2001年7月8日「高嶺を目指して」エペソ5:1−21

序.先週はお休みをいただいて、ヨセミテ公園へ行って来ました。とても美しい場所で、神様の御手の業をたっぷりと味わうことが出来ました。谷の底からの眺めも素晴らしいのですが、やはり岩山の上からの眺めは何とも言えない美しさでした。谷底もあちこちの岩と滝、そして遠くの山々まで、全てが一望できる。あそこはロッククライミングの有名なところでもあるそうで、あの垂直にそびえる岩を上っていく人が大勢いるんだそうです。私にはとても出来ないことですが。でも、それを苦労して上っていって頂上までたどり着いたときに見る景色というのはもっと素晴らしいのではないかと思います。
 今朝の説教は、別に観光案内をするつもりではありません。「高嶺を目指して」とタイトルを付けましたが、山登りではない。私たちの人生にも色々なところを通ります。美しいところや楽しいところだけではなく、つらいところ、暗いところも多くあります。苦しい時は、特にそうですが、今自分がどこにいて、これからどうしたら良いのか、それが分からないためによけいに苦しむ事があります。そんなときにもし高いところに上ることができるなら、暗い谷底がどこで終わるかが見渡せ、そしてゴールにある美しい天国が見える。そうしたら、どんな困難な旅でも喜びを持って送ることが出来るのではないかと思うのです。クリスチャン人生というのは、高嶺を目指すべきものです。目標はキリストのようになることであり、具体的には聖書の御言葉によって成長していくことです。一朝一夕でできることではありませんが、出来ないといって下ばかり見ていてはいけません。常に上を見上げながら歩んで行くことを忘れないようにしたいと思います。
 前置きが長くなりましたが、今朝は5章の1節から21節を見ていきます。エペソ書の前半は、教会とは何かというテーマの下に、その教会に加えられる、すなわち救いということを教えています。後半は、その救いに与った者たち、すなわちクリスチャンたちがどのように生きていったらよいのか、ということを綴っています。4章後半もそうですが、5章も、気をつけないと単なる「道徳的教え」のように思えてしまいます。「愚かな話を避けなさい」とか「不品行をしてはいけない」といったことです。これらはクリスチャンが「しなければならない」ことに違いありませんが、出来なかったら失格とか、できたら報いがある、と考えると律法主義になってしまいます。ここは決して道徳とかきまりではなく、救われてキリストの教会の体の一員とされた者が、目指していくところであり、自分の努力以上に神様の恵みによって変えていただくものなのです。そのように理解するカギとなるのが、この箇所に3回、正確には4回ですが、出てくる「何々の様に」という言葉です。その3つを元にして、いつものように三つのポイントに分けてお話しします。

1.愛されている子供らしく
 最初は、1節。ここに「子供らしく」と訳されていることばは「(子供の)様に」という言葉です。神様に愛され、神の子としていただいた私たちは、父なる神様が聖いお方であるように、聖い生き方を目指さなければいけません。「神にならう者になりなさい」ということを具体的に書き表したのが3節以降の部分です。しかし、いくら何でも「神にならう」なんて目標が高すぎます。ではパウロはエペソの人々に無理なことを押しつけているのか。そうではなくちゃんと秘訣を教えています。それは愛されている、という事です。
 私たちは神様の愛によって救われた。それが全ての土台です。私たちが神様の基準をクリアしたから救われたのではなく、神様に逆らい、罪を犯していた私たちを、まず神様の方が愛してくださり、御手をさしのべてくださり、罪の中から引き上げてくださった。それが救いです。私たちは、その神様の愛によって生まれた子供です。生まれた子供は親の愛をたくさん受けて成長していきます。親の愛を豊かに受けられないで育つと心がまっすぐには育ちません。私たちも神の子として神様の愛を豊かに戴くときに、正しく成長し、かならず神様にならう者となっていくのです。だからパウロは2節で「愛の内に歩みなさい」と勧めているのです。2節にはキリストの愛が書かれています。それは十字架の愛です。私たちを救うために御自分を捧げてくださった愛です。それを考えるなら、汚れたこと、みだらなことを口にしたり行ったりしづらくなるはずです。せっかく十字架によって救っていただいたのに、それを踏みにじるような生き方は出来ません。ですから神様の愛、十字架の愛に目をとめるなら、自然と生き方が変えられるのです。
 それを自分の力で自分を変えようとすると無理が生じます。子供たちは大きくなろうと思って大きくなるのではありません。両親の愛を豊かに受け、自然と成長するのです。私たちは神様に愛されている子供なのです。愛されているのだから、「愛されている子供らしく」とパウロは語っているのです。これが土台です。
 神様の愛によって救われた私たちは、今、どうしたら良いのか。それが次に見ていく事です。

