2000年8月13日 民数記32章 「御心に従う選択」
序.人生の中で私たちは様々な選択をします。そのときにクリスチャンはどのような選択をしたらよいのでしょうか。「神様の御心に従う」と答える人が多いと思います。もちろん、それは正しい答えですが、でもどうしたら神様の御心がわかるでしょう。お神籤でも引いたらわかる、というのなら簡単です。聖書を開いても直接的な答えは書いていないことが多いでしょう。どうしたら良いのでしょうか。
 旧約聖書の中に出てくるイスラエルの民は、様々な時に間違った選択をしています。神様の御心に従おとしません。彼らのしていることを反面教師として、「あのようにしなければ良い」と言えるかもしれません。でも、実は彼らと同じ事を私たちもしている事が少なくないのです。ですから、むしろイスラエルの間違いを自分に当てはめ、自分の過ちに気がつく、というケースがよくあります。
 今日、学ぼうとしています、民数記32章というのは、そのような失敗の一つです。この事件を通して、何が彼らの問題だったのか、そしてどのようにしたら神様の御心に従うことが出来るのか、そういったことを見ていきたいと思います。

1. 罪に基づく選択
   イスラエルの12部族のうち、ルベン族とガド族がモーセのところにやって来ました。それはまもなくヨルダン川を越えて約束の地に入る、その準備をしているときでした。彼らはモーセに願い出て、ヨルダンのこちら側に留まろうとしたのです。このとき人々はヨルダン川の東側にいました。ヨルダンの東岸に所有地を持つこと自体は、絶対に間違っているとはいえないことです。というのは神様がアブラハムに語られた約束の地の範囲は、東はユーフラテス川まで、ということでしたから、ヨルダン東岸も含まれると言えなく無い。後にもっと具体的にイスラエルの国の領土が決められていきます。民数記でも34章に彼らの所有地の境界線が定められます。そこに出てくる地名は現在では分からないものもありますから、はっきりとは言えませんが、その東の境界線は、すくなくとも一部はヨルダンの東側に及んでいたようです。絶対にいけないという事なら誰だって止めておこうとするでしょう。でも実際には良いとも悪いとも言い難い、そんな微妙なケースがたくさんあります。でもよーく考えるならそこに問題が含まれている、そんな選択も多々あります。このときのルベン族とガド族の問題は何だったのでしょうか。
 第一に彼らの選択は欲望に根ざしていた。1節に、彼らは多くの家畜を持っていた、と書かれています。前の章のミデアンとの戦いの戦利品として多くの羊や牛を手に入れたこともあって、彼らの所有品はますます多くなっていました。そんなとき、彼らが今滞在している所を見ると、放牧をするにはもってこいの場所です。ですからここに留まることは理屈に合っている。そこで、彼らはモーセに願い出たわけです。彼らは自分の所有物によって選択したわけです。16節に、モーセの反対に対する彼らの言葉が出ています。世の中には細かいところが気になる人がいるのですが、ここには「家畜のための囲い」が「子供達のための町」よりも先に書かれている。こんな所にも彼らの心が現れているのかもしれません。1節から4節では何回も家畜という言葉が繰り返されます。欲望にとらわれているとき人間は一つの事だけに目が向いてしまい、全体の事が見えなくなってしまいます。現代人にとっては家畜より財産でしょうか。お金が全てであるかのような風潮があります。すこしでも多くお金を得ようとするときに人間はお金の奴隷にり、本当の自由を失います。ある人は他のものにとらわれるかもしれません。学歴にこだわる人がいます。子供のことだけしか見えない親もいます。逆に子供のことを見ようとせず、自分のしたいことに終始する親もいますが。欲望にとらわれるとき、人は正しい判断力を失います。後でよく考えるなら間違っていることが、そのときには、正解はそれ以外にないと思いこんでしまう。それが罪の恐ろしさです。 ルベン族とガド族は多くの家畜を持っていた。それ自体は神様の祝福の結果です。しかし、彼らは与えて下さった神様ではなく、自分の所有物に事だけを考え、間違った道を選んだようです。
 第二の問題は「ヨルダンを渡らせないで下さい」という言葉です。「この地を与えて下さい」と言うだけで良いはずです。わざわざ「ヨルダンを渡らせないで」ということの中に、これから始まろうとしている戦いを避けようとする心がある。モーセはそう考えて6節からの反論をしています。ようやくミデアンと戦って勝つことが出来た。しかし、ヨルダン川を渡ったらもっと多くの敵がいる。実は40年前にも同じことがあったとモーセは語りました。約束の地は豊かな土地です。しかしそこには強い民がいた。祝福を見ないで困難だけを見て約束の地に入ることを拒んだ。そのために彼らは40年間も荒野をさまよう事となったのです。困難があるから、難しいから、と言って神様の恵みから目を背ける時に、私たちは間違った判断をしてしまいがちです。
