2000年9月3日 『御子による救い』ヘブル1:1ー3
序.先週までは旧約聖書からのメッセージでしたが、今日から新約聖書の中のヘブル人の手紙をともに学んでいきたいと思います。この書物はいろいろと変わったところがありまして、何よりも不思議なのは手紙といいつつ誰から誰への手紙であるかが書いていない。書き出しも聖書の中の他の手紙と違って挨拶もない。ですから、手紙と言うよりは書かれた説教というほうが正しいかもしれません。今新約聖書の中に残されている他の手紙、たとえばパウロの手紙なども、本当は手紙と言うよりもある教会に宛てて書かれたメッセージでもあります。そしてそれが、とても大切なことを教えているので、やがて他の教会にも回されて読まれるようになっていったようです。ですから当時いろいろな教会で読まれていた手紙型説教の一つがこのヘブル人への手紙です。
このヘブル書のテーマは何かというとキリストということです。ある人はこの書のことを5番目の福音書だと評価しました。新約聖書には4つの福音書があって、それぞれが違った角度からイエスキリストの地上での生涯、特に十字架を中心とした出来事を報告しています。ヘブル書は、キリストの生涯については書いていませんが、キリストの働きがどのようなものであったのかを詳しく書いています。ですから、私たちもこのヘブル書を通して、イエスキリストがどのようなお方であるかを学んでいきたいと思います。
さて、今朝はヘブル書の最初の部分を通して、なぜキリストなのか、ということに目を向けたいと思います。キリスト教ではもちろんキリストが中心です。聖書の中心もキリストだと言われます。でも、なぜキリストでなければならないか。どうしてそんなにもキリストが大切なのか。そういった疑問に対し、ヘブル書を通して迫っていきたいと思います。
今日も3つのポイントでお話を進めていきます。まず、キリストは啓示者であるということ。第二に、キリストはすべてに勝るお方であること。最後に、キリストによる救いの確かさ、順序で見ていきます。
1.神の啓示であるキリスト (13節)
さていきなり啓示なんて専門用語を使ってしまいました。啓示というのは、神様について知ることです。でも人間がいかに勉強しても神様について知ることができるのはほんのわずかなことだけです。神様が世界を作られたということを受け入れたら、この大きな、そしてすばらしい大自然を作られるとは神様はなんと偉大なお方だろうということは分かります。しかし、それだけで人間は救われることはできない。ニュートンという学者はクリスチャンでしたが、彼は「自分は大きな海の浜辺で砂と遊んでいる子供にすぎない」といって、自分がまだまだ世界について分かっていないことを謙遜に認めました。世界のことが分からないなら、それより大いなる神様のことがどうして理解できましょうか。そしてその神様が与えてくださる救いについては、どのように知ることができるでしょうか。その唯一の方法は神様から教えていただくことです。これが啓示です。神様ご自身が神様について、世界について、そして救いについて語りかけて教えてくださる、ということです。
ヘブル書の冒頭は、いきなり、その啓示という話題ではじまります。1、2節を読んでみましょう。...ここでいう昔とは旧約聖書の時代のことです。モーセをはじめとする預言者たちが神様からの言葉を人々に伝えました。それが旧約聖書として書き残されたのです。その中で、「終わりの時」という時代がやがて来て、メシア、すなわち救い主が来られることが告げられていました。それがここで言う「終わりの時」で、神様は預言者ではなく救い主、つまり御子によって語られた。つまり御子が神の啓示を表したということです。
しかし、御子によって語られたというのは、キリストが語られた言葉、たとえば山上の垂訓といったものだけが神の啓示ということではありません。預言者たちも神のメッセージを伝えるだけでなく、時には自分の行いや生き様を通して神のメッセージを表しました。それと同じように、そしてそれ以上に、御子は言葉だけではなく、その存在のすべてを通して神の啓示を表されたのです。ですから、御子がどんなお方かを知るならば、神様が分かるのです。2節の後半から3節にかけて御子がどんなお方であるかをヘブル書は告げています。第一に万物の相続者とあります。