2.光の子供らしく
 8節から14節を読みます。
 「光の子どもらしく」と8節に書かれていました。ここでも、決して「光の子どもになりなさい」とは言っていません。すでに、主にあって光となった、と書かれています。マタイによる福音書ではイエス様が「あなた方は世の光です」と言っています。どうでしょうか。みなさんは光でしょうか。そう訊かれると、自分はまだだめだなあ、と考えたりしませんか。そうではないのです。イエス様が、またここではパウロが言っているのは、もう光になっている、ということなのです。せっかく光にしていただいたのに、それに気が付かないで暗闇の中ばかり歩んでいてはいけません。「光の子どもらしく」歩むことを求めるべきなのです。
 光がどんなものかを具体的に書いているのが9節。あらゆる善意と正義と真実が光の結ぶ実であると言っています。どうしたら光の子どもらしく歩み、光の実を結ぶことが出来るか。それが10節以降です。
 子どもは親の愛を受けて成長します。子どもも大きくなると自分の判断で物事を選択していきます。そのときに、「お父さんだったら、お母さんだったら何て言うかな」と考えて良い方を選ぶことができたら素晴らしいですね。10節では「主に喜ばれること」とあります。自分の望みとか好みではなく、主が喜んでくださることを選んでいく。それは同時に、光の実を結ばないような暗闇の業を離れることでもあります。それが11節。罪を離れ、主に喜んでいただくことを願う。それが光の子どもらしい歩みなのです。
 ここまでは「子ども」という言葉が使われて来ました。だんだん成長していくと、親にとっては子どもであることは変わりませんが、同時に大人として行動するようになります。村上先生が、子どもから大人に成長していくクリスチャンのあり方を新約聖書全体を通して教えてくださっています。大人の姿、これが私たちの目標です。それを最後に見ていきます。

3.賢い人のように
 「愛されている子どもらしく」、「光の子どもらしく」、そして「賢い人のように」。日本語では少し違いますが、もともとの言葉では同じ前置詞が使われています。15節。「賢くない人のようではなく、賢い人のように歩んでいるか」と書かれています。賢さ、知恵、というのは成長した大人のものです。知恵と言っても、この世の知恵とは少し違う、神様からの知恵です。この世的な知恵がどうでもいいのではありません。旧約聖書のなかの箴言という書を読むと神様からの知恵を学ぶことが出来ます。その中にはこの世的な知恵も含まれています。でも神様の下さる知恵はそれ以上のものです。16節以降はその知恵を具体的に述べています。
 16節では、今の時代は困難な時代である、だからこそ時を生かして用いなさい、と語っています。この世を離れるのではなく、このような暗闇の時代にあって時を正しく用いることも知恵です。
 その知恵とは何か。17節では、それは「主のみこころ」を考えること、と教えています。箴言では「主を畏れること」、怖がるではなく、敬うこと、それが知恵であると言っています。いつも御言葉に養われ、御言葉に導かれるとき、神様の御心が理解できるのです。
 18節。酒に酔ってはいけません。先週、不覚にも酔ってしまいました。夕食に入った店でアイスティーを注文したつもりが、どうもカリフォルニアの英語は分からなくて、飲んでみたらアルコールが入ったティーでした。まあ、これくらいなら大丈夫だと思ったのですが、条件が最悪だった。その日の午後5時間運転して疲れ切っていた。夕食と言っても、もう10時近くでおなかが空き切っていた。その空腹に、のどが渇いていたので、ぐいっと飲んだので、気が付いたら目が回って来た。生まれて初めての経験でした。自分は酔ったらどうなるんだろうと前から興味がありました。泣き上戸か笑い上戸か。酔ったら、私はやけに陽気になりました。
 でも、クリスチャンは陽気になるのにお酒の助けはいりません。最近していませんが、グレンビュー教会は遊ぶ教会で有名です。ゲーム大会では、大の大人が本気でカルタを奪い合って走る。しらふで良くできるものです。カラオケ屋に行かなくても、大きな声で賛美の歌を歌う。喜びにあふれるところ、それが教会です。ただ楽しいだけではなく、御言葉と祈りによって神様の恵みが満ちあふれています。御霊に満たされなさい、と18節は締めくくっています。19節。互いに賛美の言葉で語り合い、声を合わせて心から賛美を主に捧げる。これが主の御心であり、神からの知恵なのです。

まとめ.  賢い人、というと取り澄ました、近寄りにくい感じがするかも知れませんが、そうではない。神様の御こころに従い、御霊に満たされた生き方は、賛美と喜びと感謝にあふれています。なぜでしょう。それは、どんな苦しいときでも高いところから全てを見渡せるからです。高嶺に上るとき、クリスチャン人生を一望することが出来ます。十字架の愛によって救われたことをいつも思い起こす事が出来ます。神様からの光が照らしていることが分かります。谷底を歩いて、暗い足下ばかり見ていると、忘れがちですが、空の上では神様はいつも愛と光を注ぎつつけているのです。そして、どちらの方向に進んだらいいのか、先の道が見えてきます。それは神様の御心に沿った道です。その行き着くところは天国です。
 このような人生を歩んでいこうではありませんか。いつも神様の愛と光を求め、恵みの高嶺へと登り続けていきましょう。