2000年7月9日 「勝利の人生」 民数記20〜21章

序.勝負に負けるのが好きだという人はあまりいませんね。誰でもできるなら勝ちたい。子供だって負けず嫌いです。我が家では子供と一緒にゲームをするときは、親は決して手を抜かない。子供相手に本気で勝負する「決まり」になっています。だから子供が負けるに決まっている訳です。負けると目がウルウルしてくる。すると、「泣いたらゲームはできません」。端(はた)から見たらなんて大人げない親だろうと思われるかもしれません。その通りなんですけどね。でも、そうやって鍛えたお陰で、最近は子供も段々と親に勝てるようになってきた。ゲームに関しては、我が家はスパルタ教育です。
 ゲームに負けた位は笑ってお終いにできます。もっと大切な問題があります。それは人生における勝利ということです。でも、人生における勝利とは何でしょう。世の中では、「人を蹴落としてでも勝て」と考えられています。口に出しては言わないまでも、実際の行動でそれを示している人が多くいます。でも、それは何か間違っている。では、クリスチャンとしての勝利とは何でしょう。聖書の教える「勝利の人生」について、今日は民数記の20章と21章を通して考えたいと思います。

1. 罪に対する勝利 (20:1〜13)
   クリスチャンにとっての勝利とは、第一に、それは罪に対する勝利です。そのことをこの20章で見てみましょう。20章の1節では、「第一の月」と書かれています。いままではエジプトを出て何年目の何月と書かれていたのが、ここでは何年かが省かれています。おそらく、これは41ないし2年のことだろうと思います。イスラエルの民は神様に対する不信仰と罪のために40年間、荒野をさまよわなければなりませんでした。1節にカデシュという場所が出てきますが、この場所は40年前にモーセが12人のスパイを送り出したところです。ここで人々は罪の罰を宣告され、放浪が始まりました。その40年の最後の年です。20章はモーセの姉ミリアムの死で始まり、アロンの死で終わっています。この二人の死は、40年の旅が終わり、第一世代全体が滅んでいったことを象徴するものです。罪のために第一世代は滅んだ。そして、新しい世代の時代が始まろうとしている。そんなときに事件が起きました。
 飲み水が無かったために人々はモーセとアロンに逆らってつぶやきました。そこで、神様はモーセに命じて彼らのために水を岩から出させました。これだけ見ると第一世代と全く同じことをしているな、と思われるでしょう。自分たちの親が神様へのつぶやきの罪により滅んでいったのを目の前に見ながら、なお同じことをする。罪というのは親から子へ受け継がれていくものです。遺伝ではありません。しかし、罪の性質というものは親から子、子から孫へと、確実に受け継がれていくものです。だれもそれを避けることはできません。子供を見ていると、自分の欠点、いやなところが子供のうちにもあるのを見いだすことがあります。逆に親を見ていて、あんなふうにはなりたくないと思っていたのが、自分が大人になってみると同じことをしている。罪を受け継ぐのは、避けられない現実なのです。またそれは親子だけではありません。人々の罪は指導者であるモーセにまで及んでいました。
 神様はモーセに岩に水を出せと命じるようにおっしゃいました。ところがモーセは杖で岩を叩きました。その結果、12節。第一世代と同じようにモーセとアロンも約束の地に入ることができなくなってしまいました。いったい、何故でしょう。たった一回の失敗です。神様は厳しすぎるような気がする。でも、よく読んでいくと、彼の犯した罪が見えてきます。人々の不平を聞き、モーセは神様の前に行ってひれ伏した。以前ならば、彼は人々の前でひれ伏した、それによって彼の謙遜さが表されました。あるいは、神様に対し取りなしの祈りをしたり、あるいは民のつぶやきを自分の怒りとして神様に伝えた時もあります。今回は指導者としてなすべきことを何もしていないようです。また、神様の前から戻り、人々の前に立ったとき、モーセは彼ら言いました、「逆らう者たちよ」。こんな言い方は初めてのことです。モーセも40年間の放浪で疲れ切っていたのかもしれません。人々がまた同じ不平を言っているのを聞き、「またか」と思ったかもしれません。いらだちもあったでしょう。そしてモーセは群れを愛し、導き、仕える、という神の民の指導者としての心を忘れてしまったのです。しかし、神様が怒られたのはそれだけが理由ではありませんでした。
 この場所はメリバと呼ばれるようになったのですが、同じ地名が出エジプト記17章に出てきます。そのときもほとんど同じことが起きました。そのときも岩から水がわき出て人々の乾きをいやしました。そのときには、神様は岩を杖で打ちなさいと命じられました。モーセの頭の中にはそのときの記憶があったはずです。9節でモーセは杖をとったとあります。これは神様に言われた通りです。今までモーセは神様の命令を一字一句忠実に実行しました。今回も杖をとるところまではそうでした。しかし、岩の前にいったとき、彼は過去の経験に頼った。「手を上げ」、また「岩を二度打った」という彼の動作の中にもモーセの怒りが出ているようです。そして彼は言った、「私たちがあなた達のために水を出さなければならないのか」。実際に水を与えて下さるのは神様です。モーセも、またこの不思議な岩も、あくまで神様の道具として用いられているに過ぎません。しかし、彼はまるで自分の力でそれをしている気持ちになってしまったのです。そして、その結果、神様の栄光を人々が知るようにしなかった。ここにモーセの神様に対する信頼の欠如と、神様に対する畏れの欠如を見ることができます。不信仰と、自分を神様の位におく高慢さ、それこそ第一世代が神様からの罰を受けた原因でした。同じ罪を犯したモーセに神様は同じ罰を与えたのです。どんなに、これまでモーセが良い働きをしてきても、この罪の為に彼は祝福の地に入れなくなってしまった。
 私たちは、人がどれほど、素晴らしいことをしても、あるい世の中において認められるような、地位とか財産を築いたとしても、罪の為に全てが台無しになるのをよく見ます。法律に触れる罪が発覚して名誉も富を失うケースや、法律には違反していなくても罪の影響によって人間関係や家庭が崩壊すること。そして、たとえこの世においては罪の身を刈り取らないとしても、神様の前に立たされたときに、罪の問題が処理されていなかったために、永遠の祝福から締め出されてしまう。罪に対する勝利が無かったら、最後は必ず敗北なのです。ですから他の何よりも罪に対する勝利こそ無くてはならないことなのです。
 でも、罪を避けることが誰も、あのモーセでさえ、できないのなら、どうして勝利などあり得るでしょう。

