20001年6月24日 「滅びから命へ」エペソ4:17−32
序.今日はこの礼拝の後で洗礼式が行われます。すでに教会の交わりの中で歩んでこられた兄弟姉妹が、正式に教会の一員となられるのは、本当に感謝な事です。また、洗礼式を見るたびに、すでにクリスチャンとなった方たちは、自分の救いがどういうことなのかを再確認することができます。今日の洗礼式は英語部のサンクチュアリーの洗礼槽を使って行います。洗礼の行い方は3種類ありますが、洗礼の意味は全身を水に浸らせる形に最もはっきりと洗わされています。それは、一度水の中に沈むことで、古い生き方に死に、水から上がる時に、新しい生き方、キリストの復活の命に生きることです。神様から離れ、罪の中に生きていた古い、滅びに至る人生から、キリストによって救われ、新しい命によって生きる人生に移されたのです。今朝は、この「滅びから命に移された」ということを聖書からもう一度学び、洗礼式に備えたいと思います。今日洗礼を受ける方も、またすでに受けられた方々も、聖書を通して共に考えたいと思います。
 さて、先週はエペソ書4章の前半から教会が一つであることについて学びました。キリストの体として堅く結びつけられて教会は成長しますし、またそこに連なるクリスチャン一人一人も成長して行き、頭であるキリストに似たものにされていく。それなのに、救われた者があるべきでない生き方をしていたら、成長どころか病気になってしまいます。そこでクリスチャンはどのように生きていくのかを教えているのが4章の後半以降です。ですから、今日洗礼を受ける方たちだけでなく、全てのクリスチャンが心しなければならないことがここに書かれているわけです。今日開く箇所は、その中でも私たちが古い人生から新しい人生に移されたことを教えています。このことを三つの面から考えたいと思います。第一に、古い生き方とは何か、と言うこと。第二は、私たちを造り変えるイエスキリストについて、最後に新しい生き方について見ていきます。

1.古い生き方(17−19節)
 救われる以前の生き方をパウロは、「空しい心で歩んでいる」と表現しています。具体的には、異邦人の生き方を18節と19節で描いています。それは、まず、「知性において暗くなり、彼らの内にある無知と、かたくなな心」、つまり聖書もキリストも、そして神様も知らないことが原因です。そのため、「神のいのちから遠く離れてい」る。神様から離れた状態が罪ですが、それが外に出てきたのが具体的な罪の行いです。まず、「道徳的に無感覚」、これは罪の痛みを感じない姿です。最初は罪を犯して良心が痛む。でも、やがて平気で悪いことができるようになり、ついには罪を犯していることが当たり前、気が付きもしなくなる。これが罪によって心が麻痺していく姿です。そして、ここでは特に「好色」とか「不潔な行い」と、主に性的な罪について書かれています。もちろん、他にも様々な罪の行いがあります。後でそのことも出てきますが、ここで特に性的な罪について書かれているのは、罪に染まりきった社会の特徴が性的な乱れだからです。
 さて、ここを読むと、自分はそんなにひどくない、とか、パウロも異邦人のことを、えらくひどい言い方をしているな、などと思われるかも知れません。やはりパウロもユダヤ人だから異邦人を見下していたのか、と考える必要はありません。この手紙は主に異邦人であったエペソの教会の人々に書かれた者です。もし相手がユダヤ人であったら、もっと厳しいことをパウロは語ったと思います。「異邦人は神様を知らなかったために罪を犯しているが、ユダヤ人は神様を知っているのにも関わらず、罪の中に生きている」と言うのではないかと思います。また、異邦人であっても、(私たちもユダヤ人から言うならば異邦人ですが)救われる前であっても、正しい生き方をしている人もいるかも知れません。でも、救われて聖書の言葉によって光が照らされると、実はその人の中にも罪があることが分かってくる。パウロは決して言い過ぎているのではないのです。
 救われる前の人生がなぜ空しいのか。それは性的な罪に代表される様々な間違った行いをしているからか。もちろん、罪の世においてもてはやされることには空しいことがあります。でも、むなしさの本当の理由は、神様の命から離れていることです。神様が下さる永遠の命を持たないで生きているなら、例えその人が自分の目には正しいと思える生き方をしても、また自分の願うことをできたとしても、その最後に滅びが待っている。どんな人にも必ず死ぬ時が来ます。そのときに永遠の命を持っていないなら、その死は永遠の滅びになってしまうのです。だとすると、どれほど努力をしても、すべてが無駄になってしまう、それが空しい人生だ、とパウロは言っているのです。
 どうしたら、この空しい生き方から救われるのか。それが次にお話しする事です。

2.キリストの真理(20−21節)
 ここに書かれているのはキリストです。20節では「キリストの事を、学んだ」という表現を使っていますが、実は「キリストを学んだ」と書かれています。キリストのことを学ぶ、と、キリストを学ぶ、とは大きな違いがあると思います。キリストがどこで生まれ、どのような事を行い、何を教え、どのように死に、また復活したか。これらは「キリストの事」です。キリストに関する情報です。それを学ぶのももちろん大切ですが、それだけでは不十分です。例えばキリストについて勉強して、それを覚えて、テストで満点をとっても、それでクリスチャンになるのではありません。もしかしたら、テストをしたら、今でも不合格かも知れません。では、どうして救われるのか、それは知識よりも信仰によるのです。正しい信仰のためには正しい知識も大切です。でも、無くてはならないのは信仰です。その信仰はどこから来るのでしょう。
 人間でも、相手に対する信頼は、決して相手の素性を調べただけでは生まれません。むしろ、例え相手の全ては知らなくても、その人と一緒に過ごす中で自然とその人が信頼するようになるのです。キリストに対する信仰もイエス・キリストを個人的に知る、言い方を変えると、キリストと出会うことから生まれるのです。イエス様が地上での生涯を送られた間に、沢山の人がイエス様を見、またその話を聞きました。でも、見て聞いただけで終わってしまったらいけない。このお方こそ自分の救い主である、そのような出会いかたをする必要があるのです。また、イエス様が復活後、天に帰られてからは、直接にイエス様を見た人はほとんどいません。でも、キリストこそ自分の救い主だ、と知った、そして信じた人は多くいます。これがキリストを知る、キリストを学ぶことです。
 誰もが空しい人生を歩んでいます。しかし、クリスチャンに出会い、教会に来るようになり、やがてイエスキリストを個人的に知るようになった時から、新しい人生が始まるのです。この新しい人生について最後に見ていきます。

