2001年7月15日「夫婦、そして教会」エペソ5:21(22)−33


序.この聖書箇所から説教するのは、実は随分前から考えていました。と言いましても、早くこの箇所から話したかったからではありません。難しいな、と悩んでいました。ここは夫婦について書かれています。自分が理想的な夫婦かと考えると、全く自信がありません。M先生ご夫妻のようになれたらいいな、と思ってます。でも、私はまだまだ欠点だらけですし、おそらく家内も同じように考えていると思います。だから理想の夫婦はこうあるべき、といったことをお話しようとは思いません。
 今日のお話は二つのことを取り上げたいと思います。一つは夫婦。もちろん、まだ結婚してない方は関係ないと思われるかもしれませんが、夫婦関係というのは全ての人間関係の基本ですから、自分に当てはめながら聴いていただきたいと思います。もう一つの話題は教会についてです。ですからメッセージのタイトルは「夫婦、そして教会」。ストレート、というか、全然工夫の無い説教題です。
 話す順番としてはいつものように三つに分けます。第一に「神の基準」、これは夫婦はどうあるべきか、ということです。第二に「失格者」。これは自分はどうなのか、ということ。最後に「キリストの愛」。キリストの愛、すなわち神様が私たちをどのように扱われるか、です。

1.神の基準
 22節には「妻は夫に従え」と書かれています。別に聖書でなくても儒教の教えの中にも出てきますし、多くの文化において同じようなことは言われている。でもクリスチャンは「みんながそう言っているから」ではなく、聖書を通して神様がなんとおっしゃっているかを考えなければなりません。この、エペソ書ではなんと言われているのでしょう。
 22節には、内緒ですよ、実は、なんて言ってこのメッセージ、インターネットに乗るのですけど。実は、本当は22節には「妻は夫に従え」とは書かれていないのです。(喜んだ人、いませんか)。自分の聖書には書いてあるぞ、と皆さん思われるでしょう。ギリシャ語の聖書で読むと、ここは「妻たちよ、主に対するように、自分の夫に」としか書かれていません。もちろん前後関係から「従いなさい」という意味であるのは明らかですので翻訳した人は読みやすいように補って書いたわけです。
 前後といいましたが21節を見ますと、「互いに従いなさい」と書かれています。キリストによって救っていただいた者、キリストの弟子たちは、キリストが弟子たちの足を洗って仕えたように、互いに仕え合いなさい、という事です。これはクリスチャン同士、つまり教会の中に関して言われているのですが、教会の外でも同じなのです。もちろんクリスチャンでない人たちはそんなことは考えません。むしろ、相手を従わせて自分の思い通りにしたい。なのにクリスチャンは従わなければならない、とするなら、相手の言いなりで、損するじゃあないか。しかし、お互いが相手を従わせようとするとき、そこには争いしか生まれません。そういった人間関係の問題こそが私たちを苦しめるのではないでしょうか。聖書は人間関係の秘訣を教えています。それは自分が変わるときに相手も変わる、です。私たちが「従う者、仕える者」になるとき、私たちの周りも変えられるのです。
 そんな文脈の中で22節が書かれています。私たちはお互いに従うように神様から語られています。だから妻は夫に従う。しかし、神様はそれ以上の事をおっしゃっています。妻の場合は、主に従うのと同じように夫に従え、と言うのです。私たちを救ってくださったキリストに従う気持ちで夫に従う。それは嫌々に従う、仕方ないから従う、という事ではありません。神様の求めておられる基準は、世の中の倫理道徳を遙かに越えたことなのです。
 と、ここまでは妻に対して。いよいよ、夫に対して、です。夫も妻に従わなければなりません。21節に書かれていますから。それに加えて、25節、「...妻を愛しなさい」。「もちろん、自分は妻を愛していますとも」と、多くの人が考えるでしょう。でも、人間の愛というのは独りよがりの場合が多いのです。何かをしてあげたり、何かを上げたりすることで「愛した」と自己満足をするか、相手が満足することでまた自己満足するか。聖書が求めている愛は違います。キリストが教会を愛されたように、です。それは、まだ教会がキリストに従う前から愛し、逆らっている罪人を愛し、その罪を贖いために自分の命を差し出す、そんな愛です。愛しやすいから、愛する価値があるから、だから愛する、ではなく、愛する価値のない者を愛する愛です。これも簡単に達成できるような基準ではなさそうです。
 聖書が示す夫婦のあり方、そして人間のあり方、神様が私たちに求めておられる基準は私たちが決して到達できるものではありません。誰もこの基準を満たしたから救われたのではありません。また救われたら自動的にできるようになるわけでもありません。ではどうしたらいいのでしょう。それは神様の御言葉によって取り扱われることです。そこで、第二に、神様の御言葉の光の前に進み出たいと思います。