これは財産を相続する意味で神の長子だというだけでなく、世界のすべてが御子のものであるということです。神が世界の主であられるのと同様に御子も主となられるのです。第二に、御子が世界を作られた創造主であり、3節にはその世界を保っておられることが言われています。3節を見てみると、...。神のすべてが御子に現れているということ、すなわち御子は神と等しいお方だということを語っています。これは今私たちが三位一体と言っていることの、この時代での言い回しです。新約聖書の時代にはまだ三位一体という言葉はできていませんでしたが、ヘブル書を始め、新約聖書のあちこちに言われていることです。そして、御子は救いの業、すなわち罪のきよめを成し遂げられた後で天に上り神とともにおられる。これは御子が救い主であるということです。
こうして御子は世界の主であり創造者であり救い主であり、神の姿を完全に表した、それが啓示ということです。ですから他の何よりも御子イエスキリストによってこそ私たちは神様のこと、救いのことを知ることができるのです。
ここでは短い言葉でたくさんのことを御子について語っています。ヘブル書ではこれからここで言っていることをさらに詳しく学ぶことになります。そういった意味で、私たちもヘブル書の読者とともにイエスキリストのすばらしさを学んでいきたいと思います。
ところで、こうして今は私たちは聖書を通してキリストのことを知る特権をいただいているのですが、その御子を知ること以外のことを求める人々がおりました。そのことを二番目にお話しします。
2.全てに勝るキリスト (414節)
4節を見てみましょう。...ここでは、その御子は天使たちよりもはるかに優れたお方だということが言われています。5節から14節までは、このことを旧約聖書のあちこちから説明しています。こういったやり方に慣れていない人には取っつきにくい表現ですが、当時のクリスチャンたちにはよく読んでいた旧約聖書を使って説明されますので、大変納得しやすかったと思います。
全部を細かく見るのは大変ですから最初の部分だけ見てみます。まず、5節。神様はキリストには「私の子」と呼びかけていますが、天使に対してはそうではない。そして、6、7節、天使は御子を拝み、仕えるものだと定めています。御子が主であるのに対して、天使は仕える存在です。ですからキリストは圧倒的に天使よりも上におられるお方です。ここでこんなことが語られているのには理由があります。
一つの推測は、もしかしたらキリストを天使の一人のように考えている人たちがいたのかもしれません。ユダヤ人たちは長い間神はただ一人のお方だと信じていました。ですからキリストが神の子であり神と等しいお方だということが理解しにくかった。それよりも彼らが旧約聖書やそのほかのユダヤ教の書物でおなじみの天使の中の偉い方というふうに受け取る方がわかりやすかったかもしれません。しかし、天使はただのメッセンジャーですから救いの業を成し遂げることはできない。だから天使と同一視しては救いがおかしくなってしまうのです。もう一つの可能性は、キリストは父なる神と同じくあまりに高い存在だから、おそれ多くて近づきにくい。
それでもう少し低い存在である天使によって救っていただこうと言う考えです。ユダヤ教の中でも同じような考えから天使崇拝がポピュラーでしたし、異邦人の中でも天使礼拝がありました。昔のことだけでなく、現在のアメリカでも天使を崇拝する人々が少なく
ありません。どうもこれは人間のもつ傾向なのかもしれません。神様に祈るのはちょっとおそれ多いから、牧師に頼む。牧師はちょっとヒゲがあって近づきたくないから牧師婦人に相談する。まあそれはそれで良いのですが、こと救いということになると、牧師も天使も、誰も救いを与える権威はありません。ただ、神の御子だけが救いを与えてくださるお方なのです。
世の中にも良いものはたくさんあります。しかしどんなものでもキリストの代わりにはなりません。勉強も仕事も、重要なことですが救いではありません。健康も友人も、もちろん財産も、それによって救われるのではありません。もちろん、私たちをキリストのところにつれていってくれる人も必要です。でもキリストの代わりをするのではありません。そして御子という最高の道が示されているのに他の道を求めるのは決して良いことではないのは当然です。
