2001年7月22日「新しい社会としての教会」エペソ6:1−9


序.このエペソ書を通して教会とは何かについて学んでいるわけですが、最近しみじみと思うのは、この教会は本当に良い教会だなあ、という事です。もちろん、100人いたら100通りの考えがありますから、あそこの教会が一番だ、ということもあるでしょう。また、ここの教会に何も問題が無いのでもない。
でも、私にとっては、良い教会だ、と感じるのです。居心地が良いのです。
 牧師にとりましては、教会は職場でもあります。でも普通は教会と職場は別です。教会でのような交わりが職場や家庭でも持つことが出来たら、と思われることがあるかも知れません。本当は教会は教会の中だけで終わるのではなく、教会の外にまで広がっていくべき働きだと思います。キリスト教が広まり始めた
最初の頃、迫害する者たちがキリスト教の事を伝染性の病気に例えて悪口を言ったことが「使徒の働き」に出てきます。ウイロークリークの教会のパンフレットの中に、やはり伝染性という言葉を使っているのがありました。教会の交わりが一人一人のクリスチャンを通して周りに伝染していく。そして私たちの住む社会が教会の様な姿になっていったら、何と素晴らしいことでしょう。このグレンビュー教会がそのように用いていただけたら幸いです。
 今朝は、神様の御心に沿った人間関係と教会のありかたについて考えて行こうと思います。そして、私たちの教会がますます聖書の指し示す姿へと成長して行きたいと思います。いつものように三つのポイントに分けてお話しします。まず、第一に、神様が求めておられる人間関係、特に社会における上下関係のあるべき姿、を見ていきます。第二に、現実の世界の中でクリスチャンとして生きていくことの困難に目を向けていきます。最後に、では教会はどうあるべきか、キリストの体である教会をどのように建てあげていったら良いのか、を考えたいと思います。

1.神の示す人間関係
 先週は夫婦関係とともに、キリストと教会の関係について学びました。教会と神様、上下の関係です。それに対して、教会の中での個々の関係、横の関係を考えなければなりません。もちろん、人間と人間としての対等な関係は夫婦関係を土台として考えることが出来ます。しかし、実際には対等ではない様々な関係があります。この6章では、そのようなあらゆる人間関係の中で、親子関係と主従関係(主人と僕の関係)を取り上げています。
 まず親子関係。子どもに対しては両親に従いなさい、と命じています。2節には旧約聖書から引用して、両親を敬え、と書かれています。従う、というのはすでに5:21で述べているように、全ての人に対して、お互いに従いあうように言われています。しかし、ここでは特に「聞き従う」というニュアンスの言葉が使われています。そして、ただ命令しているだけでなく、それは「正しいこと」であり、祝福の約束がそれについてくる。3節。ここまでは、まあ当たり前のことを言っている感じです。
 親は子にどう接するべきか。4節では両親の代表として父親に対して語っています。4節。ここに「怒らせてはいけない」とあります。これは親が子どものご機嫌を取るとか、甘やかせ、ということではありません。ちょっと説明しますと、こんな意味だと思います。子どもが神様の戒めの通りに両親を敬い、聞き従おうという姿勢でいるときに、親の方がそれをいいことに無茶なことを要求し、子どもが見ても間違った、矛盾した事を言ったら、子どもの方は従いたくなくなります。親の方も自ら正しいあり方を取らなかったら、子どもは批判し、怒りたくなります。親が正しい生き方をしているのが良く分かっていたら、例え叱られても、子どもは納得し、聞き従うことができます。
 では親はどうあるべきか。4節後半には、子どもが怒るような態度ではなく、「主の教育と訓戒によって」とあります。親自身が神様からの教育と訓戒を受けて、それに従っていることが大切です。ここで「教育」と訳されているのは訓練とかしつけといった意味です。また訓戒は警告の意味も含んでいます。神様は私たちを訓練し、間違った時は戒め、正してくださいます。でもそれは理不尽なやり方ではなく、愛と忍耐を持って私たちを導いてくださってます。そのような「主の教育と訓戒」によって子どもを育てるように、ということだと思います。
 5節からは僕と主人への勧めです。ローマ帝国では人口の20パーセントから30パーセントが奴隷の身分だったと言う人もおります。おそらく1、2世紀の教会には奴隷のような低い身分のクリスチャンが少なくなかったのでしょう。その奴隷たちに語っているのが5節から8節です。ここでも主人に聞き従うことを命じ、それもキリストに従うように心から従え、と書かれています。また単に言われたことをする、というだけでなく、神様のみこころを行い、良いことを行え、と勧めています。9節はその主人に対する勧めです。「同じように」とは僕のように聞き従え、と言うことではなく、良いこと、正しいことを行え、またそのような姿勢で僕に接するように命じているのです。そして自分の上に、本当の主であるお方がいることを思い起こさせています。
 このようにみんなが主の僕として正しい生き方をし、それが人間関係に反映しているなら、親子関係も主従関係も素晴らしいものになるはずです。 それは分かっています。しかし、現実は様々な問題が生じます。もちろん、そこには私たちの罪、神様に従わないあり方が原因として存在するのですが、それだけでなく、もし片方が、特に上の立場にある方が、クリスチャンではないならば、必ず摩擦が生じる。そのような中でどう生きたら良いのでしょうか。それを次に見ていきましょう。

