2000年6月18日

「愛とご利益」 コロサイ人への手紙、1章9節〜17節、

今日の聖書箇所を御一緒に見てゆくにあたって、まず最初に、一つ,皆さんに、お聞きしたい事があります。
ここにいらっしゃる皆さんの中で、いままでに、一生懸命祈って、それが神様に聞かれて、「かなった。」という経験を、お持ちの方いらっしゃるでしょうか。
いらっしゃれば、ちょっと手を上げてみて下さいますでしょうか?
実際、事の大小に関わらず、あると思うんですね。

その時、皆さんは、どう思われたでしょうか? 
やっぱり、祈った甲斐があった。とか、いや、偶然かも知れないとか・・・・・
まず、それを、ちょっと心に留めて置いて頂きたいのです。

さて、まずは、今日の聖書箇所の背景事情を見ておきましょう。
この手紙は、パウロがコロサイの教会にむけて書いたものですが、
この時、パウロは牢につながれていました。
4章の18節には、「獄につながれている事を、覚えてほしい。」と記されていて、
その場所については明確ではないのですが、おそらくローマであったと考えられています。
これは、いわゆる「獄中書簡」と言われるものの一つなのです。
さて、この獄中の期間に、パウロを一人の訪問者が訪ねてきます。
それが、一章の7節、8節にあるように、エパフラスと言う人物なのです。
「牢につながれている」と言いますと、私たちは、鉄格子の狭い部屋に閉じこめられていると言うイメージを持つのですが、ローマ市民であった彼の扱いは、かなり寛大で、
普通の家の中で、ただ監視付きの生活であったと言われています。
ですから、人の出入りも自由で、他のキリスト者の訪問もあったのですが、
このエパフラスの訪問によってもたらされた報告を聞き、パウロはコロサイ教会へ手紙を書く必要を感じたようです。
その背景には、コロサイの教会に見られた一種の異端思想があった様です。
それは、異邦人社会の中で多くの宗教観に影響されたキリスト観で、
キリストの唯一絶対性とか、キリストの神性に影響を与えていた物のようです。
このような異邦社会の影響を受けてしまうと言う点では、日本人のキリスト教観も似たような所が在るのではないかと思われます。

聖書箇所は、9節から17節までを読んでいただいたのですが、一節一節、深いメッセージを持つところと思いますが、中心部分は、12節、16節であろうと、思います。

区分としては、9節から12節までが、パウロの祈りの部分で、13節から17節(実際は23節までが一つの区分となっておりますが)までが、パウロのキリスト論の展開となっているところです。
本来この箇所は、この手紙の中心的なメッセージの部分で、1章全体、そして、手紙全体を考えながら見てゆくべき所だと思いますが。
今日、ここの部分のメッセージから御一緒に考えて行きたいのは、
「愛とご利益」と言う問題です。
実際、キリスト者の中でも、日本人、まあ、アメリカに来てから、最近は、日本人ばかりではないなと思うようになりましたが、キリスト者の中にも、例えば、一生懸命信仰生活をすれば善い事があるのではないか、と考えている人がいるのではないかと思うのです。
言い換えれば、信仰生活と恵みと言う事になりますが、
この問題を考えて行くとき、前提となる基本的考え方が必要になります。
それは、本来、在るべき神人関係はどうなっていたかと言う事であり、実際それが、今日の聖書箇所の中心的メッセージとなっているのです。
今日は、特に13節以下に注目して見てゆきたいと思います。
13節14節は、これからパウロが語ろうとするメッセージの前提として、
私たちが、今、キリスト者としてどういう状態にあるかと言う事を、まず、
明言し、確認したものと考えられます。
13節14節、「・・・・・・・・・・・・・・」
それは、12節で言われている、「聖徒たちの特権にあずかるに足る者」の
「特権」の内容を具体的に説明したものです。
口語訳聖書では、「聖徒たちの特権」と訳されていますが、新改訳その他の訳では、「聖徒の相続分」、新共同訳では「聖なる者たちの相続分」となっており、
この「相続分」と言う考え方は、旧約時代からあったものなのですが、ギリシャ語の本来的な意味で言うならば、約束のものが与えられる、と言う意味を持ったクレーロンと言う言葉です。
その与えられるはずの約束の物とは、即ち、
13節「やみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださった。」と言うこと、そして、さらにそれを具体的に説明した物として14節「この御子によって贖い、すなわち、罪のゆるしを受けている」と言うことです。