3.新しい生き方(22−32節)
 古い人生から新しい人生に移ることを、パウロは面白い表現で語っています。それは「脱ぐ」と「着る」です。古い服を脱いで新しい服を着る、そのように古い人を脱ぎ、新しい人を着る、と書かれています。服と言うよりも、「着ぐるみ」かも知れません。
 ウルトラマン。たぶん、多くの方がご存じだと思います。また新しいシリーズが始まりそうです。私も子供の頃に見ていました。初代ウルトラマンです。ウルトラQも見ました。これを言うと年齢が分かります。子供の頃は、すごいなー、と思ったものです。でも、だんだんと大人になる、冷めてくる。すると気が付かない方が良いことに気が付くようになるわけです。なんでウルトラマンは手袋をしているのだろう。背中にジッパーが見えたりします。もちろん、あれは誰かがウルトラマンの皮(皮っていうのは変ですね、着ぐるみです)を来てウルトラマンになるわけで、またあれを脱ぐと人間に戻る。パウロは私たちに、古い人を脱ぎ捨てなさい、そして新しい人を着なさい、と勧めているのです。
 ところが、ここで注意しなければならないのは、着ぐるみと違って、人間の皮は脱いだり着たりできない。もちろん、ここで語られているのは比喩です。だから、古い生き方を捨てて新しい生き方を始める、と言うことです。でも、言うはやすし、です。実際に新しい生き方をしようとしてもなかなかできないのです。
 25節以降に古い生き方と新しい生き方をより具体的に説明してます。今日はその一つ一つを詳しく見ることはしません。帰られてから一つ一つ、ご自分に当てはめてください。ざっと説明すると、25節、キリストの体である教会の中で、自分をよく見せるために偽りを語るのではなく、真実を語る。26節と27節。怒ることはあるでしょう。でも、その怒りに囚われていると悪魔が働く機会になります。28節は泥棒を戒めるというより、不正に他者から利益を巻き上げるのではなく、正当な働きによって利益を生み出し、それを他者のために用いる。29節、30節。私たちはどんなことを語っているでしょう。人の事を傷つけるような事、空しい事、すなわち、私たちの内に住んでいてくださる聖霊を悲しませるような事を語っていないか。むしろ、人を生かす言葉、徳を養う事を語りたいものです。そして、まとめとして31節、32節。
 ここに書かれているのは一部にすぎません。他にも古い人、新しい人の事を聖書の色々なところで見ることができます。でも、私たちは、古い人を脱ぐのがなんと難しいことでしょう。いけないと分かっていながらやめられない。してしまってから、あれはいけなかったと悔やむ。そして、するべきことができない。少なくとも神様の基準から見るならば誰もが失格でしょう。何故できないか。それは、自分の力で脱いだり着たりしようとするからです。
 日本語訳では、口語訳では「脱ぎ捨て、着るべきである」、新改訳でも「脱ぎ捨てるべきこと、着るべきこと」と訳され、一種の命令のように読めます。ここでパウロが語っているのは、ちょっと違った意味です。21節の終わりで、キリストの真理、と言う言葉が出てきます。22節から24節は、この真理とは何かを語っているものです。真理とは、「古い人を脱いだこと」、「新しい人を着たこと」なのです。キリストを信じたときに、もうすでに古い人を脱いで、新しい人を着たのです。キリストにおいてもうなされたことなのです。洗礼式はそれを象徴しています。私たちの内の古い人はキリストと共に死んだのです。私たちはキリストの復活の命をすでに戴いているのです。
 それなのに古い服を後生大事にとっておく、古い飾り物を使ったりする。それを神さまから示されたときは、大胆にそれを捨てたい。実際に捨てるのは難しいかも知れませんが、助けていただいてそれを捨てる決意をしなければいつまでも捨てることができない。また、新しい人を着ていることを気が付かされ、新しい生き方を求めていくのです。誰がそれを助けてくださるかと言うなら、それは私たちの内にいてくださる聖霊です。私たちの心を内側から造り変えることができるのは聖霊様です。聖霊が語られる聖書の御言葉に従い、聖霊が見せてくださるキリストに目を向ける時に、キリストの姿を着せて戴く、それが24節の「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された新しい人」なのです。
 ウルトラマンの姿をしているのに、それを忘れて人間の動きをしたら変です。私たちはクリスチャンとなったときからもう新しい人を着せていただいている。だから常にキリストを知り、キリストに似たものとなることを追い求めて行くのです。

まとめ. 洗礼を受けて何年も立つと、そのときの感激や決心を忘れてしまうことがあります。今日の聖霊式を通して、もう一度、新しくされたことを確認したいと思います。今日洗礼を受けられる方たちのことを感謝すると同時に、どうぞお一人お一人が、自分自身もすでに新しくされていることを確認する時であって欲しいと思います。そして新しい生き方を聖霊に助けていただきながら歩んで行きましょう。