2000年6月25日 「ゴール前の大失敗」 民数記13〜15章
序. グレンビュー教会というのは不思議な教会でありまして、大人も子供も一緒になって真剣に遊んだりすることがよくあります。あれは去年でしたでしょうか、体育館で双六大会をしたことがありましたね。双六っていうのは、だんだん盛り上がって、ゴールまで後少しというところまで来たのに、そこに罠があるわけです。一回お休み、くらいなら優しいですね。ひどいのになると、振り出しに戻る、なんてこともあります。あと一歩のところでそんなことになったらがっかりですね。でも、今日の民数記は、もっとひどい話です。イスラエルの民はエジプトを出発して1年と数ヶ月もかかって、いよいよゴールであるカナンの地が見えてきた。ところが彼らはそこで、40日間の足止めを受けた、くらいならいいのですが、なんと40年間も約束の地に入れずにお預けになってしまったのです。いったい何が問題でそんなことになったのでしょうか?
彼らの失敗は私たちもするかもしれない失敗です。信仰の旅路を続ける私たちは、どのように生きることが求められているか、この失敗の記事から学びたいと思います。まず第一に、彼らの失敗は「祝福を拒む罪」でした。第二に、その罪から救い出すために、「取りなしによる救い」、そして「従う人生」という順でお話します。
1. 祝福を拒む罪(13:1〜14:10)
イスラエルの民が40年間の放浪という厳しい罰を受けたのは、彼らが神様の与えようとしている祝福、すなわち約束の地に入ることを拒んだためでした。なぜ神様の下さる祝福を拒むようになったか、その原因を順番に見ていきたいと思います。モーセは神様から命令を受けて偵察をカナンの地に遣わすました。そして40日間の偵察を終えて帰ってきた12人の隊長たちが報告をしたのが27節です。1節には神様の言葉がでてきます。そこには「わたしがイスラエルの民に与えようとしているカナンの地」と言っています。ところが17節でモーセは「あちらに上って行って」、そして27節では「あなた(すなわちモーセ)が遣わした地」となっています。神様が与えて下さるという約束が消えてしまっているのです。神様が共にいて働いて下さるという考えが薄れていったとき、つまり神抜きの視点で物事を見たときに信仰がゆがみ始めるのです。クリスチャンであると自称しているしていながら、神様を信じていない人々が、不思議なことですがいるのですが、この人たちはたとえば聖書を読みながら、こんなことはあり得ないと言って、奇跡のような理解できない部分を否定します。神様はいない、あるいは生きている力強い神ではない、と思っていますから奇跡なんてありえないと初めから決めてかかるのです。ところが、そうやって聖書を否定し始めると、かならず救いが分からなくなります。信仰ではなく、聖書から道徳的な言葉を探し出し、自分の努力でそれを達成しようと始める。しかしそれでは救いではなくなってしますのです。私たちは、神様がおられるという大前提を第一に考えなければなりません。
イスラエルの偵察たちが、神様の約束を知らなかったはずはありません。27節で、乳と蜜がながれる、という言い方をしています。もちろんカナンの地では川にミルクが流れているはずはありません。これは土地がよく肥えていて、作物も豊かにとれることを表す表現です。この言い回しは出エジプト記やレビ記でモーセがイスラエルの民に語った言葉の中にも何回かでてくるのですが、いつも神様の約束のことも一緒に語られています。彼らの先祖アブラハムに対しての約束、それはアブラハムの子孫であるイスラエルの民にカナンの地を与える、ということでした。しかし、彼らは言われた言葉は理解しながら、本気では信じていなかったのです。
神様第一の信仰が薄まると、次に物事の見方も偏ってきます。27節では、この土地が大変に良い地であり、その証拠として果物、二人がかりでかついで運ばなければならないほどに大きなブドウを見せています。ところが、それよりもその土地に住む人々が大きく強い、ということに目が向いてしまっているのです。そして、だんだんと、良い土地という面は消えていき、32節では嘘を言いふらすようになりました。否定的なことだけが大きく見えるようになり、バランスのとれた見方ができなくなってきたのです。33節でネフィリムという言葉がでてきます。これは創世記にでてくる伝説的な巨人族のことです。アナク人はその子孫だと言っているのですが、聖書の中にはそうとは書いていません。たしかにアナク人は背が高い人々だったようです。もしかしたら、あのゴリアテもその子孫かもしれません。でも背が高いと言っても10メートルもあるわけではありません。NBAの選手よりももう少し高い位です。それを彼らに比べたら自分たちはイナゴであるというのは明らかに大げさです。そしてアナク人はカナンの一部に過ぎません。でもそれが全体であるように言っている。そういったゆがんだ考えにすっかりとらわれるようになって行くのです。
