではちょっとさわりだけです。
キリストは十字架の死の後、復活され、それから天に昇られました。そして今は天の父の右に座しておられる。それで何をされているかというと、大祭司として働いておられるのです。いったいこの大祭司とは何をするのでしょうか。旧約聖書の中で大祭司には様々な働きがあるのですが、まとめて言うと、大祭司は神と人間との間に立って取りなしをするのがその勤めです。ですから、キリストも今は大祭司として取りなしの働きをしていて下さる。その時に、人間となられ、死まで味わわれたことが関係してくるのです。
新約聖書、特に福音書の中で大祭司と言いますと、キリストを殺そうとしたりして、あまり良いイメージはありません。実際人間の大祭司の中には良い人も悪い人もいました。しかし、キリストは最高の、理想的な大祭司となられた。そのことを17節で二つの形容詞で示しています。「あわれみ深い」と「忠実な」がそれです。
キリストは哀れみ深い大祭司となられた。大祭司が人々の上に立って自分は偉いんだと思っていたらどうなるでしょう。民のなかでも低い身分の弱い人々がやってきても鼻にもかけない。必死に助けを求めても、取り合わないことでしょう。そして神に取りなしの祈りをささげて彼らを助ける働きはどこかに行ってしまいます。それに対してキリストは人々の弱さを知っておられた。それはキリストが人間となられたからです。死の恐怖に捕らわれている弱さをご覧になっただけでなく、ご自分も十字架の前に、違った意味ではありますが、苦しみ、悩まれた。だから、人々の弱さを鼻で笑ったりはしないのです。これもキリストが人間となって下さったからこそなのです。18節には試みを受けて苦しまれた、とあります。罪を犯すことはされなかったが、罪への誘惑を含め、人間が味わうあらゆる試みに会われた。だから、試みの中にいる人間を、悩み苦しんでいる人間を、適切に助けることができるのです。大祭司なるキリストの働きは私たちの祈りを取りなして下さることです。私たちが祈
るときにイエスキリストの名前で祈ります。キリストはその祈りを父なる神に取り次いで下さる。そのときに、私たちは時に自分中心な祈りをすることがあります。悩み苦しんでいる問題に対し、見当違いの解決を願うこともあります。そんなとき、人間のことを良くご存じの方が、本当の解決を代わりに取り次いで下さる。そして父なる神は子なるキリストの祈りを必ず聞き入れて下さる。だから、たとえ私たちの祈りは間違いを含むことがあっても、神は最前の答えを与えて下さる。これが大祭司キリストの助けなのです。
さらにキリストは忠実な大祭司です。どんなに哀れみ深い大祭司でも、忠実でなかったらダメです。誰かが罪を犯してしまい、神に赦しを求めるために大祭司の下に来た。そのときに、「いいよ、そのくらいの罪は誰でもするんだから」といい加減にしてしまったら、神からの赦しは得られず、今度は罪を平気で犯すようになってしまう。そして、その大祭司自身も神から捨てられてしまう。しかし、どんなにつらくてもその罪を悔い改めることを教え、贖いの業を行い、赦しの祈りをささげる。それが人々に対しても神に対しても忠実な大祭司の働きです。キリストはその忠実さをどこで示されたかというと、それも十字架なのです。ご自分を罪の贖いとしてささげられ、また父なる神のことばに死に至るまで従い続けることで、忠実さを証明された。だからこの方なら大祭司として信頼できるのです。これも人間となられ、死の苦しみを通られたお方だからなのです。
まとめ. キリストが人間となってくださったというのは、私たちにとってなくてはならない大切なことなのです。人間となられたからこそ罪の贖いとなり神の愛をしめされたのです。人間となられたからこそ死の恐怖から救ってくださるのです。人間となられたからこそ大祭司として助けてくださることができるのです。神の御子が人間となられた。この事実が含む素晴らしい恵み、それをヘブル書は語っているのです。どんな問題で悩んでいる人でも、それが罪の問題、死の問題、そして日常で経験するいかなる問題でも、神の御子がわたしたちの兄弟となってくださった、このお方を仰ぐならば、そこに救いがあるのです。この恵みを私たちも覚えて生きましょう。