「主の手は短かろうか」 民数記 11〜12章
序.私たちは困ったことがあって神様に祈り、まだ何の解決も与えられていない時に、
なぜ神様は助けて下さらないのだろうかと思うことがあります。そんなとき、ふと、
神様でもこんなことはできないのではないかと考えるかもしれません。でも、神様は
全能のお方です。何事でもできないはずはありません。そのことを詩的に表現したの
が、「主の手は短かろうか」という言葉です。主の手が短いはずはない、力が足らな
い訳ではない。ではなぜか。それを考えるときに心理へと目が開かれていくことがよ
くあります。そういう意味では、問題がなかなか解決されないときというのは神様の
お考えを知る良い機会かもしれません。
 今日、お話しする民数記11章では、そんな状況の中でイスラエルが自らの罪を知
る、いわば厳しい教訓を得た出来事が出てきます。前回までは、旅の準備と出発を通
して、神の民のあるべき姿が示されました。しかし、実際のイスラエルは罪と不信仰
による失敗の連続でした。それは、まさに私たちのクリスチャン人生と同じではない
でしょうか。
 この、あまり芳しくない記事から、私たちもちょっと辛口の、しかし大切な教訓を
いただきたいと思います。

1.不満の罪
   旅が始まるとすぐに、人々は不平を言い始めました。確かに民数記の旅は、冷
房の利いた車の中で半分寝ながら観光旅行をするのとはずいぶん違いました。水も食
料も乏しい、荒れ野の旅です。困難に対して愚痴を言いたくなるのが人間です。とこ
ろが神様はそんな不平の民にとても強い怒りを表されました。いったい何故でしょう
か。その不平不満がひどいものだったと1節に書かれています。あまりにも不平を言
いすぎた、つまり程度の問題でしょうか。実は1節から3節ではあまり詳しいことは
書かれていません。具体的に何に対する不満だったかもわかりません。これは4節か
らの事件の状況を示すための短い説明なのだと思います。何らかの原因があって人々
はつぶやいた。その背後にある問題、すなわち罪をご存じの神様は警告の意味で火を
彼らの周りに送った。でも実際にそれによって被害があったわけではありません。で
すからこれは、つぶやきが神の御心に反することを教えるための警告だったわけです。
ところが、それにも関わらず、人々はまた不平不満を言いだした。それが4節から後
の事件です。
 彼らの問題は飢えではありませんでした。確かにごちそうはありませんでしたが、
荒れ野の中で神様はマナという不思議な食べ物を与えて下さいました。でも彼らはそ
れに飽きてしまったのです。そして肉が食べたいと不満を言った。でもこれは贅沢は
いけないと言うようなレベルの問題ではなかったのです。彼らのつぶやきの背後にあっ
たのは、貪欲の罪でした。十戒の最後に「汝、むさぼるべからず」とある、貪りの罪
です。すなわち欲望に身を委ねた姿でした。
 貪欲の罪は人間に何をもたらすかというと、第一に満足ができなくなります。貪欲
によって、私たちはあれもこれもほしくなります。5節を見るとイスラエルの民が欲
しがったものがあげられています。ではこれらの物が手に入れば良いかというと、決
してそうではありません。今、私たちは比較的豊かな生活をしています。留学生はあ
まり裕福ではないかもしれませんが、それでも、貧しい国の人から見たら贅沢とも言
える物をたくさん持っています。ところが、それでもまだ欲しくなる。それを手に入
れてもさらに良い物が気になる。ですからなかなか満足し喜ぶことができなくなりま
す。第二に、真実が見えなくなります。彼らが不満を言っていたマナは、8節を見る
と、おいしい物だったようです。でもそれがわからなくなっていました。肉が食べた
いと言っています。でも実際には彼らは羊や牛を連れていましたから、いつもではな
いにしても、肉を食べる機会はあったはずです。何よりも、エジプトでは何でも食べ
られたと言っていますが、そのエジプトで彼らは奴隷として苦しめられていたことを
忘れていたのです。
 彼らの、いわば「霊的な盲目」というものは実に深刻なものでした。好きな物が食
べたいからエジプトにいた方が良かったというのは、私たちで言うならば、欲望のま
まに好き勝手な生き方がしたいから救われなかったら良かったということです。それ
は神様の救いの御業を無駄にすることです。だから神様は怒られた訳です。救いを全
く知らない時の罪よりももっとひどい罪かもしれません。
 さて、そんな民の罪に対して神様も怒りましたが、指導者であるモーセも怒りまし
た。10節。そしてモーセは神に祈った、その言葉が11背卯から15節に出てきま
す。これを読みますと、指導者の心の中にも違った種類の不満があったことに気がつ
きます。いくら民の現状がひどいとはいえ、神様に対して文句の言い過ぎなところは、