13節の「やみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださった。」と言う、言葉の中には、まず、現在の私達は、キリストの支配下にあるのだという事が前提として言われているのです。
これは現代に生きるキリスト者としては、もしかすると当たり前の事を言っているように聞こえるかもしれません。
しかし、当時、今までは、神との直接的な関係の中に置かれていた、ユダヤの人々に取っては、大変な事であったはずなのです。
自分と神様との関係が、変わったと言うのですから、しかもパウロは、ここで非常に特殊なギリシャ語、(メテステーセンと言う言葉)を使って支配が「移った」と言っているのです。
この言葉は、大変な戦いの結果何かが変化すると言うような意味を持っており、この支配が簡単に変わった訳では無い事を示唆しております。
つまり、キリストの十字架の苦難、と神の痛みを意味しているわけですが。
その内容を、さらに具体的に示したのが、14節で、
そこには、二つの事が書かれています。
まず「この御子によって贖い、すなわち、罪のゆるしを受けている」この言葉を、
ギリシャ語から見てみると、「贖いを受けているのである。」と言う状態がまず、最初に、言われており強調されている事が分かりますし、それは、即ち罪の許しであると言う事が言われています。
つまり、簡単に言えば、私達がキリストの支配下におかれていると言う事の一つは、罪のあがないを受けている、と言という事であるとパウロは言うのです。
キリストが私達のために十字架に架かって下さった、とはそういう意味ですね。
では、皆さんに質問ですが、それまで、直接神の支配下に置かれていた旧約の時代に置ける、罪のあがないとは、何であったでしょうか?
旧約聖書の時代、人はどうすれば救われていたのでしょうか?
キリストの十字架の無かった旧約の時代の人々は、どうすれば救われたのでしょうか。
どうすれば、神の前に善とされたのでしょうか?

律法を守る事と、守りきれないで犯してしまった罪をあがなってもらうための
神殿におけるいけにえだったのです。

神殿におけるいけにえとは、自分の罪の身代わりに、動物を犠牲に捧げる事です。
この考え方は、旧約時代の神様と自分の関係を考える上で非常に大事な事なのです。
旧約時代は、行為義認、つまり、律法を守る事が求められた。 
しかし、それが不完全であったために、いけにえが必要だった、と言う事です。
人間は限界をもつ存在です。 律法なんて守り切れないのです。
以前、お会いしたユダヤ教のラバイ、ラビのお話しですと、現在、細かく分けると、約15000もの守るべきルールがあるそうです。

それが、新約の時代になると、つまり、キリストの十字架以降では、ただキリストを自分の救い主として信じるだけで、罪が無かった事と認められると言うのですから。
しかも、ここで使われている「罪の許し」と言うギリシャ語は聖書中二回しか使われていない限定的意味を持った言葉で、過去、現在、未来にわたって全ての罪が許されると言う意味を含んだ言葉なのです。
キリストの十字架による罪の贖いは、
一回だけの、今までだけの罪の許しを意味しているわけではないのです。
今までの過去の罪も、今日の罪も、そして、なんと、
これから犯すであろう、未来の罪の許しをも含んでいると言うのです。
ですから、実際、キリスト教において一個人に与えられる罪のあがないは一回限りで十分であり、何度もそれを求める必要は無いのです。
プロテスタントにおいて、個人に与えられる、イエスキリストによる罪のあがないは、
一度限りで十分なのです。 つまり、洗礼式は一度だけでよいと言う事です。
つまり、完全に一方的神様からの、恵みとしての義認を主張しているのです。
これを完全恩賜といいますが、

もう20年も前の事ですが、日本で私の知っている在る方に、
今まで何度も教会を変わっている方がおられました。
ある、会社の社長さんでしたが、
その度に、洗礼式を受け、今までに5回も洗礼を受けられたと言うのです。
そのかたは、教会に多額の献金をし、
教会を変わる事に、色々と熱心に、教会の奉仕をするのですが、、、
いくら熱心に奉仕をしても、満たされ無い、
何度も、許してもらわなければ救われたような気がしないと言うのです。
自分に与えられている、イエスキリストによる罪のあがないの確信がないのです。
そういう方がおられました。

旧約時代は、それぞれ一回一回の罪の許しに、それぞれのいけにえが必要であった事に比べると、何という恵みの時代に私達は生きているのでしょうか。
このような、状態に私達は置かれているのだと言う事を前提として、
パウロは、それを確認して置いて以下純粋なキリスト観を宣べてゆきます。

15節「・・・・・・・・・・・・・・」
"御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生まれたかたである。"
ここでは、創造におけるキリスト論が語られているのですが、
まず、パウロはキリストが神の性質を持つことを明確にします。

