2000年6月10日「キリストの愛に満たされて」エペソ3:14−21
序.このエペソ書からのメッセージを始めた最初の頃に、この手紙のテーマは「教会である」ということを言いました。ところが、この3章まで、つまり手紙の前半は、ほとんどが教会に関する教えというよりも、救いというテーマが中心であるような感じを受けられたかも知れません。いくらかは教会に関することも出てきました。たとえば「教会はキリストの体である」といったことです。でもそれは少しだけ書かれていて、詳しくは取り扱われていません。

 いったい何故かというと、教会は救われた者の集まりである、からです。救いがしっかりとしていないと、教会はがたがたになってしまいます。一人一人が、いろいろな違いはありつつも、キリストによって救われた、という確かな確信を持つならば、教会は一つなのです。この教会はいろいろなところからのクリスチャンがいます。この教会で救われた、あるいは洗礼を受けたという方もおれば、様々な教派の教会から来られた方もおります。でも救ってくださったイエス・キリストを見上げるときに、考え方や言葉の違いを乗り越えて一つとなることができる。これもエペソ書のテーマの一つです。
 さて、今日はその救いということの締めくくりとして、「キリストの愛に満たされる」ということを共に学びたいと思います。
 救いというのは大切です。マラソンに例えるなら、スタートがはっきりすることです。スタートしなければマラソンに参加できませんし、途中の観客席から突然入り込んできて走ってもいけないわけです。スタートラインから走り始めなければなりません。でも、走り始めることができても、走り続けるのが大変です。救われて教会に、つまりキリストの体に加えられ、神の家族の一員とされた。でも、信仰生涯を送り続けることは簡単ではありません。また、教会がキリストの体として生き生きと成長していくことがなかなかできないことがあります。どうしたらそれができるか、それは「キリストに満たされること」が秘訣です。

1.神からの力(14−17節)
 パウロは14節から21節まで、エペソの教会のために祈っています。その祈りの第一番目の願いは、神によって強められることです。教会が、そして一人一人のクリスチャンが、信仰によって歩み続けて行くためには力が必要です。その力は、神様から戴くものなのです。
 16節に「あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように」と書かれています。この「内なる人」とは何でしょうか。 クリスチャンに限らず、全ての人が力を求めています。強くなりたいと願っています。そのために様々な方法を用います。ある人は、健康であることが第一と考えて体を鍛えます。修行して精神を鍛える人もいるかも知れません。またある人は社会的な立場や地位を強くすることが大切と考えて出世のために努力します。お金やコネで身を固める人もいます。学歴、才能、成功、そういった様々なものを求めるのも、それによって強い鎧で身を固めるためです。しかし、それらはどれも「外なる人」です。「外なる強さ」は、必ず崩れるときがあります。どんなに健康に気を配っていても、病気になることはありますし、また年齢と共に弱くなるのは避けられません。社会的地位が不確かであること、お金がいかに頼れないかは、ここ数年の日本では深刻な問題です。人生の荒波というようなことが起きたときに、「外なる強さ」は崩れてしまうのです。パウロがここで祈っているのは、そのような強さではありません。それとは反対に、どんな困難が襲ってきても、内側から自分を支える力があるならば、倒れてお終い、ということはありません。
 ではクリスチャンにとって「内なる力」とは何でしょう。17節を見ましょう。 
「内なる人が強くされる」とは、実は「キリストがうちに住んでくださる」事なのです。クリスチャンの力は神様から離れてはあり得ません。神様が近くにいてくださる、というのも力強い。でも、キリストが内側にいてくださるならば、どんな時でも、例え自分が力つきても、なおキリストが支えてくださるのです。では、どのようにしたらキリストが内に住んでくださるか。
 何回もお話ししましたが、救われた者の内に聖霊が住んでくださいます。三位一体、なんていう難しい話はしませんが、この聖霊というお方が住んでくださる時、それはキリストがいてくださるのです。ですから、その意味では、パウロが祈る前からすでにキリストは心の内にいてくださる。でも、そのことを私たちは忘れてしまいます。素晴らしい賜物として聖霊を与えていただいたのに、それが分からないため、他のものを求めるのです。自動車の中にはエンジンが付いているのに、それを知らずに力一杯後ろから押そうとしたり、上に帆をかけて風が吹くのを待ったりするようなものです。
 では、聖霊がいてくださるんだということを知れば、それで良いのか。知識として、頭で知るだけのことでは無いと思います。17節には、「あなたがたの信仰によって」と書かれています。クリスチャンの内にキリストが住んでくださる、それは信仰によるのだと言っています。信仰というのは、いるかいないか分からないけど無理矢理信じ込んでみる、という盲信ではありません。すでにいてくださるお方を信頼する、と言うことです。キリストに信頼するとき、自分ではどうすることもできない問題を乗り越えさせていただける。そして、そういった経験を通して、さらに信頼が増し加わり、もっとキリストが住んでくださることが分かるようになるのです。
 ただ、気をつけなければならないのは、「動機」です。私たちの内に罪や欲望があるとき、神様からの力さえも、内に住んでくださっているキリストさえも、自分のために利用してしまうのです。自分の名誉、自分の利益、自分の安心、そういったものを得るために力を求めるとき、それは御利益信仰になってしまいます。そうならないように、パウロは2番目のことを願い求めます。

