2001年8月5日「戦いに備えて」エペソ6:10ー24
 今日で、エペソ人への手紙からのメッセージも最後になります。エペソというのは今のトルコ、当時は小アジアと呼ばれていた地方にある町で、そこにある教会に向けて書かれた手紙です。著者であるパウロという人は異邦人の使徒と呼ばれ、イスラエルで始まったキリスト教を世界へ宣べ伝えて行った人です。世界と言っても当時の地中海世界です。聖書の中にはパウロが3回に渡って伝道旅行をした様子が記されています。第二回目の伝道旅行の時にパウロがエペソの町を訪れ、エペソ教会の土台が築かれたわけです。第三回伝道旅行の時にはパウロはエペソに2年数ヶ月とどまって福音を伝えました。その後、パウロは、ローマに行き、そこでこの手紙を書いたのだろうと推測されています。手紙を書いたときパウロは鎖につながれて軟禁状態でした。と言っても、訪れる人に伝道したり、彼が福音を伝えてきた各地の教会に手紙を書いたりする自由ももっていた。そのような状況で書いたわけです。彼は福音を伝えたがために訴えられ、裁判を受けることになっていました。最悪の場合には死刑です。もしかしたら二度とエペソを訪れることは出来ないかも知れない。そんな状況の中で自分が是非伝えておきたいことを書き綴ったのがこの手紙です。
 パウロはこの手紙の中で、特に教会とは何か、ということを伝え、その教会の一員として生きる一人一人のクリスチャンのあるべき姿を教えようとしてきました。でも、もう手紙を書き終えて送らなければならない。その最後の最後に一言、どうしても伝えたいメッセージ、それが今日開く箇所です。パウロが最後に訴えたかったことは何でしょう。それは、戦いに備える、ということです。キリスト者の人生には戦いがあります。その戦いに敗れてしまわないように、しっかりと備えて欲しい、それが今日のメッセージです。いったい、それはどんな戦いでしょうか。どのように備えたら良いのでしょうか。そして、どう戦ったら良いのか。今朝のメッセージは三つのポイントでお話しします。第一に、誰に対する戦いか、それは悪魔との戦いです。第二に、どんな備えが必要か、戦いの武具について。最後に、実際の戦い、それは祈りによる戦いだ、ということです。

1.悪魔に対する戦い
 クリスチャンの戦いは、決して人間に対する戦いではなく、悪魔に対するものだ、とパウロは12節で語っています。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく」と書いてあるのがそうです。聖書が伝える悪魔は、決して漫画に出てくるような頭に角みたいのがあって、しっぽがある、そんな奴ではありません。時には天使の姿で近づいてきます。世の中のありとあらゆるものを利用し、ずるがしこく私たちを陥れ、ついには信仰から離れさせ、救いを失わせようとする存在です。悪魔自身はもちろん肉眼で見えるものでも、人間が認識できる存在ではありませんが、悪魔の働きはいつでもどこでも見ることが出来ます。時には世の中の権力や構造を用いてクリスチャンを迫害したり、誘惑したりします。鞭をふるって脅したり、反対に飴を差し出して誘ったりします。あらゆる知恵や知識を使って騙そうとします。そしてたくさんの人がその策略に引っかかり、神様から離れてしまうのです。
 人ごとではありません。それは私たちの毎日の生活の中の出来事です。誰かが言った一言を正しく理解できないことがあります。そんな時、好意的に受け止めれば、何も問題は無いのですが、まるで悪意でもあるかのように感じてしまう。そして信頼関係が崩れていくのです。あの人は自分の事を悪く言った、自分を嫌いなんだ、自分の敵だ、と思いこんでしまう。誤解と言えば誤解なんですが、ちょっとしたことで疑ったり憎しみに発展したり。そんなことは私たちの身の回りにあふれています。そして何でもないことから教会の交わりがぎくしゃくし、暖かい関係が冷たくなる。悪魔は教会をだめにしようと隙を伺っているのです。