2.現実の中で生きる
 親がクリスチャンではなく、横暴に振る舞ったり、神様のみこころに反する生き方をしているときに、クリスチャンの子どもが、それでも親を敬い従うのは、困難な闘いかも知れません。主人が不公平であり、人を人と思わないような時に、真心から主人に仕えるのは簡単ではありません。反対の場合、子が神様に従っていないときに、愛と忍耐を持って導く、あるいは不誠実な僕を主にあって差別せず正しく扱うのも大変でしょう。私たちの多くが、家庭や社会にあって様々な人間関係で悩んでいる背景には同じような問題があるかもしれません。もちろん、自分の心が問題であることもあります。その場合は神様が御言葉を通して示してくださり、悔い改めに導いてくださる。でも、自分ではなく社会そのものに問題があることもあります。そんな時、クリスチャンはどうしたら良いのでしょうか。
 5節に「奴隷」という言葉が出てきます。現代ではあまり響きの良い言葉ではないので、僕とか召使いと訳すこともあります。しかし、ローマ帝国にも、また旧約時代のイスラエル、神の民の中にも、奴隷制度は存在していました。どうして神様はそんな制度を止めさせなかったのだろうかと考える人もいます。奴隷制度なんて明らかに罪だ、それなのに聖書はそれを認めているような感じがする、と思われるかも知れません。しかし、神様は人間の心を私たちよりも良くご存じです。例え革命や社会改革によって奴隷制度を廃止しても、なお人間の心の中に差別する心、また罪が存在する限り、差別は形を変えて存在し続けます。共産主義はその最初は平等を理想として下りましたが、革命によって共産主義の社会が出来、時間がたってみると、その中にまた階級や差別が生まれてしまったのです。
 確かに聖書は革命を教えません。むしろ、そのような矛盾に満ちた社会の中で、それでも神様の御心に従い、上の者に従い、仕えるように何回も教えています。もちろん、キリストから引き離そうとされたときは命がけで信仰を守りますが。ですから、多くのクリスチャンの奴隷たちは相変わらず、あるいは前以上につらい状況が続いたでしょう。しかし、その中で彼らが御言葉の教える僕の姿、忠実な生き方をし続けたとき、やがて彼らの周りの人々がその生き方を認め、キリスト教に惹かれるようになったのです。そして主人がクリスチャンになったとき、身分こそ以前と変わりませんが、同じ主の僕となり、神の家族の一員となって、正義と愛によって僕を扱うようになったとき、奴隷制度は実質的に消え失せるのです。福音は革命よりもはるかに力強く社会を変えるこ
とができるのです。
 もちろん、その陰で多くのクリスチャンが苦しみを受け、時には血を流したことでしょう。他の箇所には、この世の支配者に従うことも教えられています。ですから基本的にクリスチャンは良い市民であるはずです。ところが皇帝が自らを神として皇帝礼拝を強要するようになると、クリスチャンはそれは出来ない。しかし、法律には従う。そこで死刑に甘んじて死んでいったのです。でも、彼らの命がけの信仰を見て、クリスチャンの数は減るどころか増え続け、やがてローマ帝国もキリスト教を認めざるを得なくなった。ローマ帝国は、革命によってではなく、クリスチャンの僕としての生き方によって変えられたのです。
 ですから、例えどんなに社会が、また私たちの周りが歪んだものであっても、神様は私たちに神の僕として生きることを命じておられるのです。それによって神様の栄光が私たちを通して表されることをご存じだからです。でも、そこには辛いことがあるでしょう。神様はそれもご存じで、私たちに慰めと癒しの場所を用意してくださいました。