ヨハネによる福音書、1章18節では、「神を見た者は、まだ一人もいない。
ただ父のふところにいるひとりごなる神だけが、神をあらわしたのである。」とまた、
同じく14章9節では、「私を見た者は、父を見たのである。」と、
キリストは見える神の形であることを言うのです。
実は、キリストを通して、見えない神のかたちを見る事が出来ると言う事です。
そして、そのかたちは、神の属性を持って居ると言います。
つまり、これは被造物、造られたものではないと言うことなのです。 と言うことは、
全ての造られたものに先立って、存在していたと結論づける事が出来るわけです。
注意深くこの箇所を見ると、パウロはここで、「すべての造られたものに先だって生まれたかたである。」と言っており、「すべての造られたものに先だって造られたのである。」とは言っていない事に気付くのです。
「造られた」とは決して言っていないのです。
一カ所聖書を開けてみましょう、へブル人への手紙1章2節、「神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」、
御子によって、もろもろの世界を造られた、と言うことは、キリストは創造主であり被造物ではないと言うことを意味しているのです。
みなさんは、何をいまさら当たり前の事を、と思われるかもしれませんが、
これは、神と人間との関係を見て行くとき非常に大事な事で、ここには今私達が見ようとしている、私達に対する神の姿勢を知る手がかりがあると言えるのです。
実際問題、多くの異端の教会はこの部分を否定するのです。
イエス・キリストは神の子ではないと否定するのです。

16節「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
"万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。"
この御言葉の前半は、キリストが創造主であり、全てのもの、万物が造られたと宣言することによって、キリストはその造られた万物には含まれないのだと言うことを明言しています。
もしも、キリストは神か、それとも単なる人かと言う疑問が発せられるとすれば、
事実、コロサイの教会にはそれを疑問に思う人々がいたのですが。
そして、これは、我々自身に対する信仰のチャレンジでもあるのですが、
あなたは、どのように答えられるでしょうか。

ここでパウロが言っている論拠にもとづき、キリストは被造物ではない。
即ち、神が、神の属性の一つとして我々に見える形をとったものである、完全に人間であり完全に神であると言わなければならないのです。
これを、二性一人格といいますが。
その前提の上で
さて、この16節後半にはもう一つ大変重要なメッセージがあるのです。
異邦人社会、とりわけ、異教の宗教的影響を受けている社会では、日本も全く
そうであると思いますが、神に対して大きな誤解をしがちです。
この部分は、慎重な言葉遣いをすべきところなのですが、日本のキリスト者も、大なり小なり、その影響を受けていると思われるのですが、 それは、
人間のために、神様は存在してくださるのだ。と言う誤解です。
神様のおかげ、とか、苦しいときの神頼み、守り神、と言った考え方でわかるように人間にとっての神存在なのです。
しかし、ここでは明確に「これらいっさいのものは(もちろん人間も含むのですが)御子のために造られたのである。」と言われているのです。
いま日本には多くの新興宗教がありますが、その殆どの宗教の「売り」の部分は「御利益」だと言われています。
これは非常に危険な思想なのです。
何かを一生懸命すれば、御利益があると言う考え方は、キリスト教においては、先ほど言いましたように旧約時代の律法主義、行為義認主義、つまり、一生懸命、律法を守れば、人は救われるのだ。と言う考え方です。
一生懸命、律法を守れば、励めば、罪が許される、救われる、天国へ行ける。と言う思想です。
これは、現代のキリスト教会にもある危険な考え方なのです。
この考えを押し進めて行くと。
つまり、一方的恵みを与えて下さるキリストが必要なくなってしまうのです。
実際、コロサイの教会にもこの思想は入り込んでいたわけですが。
しかし、パウロはこれを完全に否定し、事実は逆である。
実は、「人」が「神」のために存在するのだ。と真実を突きつけるのです。
イギリスの聖書学者、バークレイは、この部分を以下のように言っています。「被造物は御子のものとなり、御子に栄光を帰するために造られた。創造は御子によってなされ、造られたものはついに御子のものとなり、御子に対する礼拝と御子を愛する愛の内に、御子が御自身の栄誉と喜びを見い出すために造られた。世界は一切のものがイエス・キリストのものとなるために造られたのである。」