 つまずいた、なんて言うことがあります。大体つまずくのは小さな事です。大きな岩につまずくのは結構難しいけど、小さな石につまずきます。そして、その小さな事がさも一大事のような気がして、とうとう永遠の命と引き替えにしてします。あの人の一言で私はつまずいた、だからクリスチャンを止める、と。良く考えてください。あの人の一言と、あなたの永遠の命、どちらが重要ですか。そんな簡単なことが分からなくなってしまい、正しい判断ができなくなる。なぜでしょう。それが悪魔の策略だ、とパウロは語っています。神様を求め始めた人が突然に離れてしまう。信じたはずの人が教会に来なくなる。そんな事を見聞きしたことは無いでしょうか。それが自分に起こらないと言えるでしょうか。だからこそパウロは、戦いに備えなさいと勧めているのです。
 でも悪魔の手口は巧妙です。人間は簡単に騙され、戦いに敗れてしまいます。ですから自分の力で立ち向かってもダメです。パウロは神様の力によって強められ、神様が下さる武具を身につけるように教えています。10節、11節。 では、具体的に、どんな備えをしたらよいのか、それを二番目に考えたいと思います。

2.戦いの武具
 パウロはこの手紙を書いた時、一つの家に軟禁されていたと考えられています。鎖でつながれているだけでなく、ローマ軍の兵士がいつも付き添って見張っていた。ですからパウロは兵士の姿をいつも目にしていました。戦いの前には兵士たちは特にしっかりを身支度をします。そのイメージを使ってパウロは信仰者の戦いの準備を説明しています。13節から17節を読みましょう。
 これはあくまで比喩的表現ですから、あまり細かい事は気にしない方が良いと思います。真理が帯だ。ベルトみたいなものだろうか、真理というのは細長くて、所々穴が空いている。なんだか分からなくなってしまいます。ですから細かい点は置いておき、ざっと見ていくほうが良いと思います。
 真理、とくに福音の真理をしっかりと握っているでしょうか。聖書を通して神様の教えてくださる真理を学んでいるでしょうか。正義、何が正しいか、何が間違っているかを曖昧にしてはいけません。現代は正しさの基準が相対化した時代です。悪いことをしても悪くないと言い張る社会です。ですから神様の言葉に従って正しさを考えないと大変なことになってしまいます。そして平和の福音。エペソ書の2章で、ユダヤ人と異邦人の和解ということが書かれていました。人間同士の諍いを解決できるのは福音による平和です。一人一人がこれを持っていないと、教会の交わりは簡単に崩れてしまいます。赦された者としてお互いを受け入れ合う、それが平和の福音です。こういったことを一つずつ確認し、点検することが必要です。帯がしっかりとしまっていないままで戦いに出ていったら、いざというときに動きがとれなくなってしまいます。日頃から武具を点検するのが兵士です。クリスチャンは、いつも御言葉の光で自分のあり方を点検する。それが悪魔の策略に対する備えです。
 そして、信仰です。16節に悪魔の放つ火矢、というのが出てきます。最初は小さな火にすぎません。それがだんだんと燃え広がって、大変なことになってしまうのです。それを小さい内に消し止めるのが信仰です。神様を信じ、信頼するなら、ちょっとしたことでぐらついたりする必要は無いのです。また、神様が与えてくださった信仰の兄弟姉妹を、主にあって愛し、また信頼するなら、誤解や疑いを免れることができます。問題がおきるのは、大抵自分の信仰が崩れているときです。何か、トラブルが持ち上がったら、まず信仰の目で見つめ直す、それだけでほとんどのことは良い方に向かいます。
 これらの武具は、実は神様から戴くものです。私たちが最初から持っているのではなく、また自分の力で作るものでもなく、神様が与えてくださるものを受け止める。17節も、救いの兜をかぶり、ではなく、正しくは「兜と剣を受け取りなさい」と書かれています。救いも御言葉も神様が与えてくださるものをそのまま受け取るものです。ですから、いつでも神様の方に顔を向け、御言葉に耳を傾けることが大事です。そうしたら、どんな問題の時でも、そのときに必要な力を神様は与えてくださるからです。
