2000年6月17日「教会の一体性(ひとつであること)」エペソ4:1ー16
序.教会というのはとても面白いところです。実に色々な人がいます。職業も年齢も、出身地も、クリスチャンであるという事を除けばもしかしたら何の関わりも無かったかも知れない、それほど異なる人が一緒にいるのです。そして、その異なる人々が家族のようになることができる。それが教会です。
 さて、今朝はこの教会ということについてエペソ書の4章から学びたいと思います。エペソ書全体のテーマが教会ですが、その中でもこの箇所は、教会が一つであることを教えていることです。色々な人々がいるのですから、教会はバラバラになる危険性があります。どうしたら教会が一つであることができるか、ということを考えたいと思います。
 この4章で教会がひとつである、と言うときに、それは特にキリストの体として一つであることを意味します。ですから「一体性」という言葉を使っても良いかも知れません。(英語では何というのか分かりませんが、どんな言葉を使うにしても、「体として一つである」という意味で今日のお話を進めたいと思います。)
 いつものように三つに分けて話します。まず、どうしたら一体となることができるか、一体性の源泉と言うことです。第二にどのような一体性なのか、ということを多様性いう言葉を用いて考えます。最後に何のための一体性のか、一体性の目的、あるいは教会の目指すところをみたいと思います。

1.一体性の源泉(1−6節)
 一体という言葉と似ているものに、一致ということがあります。教会に限らず、どんな集団でも、あるいは組織でも、一致と言うことを大事にします。時には一致するためには一部の人を犠牲にしたり、強制をしたりすることもあります。教会でも気をつけないとそのような事をしてしまうことがあります。そのような間違いを犯さないで一体となるためにはどうしたらよいのでしょうか。
 1節でパウロは「召し」という言葉を使っています。もちろん、これは救いを言うことを意味しています。私たちが救われたのは、自分が神様を信じたから救われたと言うのではなく、実は神様の方から私たちを招いてくださり、罪の世の中から選び出してくださった。それが「召し」と言うことです。
 例えば、オリンピックの選手たちは、一面では自分で試合に勝ち抜いて選手となったのですが、同時に委員会によって選ばれたという面もあります。選ばれた者として相応しくない事をしたら選手資格を剥奪されてしまうこともあります。例えば、ドラッグを使ったり、といった場合です。召された者は召されたことに相応しくあらなければなりません。
 クリスチャンは、救われた者として相応しい者でなければなりません。それは立派になるということではない。2節を見ましょう。ここに出てくる事は、実は私たちが神様からしていただいたものなのです。謙遜、それは神様の方から下りてきてくださって、私たちを救ってくださった事です。ですから、そのように救われた者として、自分も人に対して謙らなかったら、キリストの行為を踏みにじることになります。「忍び合いなさい」と2節の終わりにあります。救われても尚、神様の御旨を悲しませるような事をしている私たちを、神様はどれほど忍んでくださっているか。その忍耐と寛容と柔和をもってお互いを受け入れ合うのです。そのような教会には誰かを犠牲にして、あるいは強制して一致する、ということはあり得ないわけです。愛と忍耐によって一つとなるのです。その愛や忍耐はどこから来るか、というと、それは神様が源泉です。そしてキリストの救いの十字架を思うときに私たちの内にも愛と忍耐と謙遜が与えられるのです。
 そして、一致は私たちの内におられる聖霊がしてくださる事です。4節からは一つであることを様々な事で示しているのですが、どれもが三位一体の神様が源泉となった「一つ」です。教会はキリストの体なのだから、一つなのです。私たちの内にいてくださる聖霊は一人のお方だから、その方によって一体となるのです。救われた者に与えられる望みとは、天国に行ったときに、全ての者たちがキリストにあって一つとなる、と言うこと、これは1章から続けて書かれてきたこと希望です。キリストはお一人、このお方を主として仰ぐのだから教会も一つなのです。信仰、その細かい点には違いがあるように見えますが、信仰の本質である、イエス・キリストに対する信頼という点では同じです。バプテスマも、父と子と聖霊の名によってなされるのですから、場所や時間、あるいはやり方が違っていても一つなのです。父なる神様に関しては、もう説明しなくても十分でしょう。
 人間が自分の力で一致をもたらそうとするときに様々な問題が生じます。一人の人の考えと権力で一致させようとするなら、専制君主になります。一部の人たちがそれをするなら、考えの合わない人たちをはじき出してしまいます。そうではなく、自分も愛と憐れみによって救っていただいたことを忘れずに、お互いを受け入れ合うならば、聖霊が私たちを一体としてくださる、それが教会の一体性なのです。