人々がすっかり間違った考えに染まり、ついにエジプトに帰ろうと言い始めたのが14章の初めです。そのとき、偵察に行った12人の中の二人、ヨシュアとカレブが必死になって説得しようとします。彼らは人々に、かの地は素晴らしく良い土地であるという事実にもう一度目を向けさせようとします。そして、神様の御心にかなった姿勢で行くならば神様が助けて下さる、とみんなを説得しようとしたのです。ヨシュアとカレブは、イスラエルの中で最後の信仰の砦でした。ところがその二人を人々は石で撃ち殺そうとしたのです。わたしたちが不信仰にとらわれているときでも、心の中に信仰に向かわせる思いが残っています。ところがそれまでも否定しようとしたら、どうやって信仰を取り戻すことができるでしょうか。
新約聖書の中でキリストが「赦されない罪」ということを語っているところがでてきます。聖霊を汚す罪は決して赦されない、という言葉がでてきます。この「聖霊を汚す罪」というのがどういう意味かはいろいろな解釈があると思いますが、いつもわたしはここのところを説明するときに、「聖霊の語りかけを拒む罪」であると言っています。人間は最初から信仰を持っているのではありませんし、自分の中の罪を認めたくありません。そんな私たちが救われることができるのは。聖霊なる神が私たちの心の中に語りかけていて下さるからです。もちろん、不思議な声が聞こえてくるというよりも、心の中にわいてくる考えとしてだと思います。いろいろなひとの言葉や出来事を通して、信じようという気持ちが産声を上げます。そのときに、いやそんなことはないと言って常にそれを否定し続けるならば救われるチャンスさえなくなってしまいます。イエスの行った奇跡を目撃しながら彼が神から使わされたお方だと信じようとしないかたくなな律法学者やパリサイ人に対して、それが「赦されることのない罪だ」と言われたのが「聖霊を汚す罪」でした。
信仰に引き戻す声さえも抹殺しようとするならば、残るのは不信仰と罪だけです。もう手の施しようのない状態に人々がなってしまったときに神様が現れ、イスラエルの民を滅ぼすと言われました。これが40年間の放浪の罰を受けた原因なのです。人間はだれでも不信仰に陥ることがあります。クリスチャンであっても例外ではありません。しかし、そのときに信仰に引き戻してくれる周りの人の声や、自分の心の中に聞こえる声を忘れてはいけないのです。
2. とりなしによる救い (14:11〜19)
この不信仰の民を救ったのはモーセの必死の取りなしでした。神様と人の間に立って民の赦しを祈るのがとりなしです。じつはこのときだけでなく、エジプトを出て以来何度もモーセは民のためにとりなしをしました。彼自身も何度も人々に苦しめられいやな思いをしました。それでも神様にとりなし続けたのです。5節ではモーセは民の前でひれ伏したとあります。高慢な民と対照的な彼の謙遜の姿勢です。本当の謙遜とは自分を人よりも低くすることではありません。偽物の謙遜は見せかけです。だから、私の方が下です、いえ私の方がしたです、と謙遜を競い合ったり、なんて自分は謙遜なんだろうと高慢になったりします。モーセの謙遜は自分を苦しめる人々の救いを願う謙遜でした。伝道も謙遜が必要です。相手より上の立場に立っていては伝道はできません。私の方が真理をよく知っているというつもりでいては決して相手は心を開いてくれません。私も同じ人間です、だから一緒に神様の前に行きましょう、というのが伝道する者に不可欠な姿勢です。神様はこのようなモーセの取りなしの祈りの故に民を滅ぼし尽くさなかったのです。
モーセの取りなしは必死なだけではなく、理路整然としていました。彼は神様の言葉を理由にあげて語っています。神様がイスラエルをカナンの地に導くことを誓ったのであり、もしそうされなかったら神様の名誉に傷が付くこと、また神様はモーセや民にご自分のことを「恵み豊かな」神であると言われたこと。こういったことをあげて神様を説得しようとモーセはしました。とりなしは、そして救いは、人間の熱心によるのではなく、神様の御言葉が土台です。これは人に対して聖書の言葉に基づいて話をするということよりむしろ、自分自身の言動が御言葉に根ざしており、神様に対するときも自分がかってに作った神のイメージに対してではなく、聖書の語っているところの神様に対して信頼をもって祈ることです。モーセは神様が恵み深い、赦しの神であることを堅く信じていたので、確信をもって祈ることができたのです。
そして、取りなしは神の御心によるのです。旧約聖書を表面的に読むと神は恐ろしいお方、怒りの神であると感じるかもしれません。この14章でも、神様がカンカンに怒り、モーセがそれをなだめているかのように書いてあります。でも、本当は忍耐しておられるのは神様なのです。神様は不信仰で強情なイスラエルの民に忍耐なさっただけではありません。時にはモーセでさえも不信仰や不服従になることがありました。それでも神はモーセを用い続けたのです。本当は神様ご自身が忍耐と謙遜のお方なのです。ではその神様がなぜ最初から赦すというのではなく怒られたのか。それはモーセという人にとりなしをさせる為でした。神様は正しい方だから、罪を見過ごしにはできない。しかし同時に愛のお方だから人間を救いたい。そこで神様は間に立つ者、すなわち取りなしをする者をお立てになることで救いを達成しようとされたのです。そして、旧約聖書のなかではモーセや他の人物を通して、ご自分がやがてなさろうとしておられる救いの青写真を示されたのです。ですからモーセはやがて来られるキリストの「型」としての働きをするようにされたのです。神様は私たちにもとりなしの祈りをささげるように導かれます。それは、私たちの自分の生き方を通してキリストの姿を映し出す為です。キリストこそ本当のとりなし手として神と人の間に立って下さり、神からの罰を身に受けて下さったのです。だから、不信仰な私たちが救われることができたのです。