それが教会です。その主の教会のあるべき姿を、最後に見ていきましょう。

3.主の教会を建てる
 一週間の間、社会の荒波でもまれ疲れ切ったクリスチャンが教会に来て癒され恵みと力を戴いてまた社会に出ていく。というのは一面正しいのですが、それだけではいけないと思います。それと共に、一人一人が成長し、訓練されて行くことも必要です。どうしたらそのような教会を建てあげることができるでしょうか。
 教会における人間関係は、神の家族であり、兄弟姉妹です。愛し合い、仕えあう。それが教会です。では、教会の中には上下関係は無いのか、というと、あります。そう言いますと、多くの人が、ああ聖職者と平信徒という事だな、と考えるかもしれません。ちょっと違うと思います。牧師は、誰よりも僕でなければなりません。神様の御心は私たちが僕となって互いに仕えることですから、牧師はそれを身をもって模範を示す存在です。ところが、それと同時に、神様から牧師に委ねられた働き、特に御言葉を取り次ぐ働きに関しては上に立たなければならない。権威を持って神様の御旨を伝えていかなければなりません。でも、牧師だけが上に立つのではありません。
 使徒の働きの6章では、教会で初めての信徒リーダーがたてられます。人数が増えて食事の事で問題が起きたとき、十二使徒が言った言葉が出てきます。口語訳聖書では「私たちが神の言葉をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない」となっています。それは大きな誤訳です。「おもしろくない」はだめです。そこで言っているのは、「食卓の働きをするために、本来の働きである御言葉を語ることが出来なくなったら、教会にとって大きな損失になる」ということです。で、食卓のことはどうでもいいのか、というとそうではない。そのころ数万人に増えていた弟子たちの中から最も優れた人7人を選び出して、その7人が大切な役目に任ぜられたのです。教会が成長していくときに、必ず新しい働きが生まれ、それが円滑に勧められるためにリーダーが必要となるのです。教会も牧師が何から何までしようとすると、スーパーマンじゃありませんから出来ることに限界があります。しかし、様々な働きのためにそれぞれのリーダーがたてられるとき、牧師も本来の働きを十分に行えますし、教会全体も正しく動くことができる。
 そのときに、上に立つ人が、このエペソ書6章にあるように、僕として仕えつつ、リーダーとして正しく上に立つことが大切です。また周りの人も愛を持ってリーダーを助け、主に仕えるように仕える。そのとき、教会は健全な働きができるのです。教会が様々な働きを通してキリストの御旨を行うことが出来るように、神様は一人一人に賜物を与えてくださいました。みんな賜物が違います。ですから教会はどんなことも出来るのです。
 音楽の賜物がある人は奏楽によって賛美、神様を称えるという大切な働きをリードする。お料理の賜物がある人は、食事の交わりやその奉仕の働きをリードします。証の賜物がある人は率先して神様の恵みを伝えて、他の人をひっぱることができます。賜物が無いということはありません。一昨年、リトリートで「賜物セミナー」をしましたが、出席出来なかった人はもう一度学んでみて、神様から自分に与えられた賜物を発見し、神様のために用い、何らかのリーダーとなってください。自分にはリーダーシップが全くない、と言う人、その人は使えることで模範となることができます。誰もがリーダーであり、また僕である。そのなったとき、教会の働きは豊かになるのです。
 でも、教会の働きが豊かになると、忙しくなるのでは、大変になるのでは、と心配されるかもしれません。大丈夫です。一人一人も教会と共に成長していくのです。子どもも成長すると、力が付いてきてお手伝いができるようになる。最初は軽い物しか持てなかったのが、成長すると共に親もびっくりするほど重い物が持てるようになります。頼もしい限りです。神様は持てないような荷物を無理に背負わせたりしませんから、心配しないで大丈夫です。
 むしろ、私たちは「主の僕」であることを忘れてはいけません。夫婦であっても親子であっても、また主人や僕であっても、みな主の僕として互いに仕え合う。そしてキリストの体である教会を共に建てあげて行きたいと思います。