 こういったことを一つずつ自分に当てはめて見ましょう。いつも真理を学び続けているでしょうか。神様の基準で正義を考えようとしているでしょうか。平和の福音がまず神様との関係において確かめられ、それが人間関係に及んでいるでしょうか。いつも神様を信頼しているでしょうか。毎週毎日、自分の姿を御言葉の鏡で見たいと思います。
 ところで、これらの武具の中で、唯一、御言葉の剣だけが攻撃用だと言われることがあります。間違いではありませんが、ちょっと注意したほうが良いかも知れません。確かに御言葉は悪魔に手痛い一撃を与えます。イエス様が荒野で40日間断食をされたとき、悪魔が来て誘惑しました。そのとき、イエス様は聖書の言葉で悪魔を撃退しました。ですから、私たちも悪魔の誘いを御言葉によって断ち切ることができます。でも、これは攻撃と言うより相手の攻撃に対する防御でもあります。あまり御言葉を攻撃用に使おうとすると、時々他の人に対して使ってしまうことがあります。聖書の言葉を使って人を批判したりすることです。でもそれは御言葉の正しい用い方ではありません。むしろ、この剣は御霊の剣です。実は聖霊が御言葉を用いられ、私たちの心を御言葉の剣で刺し通して、奥底にある罪を露わにし、悔い改めに導き、救いの御言葉によって癒してくださるのです。私たちが自分勝手に使うのではなく、神様の方がこの剣を用いてくださることが多いようです。その御言葉から逃げるのではなく、しっかりと受け止める時、私たちの内側にある、いろいろな問題の原因が解決されるのです。
 では、実際の戦いで、私たちは何をしたら良いのでしょう。武具を着込んで防御だけ固めて悪魔の攻撃を待っていればいいのでしょうか。いえ、私たちのなすべき戦いがあります。それを最後に見ていきます。

3.祈りによる戦い
 18節から最後までを読みます。
 兵士の武装という比喩は17節までで終わり、18節からは具体的に書かれています。その中心が、祈りなさい、です。悪魔との戦いで私たちがなすべき第一のことが祈りです。どんなことをするのでもその背後に祈りがなかったら悪魔に対抗することができません。クリスチャンの戦いは祈りによる戦いです。
 ところで、祈りというのは、自分の願い事が叶う、祈ったら何でもうまくいく、といった事ではありません。実際に祈っておられる方は経験されることですが、祈ってもなかなかうまくいかないことがしょっちゅうあります。そんなとき、それでも祈り続けると、神様が私たちの心に語りかけてくださり、自分の内にある間違った願いに気づかされて神様の御旨を祈るように成長します。また、人間の力ではなく神様だけが問題を解決できる方であることを最初から最後まで見ることが出来ます。祈りというのは、ある人は学校だ、と言いました。祈ることで、クリスチャンは成長するのです。祈るときに自分が変えられるのです。
 キリストは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とおっしゃいました。敵だと思っていた人のために祈るとき、実はその人が敵なのではなく、本当の敵は悪魔であり、悪魔の策略に引っかかって人間関係がおかしくなっていたことに気づかされる。そうして相手を受け入れることができるように、まず自分の方が変えられるのです。そうしたら、相手に勝のではなく、悪魔に勝つことができるのです。どんなことでも祈るとき、神様がそこに働いてくださるからです。
 祈るときに自分の願いをただ繰り返すだけ、ではいけません。祈りつつ、御言葉を通し、また祈りの中で、語りかけてくださる聖霊の声に耳を傾けるのです。祈れないと思うときでも聖霊は祈りを助けてくださいます。「どんなときにも御霊によって祈りなさい。」