 今、グレンビュー教会の礼拝説教はインターネットを通して読むことができます。これはいろいろな事情があって教会に行けない人に少しでも御言葉に触れて欲しい、という事で始めたことです。でもそれは教会に行かなくても良いと言うことではありません。キリストの体である教会に具体的に属することで神様に仕えることを体験し、また兄弟姉妹との交わりを通して支え合い成長する。でも、教会に行くことには困難もあります。距離や時間、といったことだけでなく、教会での人間関係が難しいという人もいます。楽なことだけを求めて、困難を避けようとするのは人間の習性です。でも、成長のためには必要な困難もあります。アメリカでも以前からテレビで礼拝の様子を放映しています。すると、面倒くさいからそれで礼拝をすましてしまう人が出てきます。パジャマを着てカウチで寝そべりながら、メッセージに半分だけ耳を傾ける。もちろん形だけが大切なのではない。でも神様に対する姿勢が形に現れることもあります。病気のため、あるいは迫害のために教会に行けない、そういうことならテレビやインターネットによる礼拝も良いでしょう。でも面倒だから、というだけで教会に行かなくても良いと言うのは問題がある。
 ちょっと脱線してしまいましたが、困難があるからといって正しい選択を退けてしまうのは、今の私たちにとっても気をつけなければならないことです。苦難ばっかりを求めるのも変ですが、気がつかないうちに楽することだけを求めやすい、それも私たちの陥りやすい罠です。
 さて、第三に、もっと根本的なことですが、ルベン族とガド族は、自分で所有地を決めようとした。実はそれが大きな問題なのです。このあとで神様は具体的に所有地を決める方法を示されます。それはくじを引く、という方法です。話し合いは大切ですが、同時にそれぞれの利害により、あるいは力関係によって、選択が左右されます。そこで昔のイスラエルでは、大切な事を決めるときによくくじをつかいました。それは、いい加減なやり方なのではなく、神様が全てのことを定めておられる、その神様に決定を委ねるという姿勢です。事を決めるのは神様なのです。今、私たちは何でも自分で決めます。個人主義が強くなるとなおさらです。でも、クリスチャンはそれでよいのではありません。本当は神様が決めて下さった事に従う、そのような思いを忘れてはいけない。具体的な問題として、結婚と言うことがあります。自分の相手は、確かに自分で決定する。しかし、誰が誰と結婚するかは、本当は神様が決めなさることです。それを忘れてしまうと、自分の好みや見た目で「選んで」しまう。好きだから、かっこいいから、それで決めてしまう。そうではなく、神様の確かな導きを確信するまで祈り続ける。その姿勢を第一にすることが大切です。最終的な決定は神様に委ねる。それが信仰者のあり方です。ルベン族ガド族の一番の問題は、土地も財産も神様からの恵みではなく、自分のものとしたところにあったのです。

2. 人間的な解決
   さて、モーセの反対はそういった問題を理解してと言うよりも、自分の過去の経験による感情的な反対でした。彼らが留まるならイスラエル全体の気持ちをくじいて、他のものも約束の地へ入ることを拒むようになる、そうしたら40年前と同じ事になって神様から捨てられる。それに対してルベンとガドが提案したのは、家族や財産はおいて行くが、戦うことの出来る者たちは他の部族の先頭を切って戦う、ということでした。それを聞いてモーセは彼らの願いを聞き入れました。2022節。つまり自分の責任を果たせばよい、と言うことです。でも何かがずれている、そんな気がします。
 モーセの一つの失敗は、神様の前に行って判断を仰がなかったことです。罪によって起きた問題を、神様の言葉なしに解決しようとした。誰でも失敗があります。神様の導きではなく自分の考えで選んでしまうことがあります。そんなときに、さらに神様抜きで解決しようとするなら失敗に失敗を重ねることとなります。間違ったと分かったときに、直ぐに神様の前に行くことです。本当の解決は神様の下にあるからです。