人々の言葉と五十歩百歩かもしれません。しかし、それでもモーセの偉かったのは神
様に直接申し上げたことです。
 つぶやきの罪の問題は、神様に直接祈らないことです。もちろん神様は口に出さな
くても彼らの思いをご存じです。でも、神様に聞かせるように愚痴を言う。そして、
その言い方は神様を批判し、神様がいないかのように振る舞う、それが彼らのつぶや
きでした。
 うちの子供が、たとえばたまたま食事の時にテーブルに自分のスプーンやフォーク
が出ていなかったりして、「これ、どうやって食べるの」などと言うことがあります
が、そうすると両親から厳しくしかられます。(フォークを)下さいといえば、必ず
あげないことはない。人前でもプリーズがいえるようになって欲しいので強く言い聞
かせます。神様も困ったときに祈ったら、悪いことは別ですが、私たちの祈りを聞い
て下さいます。ところが、つぶやきというのは祈りとは違います。父なる神様に信頼
する代わりに、神様を無視したような言い方で、結局は神様を悪く言っている。さら
に、それを人に対していうと、だんだん増幅して行きます。もちろん、困ったことを
お互いに語り、相手のために祈るというのは大切な、そしてとても良いことです。で
も祈らないで愚痴を言い合うだけ、というのは気をつけなければなりません。つぶや
きは不信仰であり、神への不服従、最後には反逆にまで至るものです。
 さて、そういったイスラエルの民のつぶやきとモーセの祈りに対して神様はどのよ
うなことをされたのでしょうか。

2.神のさばき
   神様からの答えが16節から20節に出ています。神様は決して侮られるよう
なお方ではありません。ですから時には大変厳しいように見えることをなさいます。
人に情け容赦ないことをした者には情け容赦ない裁きを下されます。もちろん、哀れ
み深い人には哀れみ深いお方ですが。この箇所でも、神様はモーセや民が口に出して
言ったことに応じて裁きをされました。
 まず、モーセが14節で、「私だけでは、この民全体を追うことはできません」と
言ったのですが、これはまるで、モーセが自分でイスラエルを導いているように思っ
ているような言葉です。本当は神様がモーセを含めた民全体を背負って運んでいるの
であり、モーセは神様の器に過ぎないのですが、でもここでは神様はそのことにはふ
れません。そのかわり、私だけではできないと言う言葉に対して、神様は70人の長
老に責任を分担させるように命令されます。実際には出エジプト記の中で、すでに舅
のエテロの忠告に従って、民の中の指導者たちに裁判の権限を分散したことが書かれ
ていますので、ここに出てくるのは大幅な変革ではありません。むしろ、自分一人で
民を背負っている気になっていたモーセに対する裁きとして、彼の上に与えられてい
た神の霊の一部を取り上げて他の70人に分け与える、つまりモーセに与えられてい
た権威や力を少し引き下げることでもありました。もっとも神の霊というのは、私た
ちの理解を超えたことですので、物質のように一部を取り上げたら減ってしまうとい
うものではないのかもしれませんが。
 さて、モーセに対する裁きは、彼の罪が比較的小さなものであり、彼自身激務のた
め疲れていたことを配慮してか、ずいぶん優しいものであり、彼を助けることでもあ
りました。それに対して、民に対する裁きはもう少し厳しいものでした。肉が食べた
いと言った民に対して、神様は「肉を食べさそう、ただし、いやになるほど、いや吐
き気を催すほどに」と言われました。
 この神様の言葉に、そんなことが可能でしょうか、と疑問に思ったモーセに対して
神は「主の手は短かろうか」と言われたのが23節です。そして31節以降で神様の
言葉が実現していきます。季節によって移動する鳥の大群を、神様は風の向きを変え
てイスラエルの民の周りに集めたのです。実はほとんど同じようなことが出エジプト
記の中でも起きました。しかし、そのときと比べても、今回は以上とも言うほどの量
でした。31,32節。一日の道のりとは20マイル、30キロほどでしょうか。2
キュビトとは90センチ、3フィートになります。10ホメルは2300リットル、
600ガロンほどです。ちょっと誇張ではないかと思うほどです。でも確かにこれだ
けの肉があったら、家族が1ヶ月食べられるほどです。しかし、実際にはそれを口に
したとたんに疫病が襲い、欲望に駆られた人々は死んでしまいました。34節でその
場所はキブロテ・ハタアワを呼ばれたとあります。その意味は欲望の墓、だそうです。
人間の欲望の行き着くところ、それは滅びである。それは聖書が教える厳粛な事実で
す。罪は必ず実を刈り取る、それは死なのです。
 これが神様の裁きならば、私たちはどのような裁きを受けるでしょうか。ところが
「主の手は短かろうか」、もっと長いのです。実に裁きを越えて救いにまで及ぶこと
ができるのです。