さて、ではその御子による救いとはどのようなものでしょう。このことはヘブル書の全体を通して深く学ぶことですが、今日は2章の始めの部分に目を留めます。
3.キリストによる救いの確かさ (1:142:4)
さて、14節を見ると、...この天使は「救いの相続者となる人々に仕える」と書いてありますが、別に天使が私たちの召使いになるというのではありません。私たちの救いのために奉仕の働きをするというのがこの文の意味です。とにかくここから話題が私たちの救いと言うことに移っていきます。
ヘブル書の中には何回か、途中で読者に対する戒めの言葉が出てきます。その最初が2章の14節です。それは聞いたことを心にしっかりと留めなさいと言うことです。聞いたこととは、天使より何よりも勝る御子によって表された神の啓示のことです。キリストによって与えられた救いの道を心から離してはいけないと忠告しています。キリストの救いにしっかりと根ざしていないと、私たちは簡単に流されてしまう。ここでは何に流されるかは述べていません。それは一人一人の状況でいろいろとあるでしょう。間違った考えにとらわれることも在ります。周りの状況に流されることもあります。当時の人は迫害と言う厳しい状況がありました。しかしどんな状況であっても、キリストにしっかりと結びついているならば、私たちは揺れ動かされることはありません。
こう戒めをする理由が2節から出ています。2節と3節前半。御使いによって伝えられた旧約聖書の律法に違反した者が罰を受けたように、キリストの救いをないがしろにするなら逃れることは出来ない、何から逃れるのでしょうか。ここでは何からかは述べられていません。どんな罰があるかということは問題ではないのです。別に罰があるか
ら、といって脅すことがここの目的ではありません。言おうとしているのは、このキリストによる救いをないがしろにしてはいけない、心から離してはいけないということです。何よりも私たちが堅く握りしめるべきものがキリストの救いです。でもそれは信じられないことを無理矢理信じ込みなさいというのではありません。この救いがどのようなものかが3節後半から4節に描かれています。
救いの言葉は最初キリスト自身によって示され、それを聞いた人々により伝えられました。そのとき、福音を伝えた人々はその救いを確かなものとして語ったのです。自分たちが見聞きし、体験し、疑うことの出来ない事として救いを伝えたのです。その救いのためならば命を懸けてもかまわない、それほどの確信をもって伝えていきました。救いの確かさはそれを伝える人々の生き方によって証明されてきたのです。それだけではない、それよりも確かな証拠として次にあげられているのは、4節の、神様ご自身による証です。それはある場合は奇跡のような形かもしれません。また信じた人が作り替えられていくという心の中に起こる神の業もあります。そして聖霊が与えられたこと。そもそも、御子の救いを信じられないのが人間です。だれでも少なくとも一度は疑った
ことがあると思います。神の救いに反発したくなる、それが人間の罪のなせる働きです。そんな頑固な人間があるとき信じようという心になる。それこそ聖霊の働きであり、何よりも大きな奇跡です。神様が信じることが出来るように助けて下さって、自ら救いの
確かさを示して下さった。だから、その救いを決して手放してはいけない、と著者は語っているのです。
まとめ. 旧約聖書も新約聖書もキリストの救いを語っています。教会もクリスチャンの友も、様々なものが、私たちがキリストに近づく助けとなるでしょう。しかし、中心はキリストです。このキリストの救いを味わい、それが深まっていくときに、他の何ものによっても代え難いものとなります。それほどにキリストの救いは素晴らしいものなのです。今日は入り口です。これからこのヘブル書を通してますます深くキリストの素晴らしさに触れ、その救いの確かさをおひとりおひとりが受け取っていただきたい。キリストこそ私の救いだと、共に告白して行きましょう。