 そして、「すべての聖徒のために」祈りなさい、とあります。自分だけが祈っているのではなく、自分のために兄弟姉妹が、時には知らないところで祈られているのです。以前、勉強が大変だったとき、私だけ学校の寮に入って家内と別々に住んでいたことがありました。実は、それは夫婦関係にとっては大変危険なことでもあったのです。別居が終わってから、ある日、家内にアメリカ人の友人がうち明けてくれました。それは、私たち夫婦のために祈るようにと神様が示され、なぜだか理由は分からなかったけど私たちのためにずっと祈っていてくれた、ということでした。それはちょうど私たちが別々に暮らしている時期でした。この隠れた祈りによって私たちは守られたんだ、と分かりました。私たちも、祈られているのであり、また他のクリスチャンたちのためにも祈る、それがクリスチャンの交わりです。
 パウロ、あの偉大なパウロも、自分のために祈って欲しいと言っています。彼は鎖につながれてはいますが、どんなときでも誰にでも福音を語れるように、例え裁判の場に立たされても、大胆に証することができるように祈ってください、と言っているのです。パウロの偉大な宣教の働き、それはその宣教によって生まれた教会、またクリスチャンたちの祈りによって支えられていたのです。また彼を送り出したアンテオケ教会の祈りのバックアップがあったのです。ですから悪魔がどれほど妨害しても、なお救われる者たちが起こされていったのです。パウロは戦いの秘訣を知り抜いていた。それが祈りなのです。
 祈るなら、必ず神様が最善の事をしてくださいます。祈らないで心配したり、疑ったり、悩んだりしていると、そこに悪魔がつけ込んできて教会を混乱させるのです。祈るとき、教会の交わりはさらに豊かになります。パウロが自分の代わりにテキコという人を送ってパウロの様子を知らせ、またパウロにエペソ教会の様子を伝えたように、祈り合うときに相手に対する理解が深められるのです。祈りが無い教会は人間的な集団になってしまいます。この手紙の主題は教会ですが、最後にパウロが祈りを強調したのは、そういった理由かもしれません。
 クリスチャンの人生には問題が必ずやってきます。でも、それは心配しなくても良い。それよりも悪魔の策略に騙されないように、いつも目を覚まして祈り続ける、それが大切です。それは、祈りによって、私たちは神様に目を向けることができるからです。どんな困難の中にいても、祈ることができます。そこには、天におられる神様が仰ぎ望めます。そして、どんな敵も神様が共にいて下さるから大丈夫です。祈りは、私たちがすることですが、同時に私たちがするのではなく神様が全てをしてくださることを信じる行為です。私たちが戦うなら負けてしまいます。でも神様が戦ってくださるのです。私たちは神様を信じ、従う。それが祈りです。祈りによって勝利を戴きましょう。

まとめ  今日は祈りの大切さを学びました。これから聖餐式を行うのですが、ぜひ覚えていただきたいことがあります。それは教会の二つの大切な柱です。一つは、何回も言いましたが教会の交わりは祈りによる交わりだということです。楽しく、一緒に時を過ごすことも良いことです。しかし、祈りの交わりを大
切にしてください。人間の交わりにはトラブルが付きものです。祈りの交わりがしっかりしているとき、教会の交わ
りは守られます。もう一つ、教会の交わりはキリストによる交わりです。十字架の赦しが交わりの土台であるとき、
お互いの失敗をゆるしあい受け入れ合うことができます。そのキリストの十字架を象徴しているのが聖餐式であり、
その意味を教えてくれるのが御言葉です。ですから、教会の交わりは、聖餐による交わりであり、祈りによる交わり
です。グレンビュー教会が、この2つの交わりを中心とし、御言葉によって導かれていくならば、神様の豊かな祝福
の内に歩むことができます。最後にパウロが祝福の祈りを捧げているところを読んで祈り、説教を閉じます。23節、
24節。