2.キリストの愛(18−19節)
 18節と19節の前半を読んでみましょう。ここでは、キリストの愛を知るように、と祈られています。神からの力とキリストの愛というのは、一見、関係のないことのように思えますが、そうではありません。神様から力が与えられた、その力によってキリストの愛を理解できるのです。またキリストの愛に満たされたときに、戴いた力を正しい方向に向けることができるのです。
 パウロはキリストの愛について、それがどんなに広く、長く、高く、深いか、というキリストの愛の大きさを述べています。また、それが人間の持っている理解力を遙かに越えたものだと言っています。キリストの愛について語ったら、何回メッセージしても足らないですし、今日は何人か牧師・説教者のかたがお見えですが、メッセージをしていただいたなら、一人一人が違った語り方でキリストの愛を話してくださることでしょう。
 キリストの愛、それはどんなものでしょうか。キリストの愛を、例えば母親の愛などに例えることもできます。それは本当に素晴らしい愛です。でも、それでも言い尽くせないのがキリストの愛です。キリストの愛、それは無条件の愛です。人間の愛は条件付き、「自分にとって価値があるから愛する」、「お返しがあるから愛する」、「自分の好みだから愛る」。それが条件付きの愛です。キリストの愛は「こんなひどいものであるにも関わらず愛してくださる」という無条件の愛です。また、キリストの愛は命がけの愛です。十字架で私たちの罪の身代わりとなってくださった、それがキリストの愛です。他にも色々な言葉で説明できるでしょう。でも、どんな説明でもまだ足りない、それほど大きな愛なのです。人間の理解を越えたものなのです。
 このキリストの愛を知るのは、ですから人間の力によるのではありません。神様が理解させてくださるのでなければ分からないことがあります。私たちには様々な困難があります。そんなときでも祈って、神様に信頼して、そこを乗り越えさせていただけます。でも、もし、自分自身に絶望してしまったらどうでしょう。こんな自分には神様も愛想を尽かすに違いない、それが分かった時、信仰を持って祈ることすらもできない。そのときに、内にいてくださる聖霊が語りかけてくださるのです。「あなたは我が目に尊い」、「神は一人子を賜うほどに愛してくださった」と。それは理屈では理解するのではない、聖霊が分からせてくださる愛なのです。
 この愛を戴いたとき、私たちはどんなところからでも立ち直れるのです。全ての力が尽きたと思ったときでも、なお信仰の道を歩むことができるのです。それだけではなく、クリスチャンに、そして教会に、神様から委ねられたすばらしい務めを果たすことができるのです。それを三番目にみたいと思います。

3.神の栄光のために(19−21節)
 三番目のパウロの祈りは、私たちが「満たされる」ことです。満たされると言っても、変なものに満たされたら大変です。悲しみや怒り、欲望や罪が心を一杯にしてしまうことがあるかも知れません。そういったものでさえ多い尽くすことができるのはキリストの愛だけです。パウロが祈っているのは、キリストの愛に満たされることです。
 神様の内に愛が満ちているように、私たちも満たされるなら、いったい何が起きるのでしょうか。それは、私たちを通して神様の栄光が表されることです。20節と21節。これは祈りの最後に神様の栄光を崇める言葉です。でも単なる形式的な文句ではありません。礼拝の最後にも頌栄といって、短い讃美を歌います。これは礼拝のお終いの合図ではありません。これが聞こえたら目が覚める、では困る訳です。これは、神様に栄光をお返しする讃美ですが、

 また、礼拝で心が整えられ、御言葉を戴いたクリスチャンが、これからの一週間で神様の栄光を表す生き方ができるようにとの祈りでもあるのです。
 キリストの愛を知り、キリストの愛で心が満たされていく時、クリスチャンも教会も、自然と神様の素晴らしさを表す存在とされるのです。キリストの愛を忘れている時、どんなに力を尽くして神様のためにと思って働いても、いつのまにか喜びや感謝を忘れ、自分の栄誉や賞賛を求め、自己満足や自分の利益を考えてしまうのです。たとえどんなに素晴らしいことができても、愛が無かったなら、それは無意味だと第一コリントでパウロは語っています。私たちが神様の栄光を表すために無くてはならないのはキリストの愛です。キリストの愛に満たされるなら、自然と私たちの歩みは正しい方へ向けられ、神様の願っておられる方を選んで進むことができる、それも無理をしてではなく、心からそうできるのです。
 自分のためにではなく、キリストの愛によって祈るとき、神様がどうしてくださるかが20節です。私たちの考え、私たちの願いよりも、遙かに勝ることを、豊かに施してくださる。そのときに神様の栄光が表されるのです。そのようなクリスチャンによって、そのような教会によって、そしてその教会の頭であるキリストによって神様の素晴らしさが表されるのです。

まとめ. 愛に満たされる、と聞くと、自分の愛の少なさを見てしまうかも知れません。でも、もともと人間の愛は小さくゆがんだものです。只、キリストの十字架で表された愛、内に住んでくださるキリストの愛に目を向けるとき、キリストの愛に満たしていただけるのです。もう一度、このキリストを見上げましょう。