3.罰と恵み
   神の裁きはある面は非常に厳しいものです。しかし、11章最初にでてくる神
の怒りと火が、警告、あるいは教育的な意味もあったように、裁きは裁きだけではあ
りません。モーセに対する裁きは、かれの傲慢に対する罰であると共に、それ以上に
彼の重荷を軽減し、助ける意味がありました。しかし、それは受け取る側の姿勢によっ
て違ってきます。26節からにちょっと変わったエピソードがでています。神の霊が
与えられたことを民が理解できるように、神様は一回だけですが長老たちが特別な状
態になって神の言葉を伝えるようにされました。そのとき、そのうちの二人が、何ら
かの事情があったのか、まだ自分の家にとどまっていた。それにも関わらず、この二
人も他の長老たちと同じようになった。そのとき、モーセの従者であったヨシュアは、
この二人をやめさせようとしました。それに対してモーセが答えたのが29節。もし、
モーセが自分の権力が損なわれると思ったなら、ねたみに駆られ、このことは彼にとっ
て起きて欲しくない罰となったでしょう。しかし、モーセは、これを神様の恵みとし
て受け止めることができました。70人だけでなく、民全体が神の霊を受けて、神の
御心を知ることができればもっと素晴らしいと考えたのです。このように謙虚に受け
止めるならば、神の裁きは恵みになります。
 イスラエルの民にとって1ヶ月分の肉は何を意味したのでしょうか。この事件で死
んだ者は、一部の人でした。ですから、全員が肉を集めたのではなかったようです。
おそらく、民の中にははじめから不満の合唱に加わらなかった人もいたでしょう。ま
た、はじめは不満を言っていたけれども、大量の鳥を見て、これが神様のなさったこ
とであることを認め、神様に対する畏れと従う心を取り戻した人もいたでしょう。そ
ういった人たちは、肉を集めることをためらったはずです。2300リットルも集め
たのは、これだけのことを見ながら、なお自分の罪に気がつかず、貪欲に肉を集めた
のでしょう。神の御業を見ながらも罪にしがみつく者にとって神の裁きが厳しい罰と
なるのです。しかし、その罰でさえも、警告や教訓となりえます。
 12章には、肉に対する貪欲ではなく、権力に対する欲望がでてきます。モーセの
姉であるミリヤムが、アロンを誘ってモーセに言いがかりをつけ、モーセと同等の地
位を要求します。でも同等と言いながら、実際には自分の方が上に立とうとしました。
それに対する神の裁きは、ミリヤムが皮膚病にかかることでした。これは明らかに罰
です。しかし、その罰でさえも神様は良いことのために用いなさることができました。
このときにアロンはすぐに自分の罪を悔い改め、救いを求めました。しかし、ミリヤ
ムは恐怖のためか、何も語っていません。そんな彼女に神様は時間を与えられました。
皮膚病にかかった者は、民の宿営の外に隔離されることになっています。神様は七日
間、彼女を締め出すように命じました。これは皮膚病にかかった者が受ける一般的な
対処です。皮膚病になったときは七日間隔離され、その後祭司の前に行って再び病気
を調べます。そしてもし直っているか、皮膚病が伝染性のものでないことが判明した
ら民の中に戻ることができる。ですから、最初から神様が七日間と限定されたのは、
彼女が必ず民の中に戻ることができることも意味していたのです。神様は彼女を直ち
に滅ぼすことはされなかった。むしろ、この七日間は、ミリヤムにとって自分の罪を
認め、神に悔い改める機会にもなりました。また、三日間行進を続け、疲れ切った民
にとっても、一週間は良い休息となったでしょう。
 たしかに人間は自分の罪の結果を刈り取らなければならないことがあります。しか
し、そのときに神様の前にへりくだり、悔い改めるならば、それは罰ではなく、新し
い恵みへのステップと変わるのです。神様にとっては罰ですらも救いの手段となりう
るのです。着るストの十字架がまさにそうです。私たちは、自分の罪の報いとして神
様からの呪いを受け死ななければならない。しかし、神様はその罰をキリストに負わ
せ、そののろいの十字架を、同時に私たちの救いの源として下さったのです。神は正
しいお方です。ですから罪を見過ごしにされることはありません。これは厳粛なこと
です。しかし、神は愛のお方です。もし私たちが、自分の罪の結果を自分で刈り取る
ことがあっても、神を信頼し、謙虚になって御前に進み出るならば、神はそれを恵み
に変えて下さいます。

まとめ.私たちの信仰生涯は失敗だらけかもしれません。救いの恵みをいただいた直
後から罪を犯すのが人間です。誰も民数記の中のイスラエルの民を批判できません。
でも、神様の恵みは決して私たちの弱さによって制限される者ではありません。主の
手は、罪の罰を越えて私たちにさしのべられているのです。悔い改めつつ、御前に進
み、祈ろうではありませんか。