2000年8月27日 民数記3336章 「神の国の生活」
序.半年近くも、この民数記を学んできましたが、いよいよ今日で最後です。民数記のテーマは「荒野を旅する神の民」だと最初にもうしましたが、イスラエルの旅もこれで終わりとなります。この後の事はヨシュア記に書かれていますが、カナンの地での戦いが待ちかまえています。クリスチャンの旅の終わりは天国ですから、もう何も問題となることはありませんから、彼らの場合とはちょっと違います。でも、この民数記の最後の部分は約束の地に入る前の準備です。その点では、天国に入る前の私たちと通じる部分があります。今日は天国での生活の準備ということを、この箇所から学びたいと思います。
この民数記の学びの前に黙示録からメッセージを取り次ぎましたが、その時も天国について学びました。クリスチャンにとって天国は絵空事ではなく、必ず与えられる、いわば「約束の地」です。約束の地を仰ぎ見て生きることの大切さを、イスラエルに対するメッセージを通して教えていただきたいと思います。
1. 神に従う生活(33、34章)
天国、すなわち神の国では、神様が中心です。全ての者が神様に従います。それはこの地上における人生でもそうあるべきです。しかし、罪のために人間は自分中心の生き方をしている。そのた
めに様々な問題が起きてくるわけです。クリスチャンはそのようなこの世に生きながら、神様第一の生き方をしていきます。そうすることで天国の備えをしているのです。
さて、民数記33章から最後までずっと話題になっていることは、相続地ということです。これは単に先祖から受け継いだ土地を相続するということではありません。神様から与えられ任された土地であり、勝手に売り買いしてはいけない、特別なものです。この土地を受け取る前に神様が与えられた注意が33章後半から出てくるのですが、第一の注意が50節からに書かれています。それはカナンの地の住民を追い出し、偶像を壊せ、ということです。
この、そこにいる住民を追い出す、というのは私たちにとってちょっと違和感のあることです。でも、当時の中近東では歴史の中で繰り返し行われてきたことでもあります。一つの民族が他の民族を追い出してその土地を自分のものにする。やがてその民族も他の国に滅ぼされていく。そのような時代の事です。しかし、旧約聖書では、それは神様の支配の下で、それぞれの民族に対する裁きとして起こった出来事とされています。ですからイスラエルによるカナンの地の占領は、同時にカナンの諸民族への裁きでもありました。彼らは偶像礼拝とそれから生まれるあらゆる罪に染まりきっていました。レビ記や申命記を読むとその様子が分かります。ですから神様はある民族は滅ぼし、他の民族は追い出したりした。イスラエルはそのための道具として用いられたのでもあるわけです。
その時に神様が厳重に注意したのは、カナンの諸民族の偶像を破壊しなさいと言うことでした。なぜでしょうか。
まず偶像礼拝は神の民にあってはならないことだからです。33章の前半はカタカナの地名が続く退屈なところです。でも神の民にとってはとても意味のある場所です。私も旅行が好きで、その旅で使った地図を取っておくのが趣味です。他の人には何の変哲も無い地図でも、自分にとってはそれを見ると行った所を思い出すことができるものです。イスラエルの民がこれらの地名を聞いたときに、彼らのそれまでの旅を思い出し、神様がエジプトから彼らを救い出し、旅の間(彼らの不信仰にも関わらず)彼らを守り導き、ようやく約束の地に入る所までたどり着くことが出来た。自分たちをエジプト人の奴隷の状態から救い出して下さり、約束の地までつれてきて下さった、その神様を離れて偶像に使えるなんて、これまでの事を振り返ったならばあり得るはずがない。十戒の中で、「汝、偶像を拝むべからず」といっているのは、救われた者がそんなことをするはずはない、という意味で
す。そんなことをしたら救われた、神の民としての存在そのものが無意味になってしまいます。
もう一つの理由は現実的なことです。イスラエルは実に不思議なほどに偶像に弱い。これまでも、シナイ山で金の子牛を拝み、25章ではモアブの偶像を拝みました。ですから、偶像を残し、先住民を追い払わないならば、彼らはその地の偶像に誘惑され、やがてはカナン人と同じ罪を犯して神様からの罰を受けることとなる。ですから神様は口を酸っぱくして「偶像を壊しなさい」と警告したのです。
