2000年7月1日
「神に近づく恵み」民数記16〜19章 (朗読16:1−7、28−35)
序.説教の準備をしているときによく悩むことがあります。その時々にいろいろな理由があるのですが。今日のメッセージの準備をしているときにも悩みました。今日取り上げる民数記の16章には「コラの反逆」と呼ばれる事件がでてきます。コラという人が中心となってモーセとアロンに対する反逆を引き起こしました。最後には神様の裁きが下って彼らは滅んでしまいます。この事件を表面的に見ると、神様によって立てられたリーダーに逆らってはいけないということになります。でも、牧師が「牧師に逆らってはいけない」なんてメッセージをするのもちょっと変ですよね。
もちろん、牧師に限らず、教会の中でお互いを批判しあうというのは良くないことです。実際には、だれでも欠点があり、失敗もあります。でも、そんなときに裁きあうのではなく、主にある家族として欠けているところを補いあうことが大切です。牧師だって人間ですから間違えることもあります。よくあるかもしれません。私は物忘れをしてポカ(失敗)をすることがしょっちゅうあります。鶏は三歩あるいたら忘れると言いますが、私は立ち上がっただけで忘れます。どうぞ間違った時には教えて下さい。でも牧師に注意をするのはちょっと気が引けるという人もいると思います。ある先生がこんな話をして下さいました。新約聖書の「使徒の働き」の中にアポロという若い伝道者がでてきます。本当は、年齢は書いてありませんがきっと若かったと思います。このアポロはとても素晴らしい説教者だったのですが、福音の理解にちょっと足りない部分があった。そのことにアクラとプリスキラという夫婦、いわばベテランのクリスチャンですね、この二人が気づきました。でもそのことを教会でみんなの前でいったら恥をかかせてしまう。そこで、この二人はアポロ先生を自宅に呼んでご馳走した。いえ、ご馳走かどうかは聖書には書いてありませんが。とにかく家に招いて、そこでアポロに丁寧に教えた。彼はその後も素晴らしい働きをしたようです。だから、もし牧師に何か問題があったら自宅に招いてご馳走しよう。いや、問題がない時でもいいですよ。別に私が招いて欲しくて言っているんじゃあないです。その先生のお話ですからね。
それはさておき、今回は新しい視点からこの箇所を学ぶ必要があると思い、それで悩んでいた訳です。この16章から始まって19章までの間でテーマとなっているのは「聖さ」ということ、言い換えれば、誰が神様に近づけられるか、ということではないかと思います。クリスチャンとされたというのは、それだけでも神様に一歩近づけられたということです。でも、クリスチャンはその生涯を通してますます神様に近い者とされていく。それは、たとえば牧師だけが聖い、というのではなく、全ての人に関わることです。今日はそのことについて学ぼうと思っています。
1.神に逆らう罪
コラという人がモーセとアロンに言った言葉が3節にでてきます。「全会衆残らず聖なるもの」と言っていますが、事実、出エジプト記19章6節で神様がイスラエルは「聖なる国民」だと言っています。コラは真理を言っている。でも真理の一部だけをことさらに強調しようとするとたいてい間違った結果がでてきます。何よりも、この時のコラや彼の仲間たちの動機が問題でした。コラはレビ族に属していました。レビ族は神様への奉仕をするために選ばれた部族。その部族の中でコラはケハテ族という氏族の一員でした。ケハテ族は幕屋、すなわち聖所の中にある最も聖いものを持ち運ぶ働きをしていました。同じケハテ族の中でアロンの家族だけが祭司となることができました。ですからコラは思ったはずです、自分だってもしかしたら祭司になれたかもしれないのに、アロンだけがかっこいい働きをしている。それからコラと手を組んだダタンとアビラムはルベン族でした。イスラエルの12部族は創世記にでてくるヤコブの12人の息子に由来しています。その中でルベンは長男です。レビは三男。なんで、三男であるレビ族だけが選ばれ、その中のモーセとアロンだけが指導者となっているのか。自分だって長男のルベン族だ。12部族の人数を数えるときにだってルベン族が一番に名前を呼ばれている。嘘だと思ったら1章を読んで見ろ、とは言わなかったけど。他にも、部族の代表者ではないが、小さなグループでリーダーとなっていた者たちのうち250人が同じように思った。ですから、彼らは、モーセとアロンが全会衆の上に立っていると非難したのですが、本当は二人を引きずりおろしたあとで、自分たちが上に立とうとしていたわけです。