 もう一つの問題は、責任を果たせばよい、ということです。あるいは、何かをしたら赦されるという姿勢です。人間は行いによってではなく、神様の恵みにより、イエスキリストを信じる信仰により救われます。もちろん、行いも大切です。でもそれは救いの条件ではなく、むしろ救いの結果です。奉仕にしても良い行いにしても、それは神様の恵みに感謝して生まれてくるものです。それが自分の責任を果たすということにすり替わってしまうと問題です。自分の行いによって神様や他の人に認められようとするときに、恵みによる生き方からずれてしまうのです。
 どちらにも共通していえることは人間の力で解決しようとしていることです。失敗は誰でもあります。ところが失敗したことに気がついたときに、それを自分の力でどうにかできると考えて、傷を大きくしてしまう。自分の罪に気がついたとき、まず神様の前に進み出ることが必要です。罪の問題を解決できるのは神様だけだからです。人間の力に頼って解決しようとするのは本当の解決にはならないのです。

3. 二つの結論 (人間の結論と神の結論)
   さて、このルベン族とガド族の選択、そしてモーセの判断が、これで良かったのかはここでははっきりとは書かれていません。選択の結果はむしろ徐々に現れてきます。まず、一つ目のことはこの両部族に追従する人たちが出てきます。23節を見ると突然に「マナセの半部族」というのが出てきます。マナセ族の一部の人々が、それじゃあ我々も、と言ってルベンとガドに倣ってヨルダン東岸に留まることに決めました。幸い、イスラエル全体には及びませんでしたが、彼らの行動は他のものに影響を与えたのは事実です。クリスチャンの親がした選択がその子供に影響します。次の世代が間違った選択の故に間違った考え方に染まることがあります。罪の影響は周りの人にも広がっていきます。二つ目に、これはずっと後になって、ヨシュア記の時代に、ようやく約束の地の配分が決まった後、約束通りにルベン族とガド族がヨルダン東岸に帰ります。ところが、川の東と西に分かれたためにトラブルが起きてしまいます。人間関係にも影響を与えます。三つ目には、モーセの判断に関してですが、この後の旧約聖書の歴史を見ていきますと、他の部族に関しては神様が彼らの所有地を与えて下さったことが書かれているのですが、ルベンとガドについては一貫して「モーセが与えた」と言われ続けます。33節に書かれているとおりです。もちろん神の僕モーセが与えたと言うことは神が与えてくださったのですが、いつも神様が直接に与えたと言われることがないのは、
このモーセの判断と2部族の決断が良い評価を受けていない表れです。
 このように人間の目で見る限り、彼らのしたことは間違いだったとの評価です。しかし、神の評価と人の評価は異なります。もちろん、悪いことは悪い、失敗は失敗です。しかし、神様は罪人を赦し失敗から回復させて下さる方です。では神様は彼らにどのような評価を与えておられるでしょう。
 32節では、一度も神様は言葉を発していません。人々が神様の名前を使っていますが、神ご自身はずっと黙っています。その後の歴史でもこのことは取り上げられていない。むしろ、こんな間違いを犯したにも関わらず、神様は彼らをイスラエルの一部として取り扱っておられる。わざと評価を先に延ばしているようです。神様はイスラエルの失敗を直ぐにだめだとするのではなく、彼らが立ち返るのを待っておられるかの様子です。イスラエルの歴史を見ると、彼らは何度も間違った道を選び、神様の言葉に逆らいます。しかし、神様は彼らのための待って下さった。そしてついに彼らの府信仰のために国が滅びます。しかし、それでも神様は彼らを回復させて下さった。神様は失敗によって民を裁くことは直ぐにはなさらなかったのです。
 私たちも失敗があります。そのたびに自分はもうだめだ、クリスチャン失格だ、と言う必要はないのです。神様はその罪の中から救い出して下さり、その失敗から学ばさせて下さるのです。神様は失敗する私たちを赦し受け入れて下さいます。

まとめ. では私たちはどのように道を選んだらよいのでしょうか。細かいことですが、25節と31節を比べてみましょう。25節では彼らはモーセに従いますと言っていた。それが31節では、「主が言われたことをします」と代わっている。ここに、言葉の上だけかもしれないが、彼らの成長が見られます。たとえ失敗しても主に従い続けること、主の言葉に従うことが大切なのです。神様に従っていれば失敗がないのではありません。しかし、たとえ間違っていても神様に服従する決意があるなら、そしていつでも神の言葉に聞くならば、神様は必要な時に声をかけて下さいます。どのように神様に従うか、よりも、神様に従う心構えが第一なのです。神様の言葉に従います、という決意を日々新たにしましょう。