偶像礼拝とは結局の所、自分の欲望に従って生きる事です。それは神様中心の生活の正反対です。たとえ目に見える偶像を拝まなくても、自分の欲望のままに行動するなら、それは偶像礼拝です。クリスチャンにとっても気を付けなければならないことです。
偶像礼拝の禁止は神中心の生活の否定的、あるいは消極的、表現です。では神中心に生きるとは肯定的にはどうしたらよいか。それが34章に出てきます。目に見える偶像が無くなったとき、目に見えない神様に従って生きるにはどうしたらよいか。それは、神様の命令を守ることです。
34章では主に二つのことを神様は語られました。一つは約束の地の範囲です。神様がイスラエルにカナンの民族を追い出すように命令されましたが、無制限にそれを行って、自分たちの領土を広げていってはいけない。それは所有欲です。ですから、神様は彼らの相続する地の境界線を示されました。もう一つは相続を指導するリーダーの任命です。自分の好きなところを奪い合って争うのではなく、人数に応じて分け合う。それを秩序だって行うように神様は各部族の代表を決められました。神様に従う生活とは具体的には神様の命令を守る
事です。
自分の好き勝手に生きるというのは一見自由な生き方に見えますが、実は罪に縛られ、欲望の奴隷となる生き方です。それに対して神の命令に従う生き方は本当の自由を与えてくれます。ところが人間は決まりや規則というとそれに縛られるような気がする。それは心の中で自分の好き勝手に生きたいと思う部分が有るからです。そのような心の奥底にある罪に気がつかせてくれるのも神の御言葉です。御言葉を聞いて従う、それが神に従う生き方なのです。
2. 礼拝する生活(35章)
さて、神様に従うと言っても、神様はどんな命令をされるのか。神に従うということの内容について、2番目に見ていきます。神様に従うとは具体的には神様を礼拝することです。神様は私たちを奴隷として使うために命令されるのではありません。むしろ私たちが正しい生き方をするように語られます。それは神様を神様として仰ぐこと、すなわち礼拝です。礼拝というのは1週間に一度だけのことではなく、毎日が礼拝であって、その中心が日曜の教会における礼拝です。
35章では礼拝について直接は語っていません。しかし礼拝に関わることが出てきます。ここでも話題となるのは約束の地での相続です。ですから当時の礼拝の中でなされていた動物の犠牲をささげることは出てきません。その代わり、礼拝のために奉仕するレビ人に関することが書かれています。それは彼らが受け取った土地のうち、いくつかの町をレビ人にあたえるということでした。(12節) レビ族は、神様に使えることに専念するので土地を農業や牧畜をして収入を得ることはしない。ですから彼らには相続の土地は与えられない
ことになっていました。しかし、彼らにも家族がいます。自分たちの住む場所が必要です。ここでレビ人に町を与えるとは、彼らに所有地として与えるのではなく、その町の中にレビ人が住めるようにすると言うことです。
レビ人はイスラエルの中で礼拝のために必要な働きをするように選ばれた部族です。と言っても現代の牧師や献身者とは少し違うものです。本当はイスラエル全体が神の民として神に仕えなければならない。しかし生活のために働く必要もある。そこでレビ人がイスラエル全体の代表として奉仕に専念するようにされたのです。ですからそのレビ人を大切に扱うというのは、自分が果たすべき礼拝を大切にすることでもあります。
いわばイスラエル全体の信仰の秤となっている。イスラエルが神様を熱心に礼拝しているときはレビ人も守られている、しかしイスラエルが神様に従わない時にはレビ人もおろそかにされる。レビ人をどのように扱うかは神の民の礼拝への姿勢を映す鏡なのです。
そのレビ人にイスラエルが受け取る相続地の中の町を与えるとは、礼拝のために自分のものの中心を捧げることになります。ですから神殿に行って動物を捧げる事だけが礼拝ではなく、普段からレビ人を守ることで礼拝の姿勢が保たれるわけです。
ところで、神様はレビ人に町を与えることを命じると同時に、もう一つの事を命令しました。それはレビ人に関する命令と切り離せない。つまり、礼拝と無関係ではないことです。その命令とは「逃れの町」を作れというものです。レビ人の町のうちいくつかは「逃れの町」という働きをかねることになります。その「逃れの町」とはどのようなものかというと、こんなことです。