2. 十字架による勝利 (21:1〜9)
   さて、イスラエルの民は約束の地カナンに、40年前は南から入ろうとして失敗しました。そこで今回は少し遠回りになるのですがいったん東の方へ迂回し、東側から入ることになりました。そのためにはカナンの地の東にある国々を通過しなければなりません。20章の後半でモーセはエドムの国と交渉しますが、拒否され一旦南東に向きを変えエドムの国のさらに東を通ろうとしたようです。そのためには北にあるカナンの地からは遠ざかる方向に進まなければなりません。人々は騒ぎ始めます。約束の地から離れていく、道はますます厳しくなる。とうとう、我慢ができなくなり、文句を言い始めました。21章5節には、彼らは神とモーセに逆らったと書いてあります。そこで神様は「燃える蛇」を送った。おそらく毒蛇の一種で、焼け付くような痛みを伴うことから「燃える蛇」と呼ばれたのではないかとの説明があります。この毒蛇のために多くの人が死にました。
 ここまではいつもと同じです。しかし、今回は新しいことが起こりました。一つは悔い改めです。7節。人々は初めて罪を認め、モーセにとりなしの祈りを願いました。人間の側がなすべきことは神様の前に立ち返り、罪を悔い改めることです。この事件以降、つぶやきの罪は少なくとも民数記の中ではもう出てきません。しかし悔い改めが救いをもたらすのではなく、神様からの救いが必要です。それが、8,9節の青銅の蛇です。
 神様の命令によりモーセは燃える蛇の形を青銅で作り、それを旗竿の上につけ、それを仰ぎ見た人は死なずにすんだ。ところが、この蛇にはちょっと問題があります。十戒の中で、蛇を含め天にあるものでも地にあるものでも何の形をも作ってはいけないと書かれています。特にそれは偶像礼拝につながるからですが、実際、この青銅の蛇は記念としてとっておかれたようで、数百年後にこれを偶像として人々が偶像礼拝をする罪を犯すようになります。なんで神様はそんな問題をおこしそうなものを作らせたのか。それには神様の深い計画があったからです。新約聖書のヨハネの福音書を見ると、キリストが、このときの青銅の蛇は、やがてキリストが十字架の上に上げられることのモデルであると言いました。十字架による救いとはどういうものであるかを後の時代に示すために神様はこんな命令をされたのでした。
 誰だって自分たちを苦しめている毒蛇を喜んで見たくはありません。まして、それが自分の罪の結果であり、その罪を犯したことを深く悔いているなら、なおさらです。しかし、神様はその罪の結果を見なさいと言われた。自分は罪のために罰を受けなければならないという厳しい現実から目を背けてはいけない。また、蛇の毒が回り始めて苦しんでいる人に、その蛇を仰ぎ見たら救われると言うのは変な話です。マングースなら分かりますが。それでも神様の言葉を信じて、見上げる。ここに神様の言葉への信頼が必要です。この罪への罰の厳しさと神の救いへの信頼が完成されたのがキリストの十字架です。
 十字架というのはつまずきです。もっと格好のいいものだったら人気が増えたでしょう。スーパーマンのようなヒーローについていけといわれたら、みんなついていくでしょう。良いことをたくさんしなさいとか、聖書をたくさん学びなさい、そうしたら救われます、と聖書に書いてあったら、もっとたくさんの人がクリスチャンになったかもしれません。ところが神様は、人が自分の罪を悔い改め、その罪の罰を神の一人子が十字架上で代わりに受けて下さり、それを信じるだけで救われるとされた。自分の力ではなく、ただ一方的な恵みによって救われる。しかも自分の罪から目を背けてはいけない。だから、プライドも、また自分を正当化しようとする言い訳も全て捨てなければならない。それが十字架による救いです。もし、十字架抜きで救われようとすると、また高慢や自己中心が顔を出してくる。40年間の荒野の苦行も罪を消すことはできなかった。それが人間の罪の根強さです。罪に勝利するためには十字架による救い以外に方法は無いのです。