モーセはコラとその仲間たちに対して、あなた達は「主に逆らっている」と言いました。モーセとアロンに逆らったのではなく、神に逆らったのだと。これはどういうことかと言いますと、こういうことです。旧約聖書にも新約聖書にも罪を表す言葉がいくつもあります。これはいろんな種類の罪があるというのではなく、どんな罪もそれらの言葉で表される性質を併せ持っているのです。難しく言えば、罪の多面性です。「的外れ」という言葉もその一つです。それらの中で、大変きつい言い方ですが、「反逆」という意味の言葉がでてきます。罪というのは神様に対する反逆なのです。神に逆らっているつもりはないと思われるかもしれません。でも、例え人間に対してした罪でも、それは神様に対してしたことであり、またその心の中に自己中心や高慢が潜んでいるのであって、神様に逆らっていることになるのです。コラたちは自分たちが上に立とうとした、そこには神様に選ばれて、神様の命令に従うということではなく、自分が上に立って全てを思い通りにしようとした。真のリーダーである神様を無視した、だから神様への反逆なのです。
もっと神様に近づきたい、聖くなりたい、というのは素晴らしい思いです。でも、それを間違った動機や方法で行うと大変な罪になってしまいます。コラは祭司になりたかった。でもその動機は罪に汚れていた。それで彼は神に裁かれ滅んでしまいました。私たちにとって聖くなっていきたいというのは大切です。でもそれが、人からほめられたいとか、上に立ちたいとかいった動機が潜んでいるなら罪になってしまいます。では、どのようにして神様に近づくことが良いのでしょうか。
2.聖なる僕
イスラエル人たちは、その多くがコラに扇動されて一度はモーセとアロンに逆らいました。しかし、それが神に対する罪であることに気づき、またコラや彼に従った者たちが神様に滅ぼされたので、自分たちも滅ぼされると思って叫んだ。その言葉が17章の最後にでてきます。17章12,13節。この彼らの叫びに対して神様からの答えとして与えられたのが18章の法律です。そこには祭司とレビ族の務めについて書かれています。軽々しく、あるいは間違った方法で近づくなら滅ぼされてしまう。それほどに神様は聖いお方であるなら、どうやって罪ある人間は近づくことができるのか。それに対する答えとして旧約聖書が示したのは祭司とレビ人でした。これは、祭司たちによって執り行われる宗教的儀式によって神に近づくことができることを示しますが、それだけではないと思います。彼らは神に選ばれ神に近づけられた者のあるべき姿を示しています。いったい祭司やレビ人とは何なのでしょう。それを知るカギが、ちょっと戻りますが16章の9節にでてきます。
祭司を含めてレビ族は、主の幕屋の奉仕をするために、そしてそれはそのことによって会衆の前に立って彼らに使えるために、選ばれ、神に近づけられた。ですから、彼らの務めは、神に仕え、またそうすることで人々に使えることなのです。一言で言うならば、神に近づけられる生き方とは僕として生きることなのです。新約聖書でキリストが、「偉くなりたいと思う者は仕えるものになりなさい」と言われたことの原型がすでにここに現れているのです。この「聖なる僕」である祭司やレビ人たちの責任と特権について書いてあるのが18章なのです。
その前の17章で、神様は奇跡を通してアロンが大祭司として神様自身に選ばれていることを明らかにしました。各部族から一本ずつ杖をとってきて、神様の前に置きました。その中でアロンの杖だけが芽を出し花をつけ、実を結んだ。アロンが確かに神様に選ばれている証拠です。そのアロンに神様が直接に語りました。18章1節。ここで「咎を負う」と言っているのは、祭司が聖所に関することの全責任を負うことであり、また聖所に関する罪の責任をも負うことです。もし人々が間違った方法で神に近づこうとした時には神様から罰を受ける、そのときに彼らのために贖いの儀式を行い、人々を助ける。また、もし祭司自身が罪を犯したときは普通の人よりも厳しい基準が与えられています。実際、アロンの子供たちの中の二人は神様の言葉に従わなかったために滅ぼされました。2節にはレビ人に関して書かれています。レビ人は祭司の召使いになったのではありません。聖所の務めに関して、祭司を助ける働きをするのが、「仕える」ということです。その彼らには特別に自分の身を聖く保つことが要求されています。第一に神様に近づく者は神様から与えられた自分の務めに忠実でなけらばならない。
第二に、聖さを求めるときに私たちは自分のために生きる生き方を手放すようになっていきます。レビ族以外の12部族には、やがて約束の地に入ったときにそれぞれの所有地が割り当てられ、そこで彼らは農業や牧畜を行って生計をたてます。ところがレビ族や祭司にはそれが与えられない。与えられるのは住むために必要な最小限の土地だけです。しかし、神様は彼らに、彼らの所有地は神様自身であると言って、神様が養って下さると約束されました。それを具体的に表すのが18章8節以下です。人々がささげものとして神様の前に持ってきた者は神様の所有となります。その中で、この部分は祭司とレビ人に与えられる、その規定がでてきます。神様に自分をささげていく人は、神様自身が養って下さる。これを最も表しているのが伝道者であり献身者ですが、これはクリスチャン全てに当てはまる真理でもあります。