3. 従う人生へ (14:20〜15:41)
さて、神様のご計画はそこでとどまりません。罪をゆるすというのが日本的な表現で「水に流す」、つまりただ忘れてしまうだけなら、人間は必ずまた同じ罪に戻っていく存在ですから、もとに戻ってしまいます。神様は、救われた者が神様に従う人生をおくるように願っておられ、またそのように導いて下さるのです。
この神に従うということは、決して私たちの思い通りになることではありません。これが良いと思っても、神様の目から見たら間違っていることも少なくありません。御利益信仰とは神様を自分の思い通りに動かすことです。しかし、聖書の教える神様はそんなお方ではありません。神様のほうが、何が正しいか、どうすることが良いのかの基準を持っておられるのです。モーセの祈りに答えて神様はイスラエルを直ちに滅ぼすことはなさりませんでした。しかし、神様の下された判断は厳粛なものでした。それは二つのことを言っています。一つ目にはイスラエルの大人たちにはカナンの地に入らせない。ただし勇気と信仰によって神に従い通したヨシュアとカレブは例外です。人々は10度も神様に背いた民を罰しなさいました。しかし、二つ目に言われたのは、彼らの子供たちは40年後にカナンの地に入ることができる。これによって神様は神様の正しさ、聖さを示されると共に、アブラハムの子孫にこの地を与えるという約束を守られたのです。また、人々にとっては、たしかに40年間の放浪は罰ですが、同時にこの40年間の間、神様と常に共に歩むという生き方をさせていただいた。そういう意味では救いでもあったのです。神様のなさることは本当に正しいのです。冷たい正しさではなく、愛と義にみちた正しさです。ですから、たとえ神様の命令が厳しいように見えても、従うことが最善なのです。時には自分の願いと違うことがあるかもしれません。それでも神に従う生き方、それが本当の祝福なのです。
しかし、従うときにさえ罪が働くことがあります。39節で、モーセが神様の決定を人々に語ったとき、人々は悲しみ、そして「神様の言われたカナンの地に上って行こう」と言い始めました。これは本当の悔い改めではありません。「主が言われたところ」と言っていますが、従っているのでもありません。彼らはあくまで自分の利益のために動いているのです。誰でも、従うことに失敗することがあります。そのときに、それを悔い改め、もう一度従う決心をするならば神様は必ず正しい道を示して下さいます。イスラエルの民は間違った従い方してしまいました。でも、誰が間違わないことがありましょう。私たちだって、神様の御心に従うつもりでいながら、実は自分の願い通りに行きようとすることがないでしょうか。自分の考えを神様の御旨であると錯覚することが、絶対にないといえるでしょうか。
唯一、それを防ぐ道は、御言葉です。15章では、なんだか突然のように法律がでてきます。民数記を一つのストーリーとして読んできますと、ここのところで前後と無関係に法律が書かれているように見えます。実は、民数記は荒れ野の旅と同時進行に書かれたのではなく、第一世代が滅び旅が終わったときに、これからカナンの地に入ろうとしている第二世代の人々に対して書かれたものです。「あなた達の先祖は不信仰によって滅んだ。あなたたちも同じ過ちを繰り返さないように、神様のおっしゃることをよく守りなさい」というのが、ここに法律のでてくる理由です。15章の最後には、着る服の裾に房をつけるように書いてあります。これはお洒落のためではなく、この房を見るときに神様の言葉を思い出して間違った従い方、あるいは自分の欲望に従って生きることをしないように、という意味です。神の言葉によってのみ、私たちは正しく御心を知ることができます。従う気持ちがあっても、間違ってしまう、そんな私たちにとって御言葉こそが道しるべとなるのです。もちろん、聖書を読むときでさえ罪と不信仰が働いてしまうものです。でも、大切なのは、この聖書の言葉を神からの言葉として受け止めることです。
まとめ. 昔の人は、知識や学問からいうならば、間違った部分が多くありました。しかし、聖書を神様の言葉として受け止めることについては真剣でした。ですから、たとえ間違いを犯しても、やがて聖書全体からその間違いが正されていくのです。現代の私たちは、新しい知識をたくさん持っているでしょう。セミナリーで学んだり、いろいろな本で学べば、学問的に正しい解釈法を身につけることができるでしょう。しかし、どんなに聖書を学んでも、それを神の言葉として受け止めないならば、何にもなりません。御言葉の前に心からひれ伏し、神からの声としてそれに聞き、聞いただけで終わるのでわなく、それに従う。そのときに神様の与えようとしておられる祝福の道を進むことができるのです。