3. 神の勝利 (21:21〜35)
   十字架による救いを受けた人に神様は勝利の人生を用意していて下さいます。いえ、自分は失敗だらけで、勝利の人生とはほど遠い、と思われるかもしれません。しかし、誰であっても勝利の人生は可能なのです。でも、どうやって? そして、どんな勝利でしょう?
 荒野の放浪の旅を終えたイスラエルの民は新しい段階に入っていきます。それは戦いの旅です。これまでもいくつかの戦いがあり、神様の恵みにより勝つことができました。しかし、これからいよいよ、カナンの地に住む国々と対面しなければなりません。その最初が21章の後半に出てくる戦いです。さっき少し話したエドムの国と、モアブ人やアモン人の国とは戦わずにやり過ごすことができました。しかし、次のエモリ人とは、向こうから戦いを挑んで来たために戦わざるを得なくなったのです。そして、エモリ人の王シホンとそれに続いてバシャンの王オグとをうち破ることができました。この二人の王との戦いは、後々までも詩が歌われた位、イスラエルにとっては印象に残りました。初めての本格的な戦いで不安だった彼らが神様の助けにより強い敵を倒すことができたからです。
 ところで、こういった戦いの話が聖書に出てくるのに対して、快く思われない方も多いと思います。聖戦、すなわち自分たちの神の名の下に、戦いを正当化し、残虐に相手を倒す、という行為が歴史上あらゆるところで繰り返され、現在でも行われています。その中にはキリスト教の名を使った戦いも少なくありません。こういった宗教と結びついた民族間の争いは、決して正当化して良いことではありません。旧約聖書、特に民数記やヨシュア記に出てくる戦いも、一歩間違えばそれらと同じものです。しかし、神様の意図は違います。27節から一つのことわざというか、歌が記録されています。一見すると、聖書の中に含む価値の無いような歌です。そこに書かれているのは、こんな内容です。以前は、この土地はモアブ人が住んでいた。それをシホンが追い出してエモリ人の国を建てた。そのシホンを今度はイスラエルが倒した。そんな歌です。国々の歴史を支配しておられるのは神様です。一つの国を建て、滅ぼし、またその国を倒すために他の国を用いられる。カナンの地に住んでいた国々は、道徳的に腐敗した生活をしていた。その国々を滅ぼすために、神様はイスラエルを用い、他の国をも用いられたのです。ですから、もしイスラエル自身が神様に背き、罪を重ねるならば、やがて他の国を用いてイスラエルを倒すこともあり得る。それが旧約聖書全体の告げている真理です。
 ですから、これらの戦いで本当の勝利者はイスラエルではなく神様なのです。クリスチャンにとっての勝利とは、神様が勝利されることです。その神様に仕える者としてのみ勝利に与ることがあり得るのです。それでも、時には神様が勝つか、自分が勝つかを選ばなければならないことがあります。つまり、自分の思いを貫くか、神様の言葉に従うかです。そのときに、もし自分の願うところに固執するならば、たとえそれがうまくいったとしても、やがては息詰まるときが来ます。しかし、もし自分の思いを手放して、神様の前に降伏するならば、神様の勝利の中に入れていただけるのです。神様に対して無条件で全面降伏すること、それがクリスチャンにとっての勝利なのです。

結論.今、祈祷会では創世記からヤコブの生涯について学んでいます。ヤコブは自分の願いを叶えようと様々なことをするのですが、それによってますます問題が起きるようになります。自分の起こした問題で行き詰まり、どうしようも無くなったとき、神様が現れてヤコブと相撲(レスリング)をします。かなうはずがありません。最後は腰の関節をはずされて負けてしまう。負けてもなお神様にすがっていった彼に、神様がおっしゃった、「あなたは神に勝った」と。神様が負けるはずがありません。そうではなくて神様が勝利を下さったのです。そのときにヤコブに平安が与えられました。
 もしあなたが解決できない問題で悩んでいるなら、もう一度神様と対決してみて下さい。そして神様に自分の罪を示され、神様の前に砕かれるなら、あなたと神様の間を妨げていた障害が取り除かれ、神様との平和の関係、愛と信頼の関係を頂くことができる、それがクリスチャンの勝利なのです。この勝利の人生を歩ませて頂こうではありませんか。