神様に自分をささげ、神様と人々に仕える、これが聖なるものの生き方です。これはレビ人や祭司だけでなくイスラエル全体に求められていることです。実はコラの事件の直前にそのことがすでに書かれているのです。15章の40節。イスラエルが選ばれて聖なる国民とされた。そしてさらに聖なるものとなっていく、そのためには神の命令にいつも従う。コラたちはこれを取り違えたのです。聖なる者となる、神に近づけられる、というのは上に立つのではなく僕になることなのです。
でも、どんなに聖められても人間は罪人です。聖なる神に近づけば近づくほど自分の罪深さに気がつきます。自分のなかにある自己中心や高慢は実に根強いものです。これでは誰も神に近づくことができなくなります。これを解決する最終的な答えは新約聖書に入ってからイエスキリストという形で表されます。私たちの罪を神の一人子が変わって背負って下さった、真の大祭司として全ての人の罪を負って僕となって下さった。このキリストの十字架による贖いがあるからこそ、私たちは神様に近づくことができるのです。
3.キリストにある道
旧約聖書にはイエスキリストという答えは、完全な形ではでてきません。しかし、たくさんのヒントがでてきます、ある場合にははっきりと、ある場合には隠された形で。この民数記のなかにもたくさん、キリストについて書かれています。僕として召された祭司とレビ人もキリストの姿を映しだしています。
コラとその仲間たちが神様の裁きを受けて滅んだ。それは誰が見ても神様からの罰だと分かる形でした。それにもかかわらず、その次の日に人々はモーセとアロンにつぶやいたと16章にでてきます。この人々に対して神様が罰を下され、イスラエルの中におそらく激しい疫病ではないかと推測されることが起こりました。そして人々が次々と死んでいく。そのときにモーセはアロンに命じて人々の中に行って贖いの祈りをささげるように命じました。昨日今日と二日間の間、コラたちや人々から拒絶されたアロンです。その捨てられたアロンがそれでもなお人々を救うために、その疫病のただ中に降りていって救いを祈る。これはキリストの姿そのものではないでしょうか。
ある人は17章の芽を出した杖もキリストの復活の預言だと言いますが、これは少し行き過ぎかもしれません。でも確かに、死んだ木であるアロンの杖が芽を出したことでアロンの大祭司としての選びが証明されたように、キリストの復活はイエスが救い主であることの保証となったのは事実です。
19章には「汚れを清める赤い雌牛の灰」というのがでてきます。でも読んじゃあだめですよ。なんて言うと読みたくなる人がいるでしょう。読んでみたら分かりますが、本当に退屈な所です。そこでは罪というものを宗教的な汚れとして表現しています。それを清め、再び神様の前に近づくことができるように、雌牛を焼いた灰を遣って「汚れを清める水」というものを作る、そのやり方が19章にずっと書かれています。やっぱり、面白くなさそうでしょう? 私たちの罪の汚れを取り除くことができるのは、十字架上でささげられたイエス様の贖いのための犠牲であり、その流された血によって清められるのです。
このように旧約聖書にはやがて来るべきキリストの姿が指し示されています。新約聖書はそのキリストが来られたことを明確な形で証言しています。そして、聖餐式は、キリストの十字架を象徴し、また、やがて再び来られる再臨のキリストを指し示しています。
罪に汚れた私たちを救うためにイエス様は十字架で身を裂かれ血を流してくださいました。十字架の贖いによって神に近づく道を造って下さったのです。でも、人間は自分の力でその道を進むことはできない。ですから、キリストは私たちに新しい命を与え、また、私たちの中に入って下さって、私たちがキリストの僕として生きることができるようにして下さった。そのことを目に見える形で確認するのが聖餐式です。そのことを覚えながら、今日の聖餐式に与っていきましょう。
まとめ(祈り). 神様、私たちは本当に罪人です。救われる前も救われてからでさえも、あなたに逆らって生きてきました。でもそんな私たちを救うためにキリストを十字架につけて下さいました。そして私たちが自分の力によらないであなた御下に近づくことができるようにして下さり、永遠の命の祝福に与らせてくださいました。その恵みを感謝します。これから聖餐に預かり、この恵みを確認し、またキリストに救われた者としてこの新しい月もあなたに従っていきたいと願います。どうぞ、私たちを聖なる僕として下さい。あなたの御心のままに私たちをお用いください。私たちの全てを御手に委ね、キリストの御名によって祈ります。アーメン