2.失格者
 教会の結婚式に初めて出席した夫婦、式が終わってから奥さんがご主人に、「あの神父さん、なかなか良いこと言ってたじゃない。夫は妻を愛せよ、ですって。あなた、ちゃんと聴いてたの?」「妻は夫に従え、とも言ってたぞ。お前こそ、前半寝てたんじゃないのか。」 お互い、自分に都合のいいことしか聴いていなかったようです。
 聖書の間違った読み方の一つに、他の人に当てはめる、というのがあります。御言葉を聞いた時、「これはあの人に聴かせたかった」ではいけません。また、他の人を批判する材料にしてもいけません。それでは神様の恵みを受け取り損ないます。そうではなく、まず自分に対して語られた言葉として受け止める。妻は、妻に対する言葉を、夫は夫に対する言葉を、まず自分に当てはめて吟味します。結婚されてない方たちは、自分の周りの人に対する態度、家族や同僚にたいする姿勢に「従うこと、愛すること」を結びつけてみるのです。だれもが同じ結論に達します。神様の基準の前では、だれもが失格者なのです。
 神様の目から見たならば自分は失格者である。それを徹底的に思い知らされた時に、他の人を批判出来なくなります。批判するのをやめると態度が変わります。こちらの態度が変わったら相手との関係が変わります。人間関係が変わった時に、私たちの人生が新しくなる。そのためには、神様の前で心が砕かれるところを通らなければならない。それは痛い事ですが、必ず神様の祝福があるのです。
 まず、自分を見つめ直した後で、相手に対する御言葉を読んでみる。私は夫ですから、まず自分がキリストの愛で妻を愛しているかを吟味するわけです。自分の愛がいかに自己中心であるかが解ります。神様に対しても、また、実は相手に対しても、自分が失格者であることに気が付くのです。そのとき、相手に対する言葉を見てみる。こんな自分に対して、それでも従うように神様から命じられている。それは大変な事です。神様の基準に達しない、そして相手から見ても失格者かもしれない。それにもかかわらず自分に従おうと努力してくれている。33節の最後を見ると、夫を敬え、と書かれています。敬うふりをする、ではなくて敬う、のです。自分は敬ってもらえるような人間だろうか。大体、男性の方が女性より精神年齢が低い、人によって違いますが。男は何歳になっても少年みたいなところがあります。きっと女性から見たらバカみたいに見えることがあるだろうと思う。家内は誰よりも私の姿を知っています。それでも敬い、従う。それは批判するどころか感謝すべきではないでしょうか。
 自分はだめだったな、と反省しているだけで終わってはいけません。もう一歩先に進みたいと思うのです。

3.キリストの愛
 この手紙を書いたパウロは、ここでただ夫婦に関する教えを説いているのではありません。夫婦のことを取り上げながら、同時に教会に関することを教えようとしてます。それは、キリストと教会の関係は夫と妻の関係と同じだということです。と言いましても、キリストと教会が実際の夫婦のようだという事ではありません。イエス様も夫婦喧嘩するのか、なんてことはありません。ここで言っているのは、夫と妻のあるべき関係、神様が示された、いわば理想の関係がキリストと教会の関係を説明している、ということです。また教会のあるべき姿は妻への教えの中に込められているのです。
 キリストは、すでにあるべき姿、神様の基準を満たした愛で愛してくださいました。その愛は、どんな素晴らしい夫の愛よりも大きな愛です。他にもいろいろな愛があります。恋人同士の愛は燃えるような愛です。先日、賛美チームのミーティングで旧約聖書の雅歌という書を学びました。それは男女の愛を謳った書です。この書は、キリストの教会に対する愛を示している、と言われています。でもそれはキリストの愛が恋愛感情のようなものだというのではありません。神様の、そしてキリストの愛はどんな人間の愛よりも高いものです。それは私たちの理解を遙かに超えた愛です。でも、その愛を不完全な理解力しかない私たちに伝えるために、人間の愛を例として用いているのです。夫婦の愛、恋人の愛よりももっと強い愛です。母親の愛よりももっと深い愛です。そんな愛で、教会を、その枝である私たち一人一人を愛してくださるのです。
 教会は、というと、私たちは決して理想的な姿ではありません。欠けだらけです。でも、そんな私たちをキリストは先に愛してくださり、無条件で受け入れてくださっているのです。それだけではない。キリストの愛の目的が26節、27節に書かれています。 26節では、キリストが私たちを愛されたのは、だめな私たちを愛しただけでなく、その教会をきよめるためだ、と言っています。そして27節は、それをキリストはご自分でそうされる、と告げています。失格者である私たちを聖く傷のない者に造り替えてくださる。それは私たちでなく、キリストがそうして下さるのです。
 最初に22節に従いなさいという命令がないと話しました。実は21節にも命令はありません。命令形ではなく分詞形で「従うこと」と書かれています。これは18節の「御霊に満たされなさい」という命令形につながっています。キリストの愛に満たされ、御霊に満たされるとき、賛美が生まれ、感謝が生まれ、従う者となるのです。キリストの愛を受けたとき、相手を愛する、それも自己中心の愛ではなく神様の下さる愛で愛するようにされるのです。ここに夫婦、そして人間関係の秘訣があるのです。

まとめ  昔、「空手バカ一代」という漫画がありました。私と同年代の男性はご存じかも知れませんが、他の人は知らないでしょうね。これは極真空手を造った大山マスタツという人の生涯を元に描かれた話だそうです。そのなかで一つだけ印象に残っていることがあります。ある時、彼の命を狙う強敵が現れた。大変な戦いの末、どうにか相手を倒し、そして和解することが出来た。相手は彼を先生と呼ぶようになるのですが、彼の方も相手を先生と呼ぶのです。どうしてか、と訊かれて、こう答えました。もし相手が一つでも自分より優れたところがあるなら、その人に学びたい。だから先生と呼ぶ。
 私たちは、夫婦に限らず、誰に対してでもそうですが、相手の良いところを見るよりも欠けているところに目が行きがちです。特に家族や夫婦の場合はそうです。もし相手の良いところ、自分より優れた部分を認めるなら、尊敬し、従うことが出来ます。もし相手の足らないところ、自分が勝るところがあると思ったら、その勝っていると思う自分の力で相手の欠けを補って助けてあげたらよいのです。それが愛です。そしてその愛はどこから来るのか、私たちを限りない愛で愛してくださるキリストから来るのです。「あなたを愛している」という神様のメッセージを心に受け止めましょう。