まとめ  今までは、私が学生牧師と言うこともあり、また私には出来ないことがたくさんありましたから、みなさんが助けてくださって、知らず知らずのうちに聖書が教えている教会のあり方が形造られてきました。これからは蛭沼先生がフルタイムの牧師となってくださる。そしたらもう助けは必要ないか、というとそうではないと思います。これまで出来なかった伝道の働きを今まで以上に力強く進めてくださる、そのときにもっと様々な助けが必要となります。そのために新しい賜物を神様は与えてくださるはずです。ですからこれまでそうだったように、みなさんがこの教会を建てあげていっていただきたいのです。そのことでちょっと、注意することが二つあります。
 一つは、外に出ていくことです。グレンビュー教会が成長してますます素晴らしい教会になっていった時に、居心地がいいからといって内輪だけで固まっては、神様が教会に託された宣教の働きが果たせなくなりませす。教会の中で僕として訓練されて、社会に出ていったクリスチャンが、証人として用いられ、キリストの香りを放つなら、それに惹かれてキリストの元に人々が集まってくる。教会の魅力を知って求めるようになる。そんな広がっていく教会でありたいと思います。
 もう一つは、私たちだけが教会ではない、ということです。日本語部だけでなく英語部もキリストの体の部分です。グレンビューだけでなく世界中の教会がキリストの体を形成しています。ですから、グレンビューのために祈りが捧げられ、また蛭沼先生ご一家が送られてきたように、私たちも、これからも送り出す教会として用いられたら幸いです。送り出すことは痛みでもあります。でも、それによってキリストの教会全体に貢献できる、仕えることができるのです。送り出した人たちや世界の教会のために祈ることも私たちにできる働きです。
 少し長くなりましたが、もう少しおつきあい下さい。

 ご存じの方もおられますが、蛭沼先生に引き継ぎが終わった後、千代崎家はボーリングブルックに移ります。それには二つの目的があります。一つは、滞っていますが、私の論文を完成させることです。これは元々こちらに留学に来た目的を達成するためです。それは旧約学を学び、日本の教会に帰って教えることで、日本宣教の働きに仕えることです。ですから、キリストの働きのために、私の学びが守られるように、これからもお祈り下さい。もう一つの目的は、以前から薦められていて、私も必要を感じていたのですが、ニューソングチャーチで、弟子訓練の方法を学んでくることです。この方法は日本でも、またもしかしたらグレンビューでもお役に立てる学びかもしれません。これも主の働きのためですから、みなさんの祈りによって支えていただけたら感謝です。他にも家族のいろいろな事情の中、しばらくグレンビューの働きを離れて、私たちもあちらからグレンビューのために祈らせていただく事になります。でもこれはグレンビューを去るのではなく、また帰ってきますし、ちょくちょく会うこともあると思います。寂しくないかと言えば、やはり寂しい。でも、このことで神様のお役に立てるなら、喜んで学びに向かいたいと思いますし、また大きな意味でグレンビュー教会が成長するためになればと願っています。人間的にはいつまでもいつまでもとどまることが出来ればいいと思います。でも、私たちの思いではなく、主の御旨がなされることを祈っていきたいと思います。どこにいても神の家族であること、また同じ僕仲間であることは一緒です。ともに主に仕えて行きましょう。