2.一体性と多様性(7−13節)
 聖霊が与えてくださる一体性というのは、私たちが普通考える一致とは少し違うかもしれません。みんなで一致して、カレーを食べようといったときに、誰か一人がステーキを食べたいと言ったら、白い目で見てしまいます。何から何まで同じでなければ一致が壊れるように思う人もいます。日本は特にそうですが、どこの国でも同じような傾向はあります。それは違う者を排除しようとする傾向です。しかし、聖霊による一体とは、違う者をも含んでいる一体性です。
 7節を見ましょう。キリストによって救われた者には、一人一人にそれぞれ異なる賜物が恵みとして与えられています。だから違いがあるのが当然だとパウロは教えているのです。それぞれの持っている賜物、個性、色々な違いがあります。それなのに一つと言えるのか。それはキリストの体、だからです。16節に「体全体は、一つ一つの部分が」と書かれています。詳しいことはコリント人への第一の手紙に書かれていますが、本来体というものは、いろいろな部分があって当たり前なのです。体中が手だったら気持ち悪い。昔、体中に目が付いている妖怪が出てくる漫画がありましたが、誰も知りませんよね。体には色々な部分がある。どの部分も体の一
部として大切なものだから、決して他者を疎外してはいけない、また自分を卑下してはいけない、というのがコリント書に書かれていることです。違いがあっても良いのです。
 では具体的に、その違いがある、様々な個性を持った人々の集団が、どのようにして一体となっていくかを示すために、パウロは11節で教会の職務ということを取り上げます。ここに出てくるのは当時の各地の教会での職分です。地域によって呼び方が違うこともあります。現代の教会での呼び方と一部は違いがあるかも知れません。しかし、ここに上げられている働きは、どれも神様の御言葉を取り次ぐ点では共通しています。つまり神様の言葉が正しく伝えられ、聖書の言葉が正しく教えられている時に、教会は一体として整えられるのです。
 私たちの中には御霊による一致を壊す罪があるかもしれません。自己中心やプライド、愛の欠如、そういったものが御言葉によって改められ、新しく造られて行くときに、教会は整えられて行くのです。
 12節。ここで奉仕と書かれているのは、例えば礼拝における奉仕ということだけではありません。むしろ、仕えること、弱い者の世話をすること、なども含んでいます。牧会という言葉があります。これは牧師だけの働きではなく、実はクリスチャン一人一人に委ねられて働きなのです。
 ちょっと、脇道にそれますが、牧師とは何か、ということを少しだけお話したいと思います。牧師の働きの中には様々なことが含まれます。教会員のお世話をすることもあるでしょうし、リーダーとして教会を指導することもあるかも知れません。しかし、一番大切なのは御言葉によって教会を教え、養い、整えることです。ペテロは「祈りと御言葉に専念する」と表現しました。だからといって牧師はいつも書斎に閉じこもっているわけではありません。出ていって人々のニーズ、特に霊的な必要を知って、そのような状況にある教会に対して必要な御言葉を語らなければなりません。しかし、忙しすぎて御言葉がおろそかになったら、それこそ取り返しの付かない損失を教会は被ります。神の御言葉が聞けなくなったら、教会の命がなくなってしまい、一体性は崩れてしまうからです。
 こんなことをお話しするのは、私たちはもうすぐ新しい先生をお迎えするからです。蛭沼先生には宣教師として、また牧師として様々な期待が内外からあると思います。しかし、牧会や宣教というのは牧師・宣教師だけの働きではなく、クリスチャン全員にキリストが委ねられた働きです。牧師は、御言葉によって教会が整えられて、一人一人がその働きを果たすことができるようにする責任を持っているのです。牧師一人が牧会し、導くことができる人数は限りがあります。宣教師一人が出ていって福音を伝えるのも限界があります。しかし、一人一人が出ていって証しし、福音を伝え、またお互いを牧会しあう、つまり助け合い、導きあうならば、牧師や宣
教師だけではできない働きが可能となるのです。
 そのためにカギとなるのは「成長」という事です。

3.一体性の目的(13−16節)
 なんのために教会は一つとなるのでしょうか。目的が分からなくなると、一体となること自体が目的となることがあります。とにかく一つとならなければならない、そのためには妨げるものを排除しよう、ということで内輪だけで固まってしまうことがあります。ですからはっきりとした目的あるいは目標を知る必要があります。それは成長、正しくは15節。キリストの姿に達する、キリストの素晴らしさを表すためです。教会が愛によって一つとなるとき、そこに人々を引きつける魅力があるのです。
 成長が不十分な時、間違った考えに惑わされたり、悪魔の策略に引っかかったりしてしまいます。そして栄光を表すどころか、キリストの名前を汚すような事さえしてしまいます。だからこそ、御言葉によって整えられ、成長する必要があるのです。あるべき姿、健康な体になるとき、必ず成長します。そして、私たち一人一人も、教会全体も、キリストを中心として成長するのです。
 いまはまだまだ欠点があるでしょう。しかし、こうして様々な人が集まり、それが愛によって結び合わされ、御言葉によって整えられるならば、神様は一人一人の個性を、賜物を用いてくださり、教会を建てあげてくださるのです。成長させてくださるのは神様です。そのお方の御声に従いましょう。

まとめ.

 最後に、16節を見て今日のメッセージを閉じたいと思います。「あらゆる結び目」と書かれています。いろいろな集会も私たちを結びあわせるものです。教会でも奉仕も、共に協力するときに結び目となります。ですから、どの奉仕も一人ではなく一緒にできると良いですね。祈りという結び目も今まで以上に強められたいと思います。グレンビュー教会が、そしてお一人お一人が豊かに成長させていただこうじゃあ、ありませんか。