最初にお聞きしましたが
例えば、私たちは人間の都合で何かを願って一生懸命祈ったりする事がないでしょうか。
一生懸命祈れば祈っただけ、何かがかなえられると思ったりしないでしょうか。
あるいは、何かがかなえられなかったとき、つい私達は、祈りが足りなかったのではないか、などと言ってしまいがちですが、これらは、みんな人間の側に視点がある事に気付くのです。
しかし、祈りが成就すると言う事は、まず、第一義的にイエス・キリストの為であるかどうかと言う事が問われていると言う事です。
もっと分かりやすく言えば、その祈りの内容は神の御心に合っているかどうかと言う事が問題なのです。
つまり、御心にかなった祈りだからこそ成る、と、言えるのです。
これは完全に御利益信仰を否定するものです。
御心だからこそ、一方的恵みとして、祈りの内容が成就するわけです。
13節14節でもちょっと触れましたが、我々は行為義認から解放され、一方的恵みのゆえに、救われていると言う大前提があるわけで、
ゆえに、全ての面に置いてイエス・キリストの恵みの中で生きている事を知るのです。
事実、私達の祈りは、イエス・キリストの恵みによって、神に仲介されている事を私達は、知っています。
私達は、イエス・キリストの御名によって、神に祈っている事をお気付きでしょうか?
あくまで祈りの対象は神ですが、イエス・キリストが、その十字架以降、絶対的正義である神と、罪許された罪人である、しかし罪を持ち続けている人間の仲補者となって、私達の祈りを取り次いで下さっているのです。
旧約の時代は、人々は直接神に祈っているわけで、祈りという行為そのものが、神の前に正しいかどうかと言う事が人間に問われた訳ですが、今の恵みの時代、祈りはキリストによって仲介されているのです。
「イエスキリストの御名によって祈ります。」と、祈りの最後に私達がつけ加えるのはその様な意味があるわけです。
(一つだけ例外がありますが、主の祈りでは、私達が、最後に、主の御名によって祈らないのは何故でしょうか。  
これは私達の祈りではなく、唯一イエス様が私達に教えられた、主の祈りだからです。)
さて、17節「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
"彼は、万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。"
御子である、キリスト・イエスが万物よりも先にあるという事は今までにも宣べられてきたことです。
問題は、「万物は彼にあって成り立っている。」と言うことでありここに注目していただきたいのですが、「成り立っている。」と言う言葉は、ギリシャ語でも現在形で書かれてあり、つまり、今現在も「万物は彼にあって成り立っている。」と言う事を意味しています。
万物は、御子によって造られ、御子のために造られたばかりでなく、今に至るまで御子によって、保たれていると言うことがわかるのです。
これは、何を意味しているのでしょうか。
つまり、今もキリストは生きて働いておられるということなのです。
万物、ここには人間も含むわけですが、その関係を、今もキリストは保持している、言い換えるならば、恵みを与え続けていると、ここで聖書は保障するわけです。
ご利益主義ではなく、一方的恵みを、今も神は私達に与え続けていて下さると言うのです。

では、最後にもっとも根本的な質問をいたします。
なぜ、神様は私達に、一方的恵みを、与え続けていて下さるのでしょうか?

ただ、私達を愛していて下さるからです。 神は愛だからです。

一方的に、この様な人間である私達を愛して下さっているからこそ、恵みを与え続けて下さるのです。
それを本当に理解しているならば、キリスト教がご利益主義などからは、かけ離れた物である事が明かとなるのです。
あなたを、無条件に愛していて下さる方の前で、ご利益主義など必要ないのです。
何かを一生懸命しただけ、認められると言うような、神様と人間との関係では無いのです。
私達は本当に、一人一人、神様に愛されている存在なのです。

先に、何度も教会を変わり、何度も洗礼を受けた人の例を申し上げましたが、
彼には、自分が無条件に、愛されていると言う確信がなかったのです。
教会を変わる事に、今度こそはと、沢山の献金をし、犠牲的に奉仕をしました。
なにか、自分がしなければならない、その見返りとして恵みをもらう、と言う考え方があったからです。
ですから、彼は満たされなかった、いくら自分が何かしても、その見返りとして赦されると言う事に切りがなかったわけです。
こんな自分でも愛されていると言う確信がもてなかったのです。
そのうち、バブルの影響で彼の会社は、潰れてしまい、とうとう彼は何もなくなってしまったのです。
一生懸命、教会に励んだのに、自分の会社が潰れてしまった。
彼は、ショックだったのです。 こんなに、神様に教会に尽くしたのに、と。
彼は、何もかもなくしてしまい、どん底の生活に陥りました。
会社が潰れただけではなく、借金を負い、家族はバラバラになってしまいました。
しかし、そこで始めて、彼は気が付いたのです。
何もない、こんな私そのものをも主はなおかつ無条件に愛しておられる。
私が、何かをするから愛して下さるのでもなければ、罪を赦して下さるのでもない。
ただただ、自分が、無条件に愛されている事に気付いたのです。
お金が無くなり、人は私を見捨て、家族も去って行ってしまった。
何も無くなった、私を誰も省みてくれなくなった。
しかし、それでも、神様は私を愛し、こんな私の為に、キリストを十字架にかけてくださった、そして、今も私に、愛を注いでくださっいる、と言う事に気付いた。と彼は言いました。
そして、彼は、今度こそ本当に、もう一度洗礼を受けて、その教会に落ち着いたのです。

例え、私達がどんな存在であっても、私達はそのまま、愛されているのです。
そこには、感謝こそ在れ、何かと引換のご利益など存在しないのです。
神の愛の前に、ご利益など、存在しないのです。
祈ります。