誰かが人を殺した場合、殺された者の家族や親族が殺人者に報復するのが当時の世界の習わしでした。ところでイスラエルは神の民として殺人など犯すべきではない。ですから殺人の罪は神様に対する罪でもあります。そこで、もし身内の者が報復出来ない場合でも裁判によって死刑が定められることとされていました。ところが、親族による報復というのを無制限に行いますと、報復に対して報復をするようになり、やがて部族間の争いとなる可能性があります。事実、そのような事は歴史の中でたびたびあったことです。ですから法律によって歯止めを掛けるようにされました。その一つがこの逃れの町の制度です。悪意を持って殺人を犯した場合は明らかな罪です。しかし、アクシデントで殺してしまうケースも有ります。裁判をして目撃者の証言をもとに有罪か無罪かを決めなければなりません。でも、理由が何であれ殺された者の家族は報復したくなる。そこで裁判前に報復されたり、無罪が確定した後に報復される事がないように逃げて隠れる場所、それが逃れの町です。でも、その逃れの町と礼拝と何の関わりが有るのでしょうか。
人間は救われた後でも罪を犯してしまうものです。もちろん罪は罪として裁かれなければならない。でも知らずにしてしまったことや失敗までいちいち罰せられるとすると誰も神の民として生きる事はできません。自分の罪に対する弱さを自覚している者にとって、逃れの町の存在は、神様の憐れみの表れでもあるのです。実は礼拝そのものが罪の赦しを中心としています。旧約時代は動物の犠牲を罪の贖いとして捧げることが礼拝でした。ですから礼拝は罪を赦していただく場でもありました。そして赦しの恵みは礼拝の礼拝だけではなく、日常生活で日々体験することです。離れようと思いつつ罪を犯してしまったことに気がついた、そんな時、私たちは神様の下に逃れるのです。そしてそこで十字架の赦しを幾度も体験し、救いの恵みが深まっていく。そして感謝をもって心から神様を礼拝する。ですから礼拝の生活は赦しの体験を伴うのです。
また、神様にすべての罪を赦していただいた者として、他の人をも赦し受け入れる。心の中に他人への怒りを持ったままだと神様に心が向けられなくなります。そんな頑なな心が神様に言葉によって砕かれ、自分自身が赦しを必要とする存在であることに気がつかされます。そして人を赦すことができるように変えられていく。礼拝の民はお互いを赦し合い受け入れ合う民です。
3. 愛に根ざす生活(36章)
赦し合うことからさらに一歩進んで、愛し合い使え合う、それがクリスチャンの目指すところです。3つめにそのことを考えたいと思います。
民数記最後の章ではツェロフハデの娘達の問題が扱われています。実はこの娘達の事は民数記の中で何回か表れてきます。このツェロフハデという人は息子がいなかった。彼が死んだとき、その相続の土地はどうなるのか。当時は息子がそれを受け継ぐのが普通だったからです。そこで神様は、そのような場合は娘が受け継ぐようにされました。
この36章では、もし、その娘達が他の部族と結婚したらその土地も他の部族の手に渡ってしまう、という問題が取り扱われています。旧約聖書の時代は明らかに男性中心の社会でした。しかし、それでも女性、あるいは孤児や在留異邦人といった立場の弱い人々を守るように神様は様々なケースに応じて法律を定められました。決して弱い者がないがしろにされることが在ってはならない、それが神の民の在るべき姿です。
礼拝を通し、そして毎日の生活を通して神様の愛と赦しを体験した者は赦しあい、愛し合う者とされていきます。
その愛とは何か特別なことをするのではなく、弱い者を配慮することです。教会の中でも弱い人がいます。また誰でも弱い部分を持っています。それを排除したり裁いたりするのではなく、守り助ける。
愛し合い使え合う、それが神の民としての教会の理想の姿です。
まとめ. 神様の御言葉に従い、赦しの礼拝の生活をし、お互いに愛し合い使え合う。そのような生活ができるなら、私たちは約束の地である天国の生活をすでに体験し始めることができます。約束の地を仰ぎ見て生きるとはそのような生き方です。地上にありながら天国のすばらしさを味わう。私たちがそのような生活をするならば、何も言わなくても周りの人は違いに気がつきます。自分もどうしたらそうなれるのかと尋ねて来ます。そんな生き生きとしたクリスチャンライフを送ろうではありませんか。それは自分の力でそうなれるというこ
とではないかもしれません。でも御言葉を通して神様の御心を見つめ続けるならば、神様が私たちの心を造り変え、成長させて下さいます。ですから、そうされるように求めていきましょう。