2000年6月4日 「主に従う旅」
民数記9章15節〜10章
序.この民数記を学び初めて一ヶ月たちました。この書のテーマは「荒野を旅する神
の民」だと言ったのですが、実は今日の箇所で初めて旅が始まります。準備にずいぶ
ん時間がかかってしまいました。ところが、イスラエルの民も時間をかけて準備した
ようです。民数記の1章はエジプトを出た次の年の2月1日で始まっています。途中、
ちょっと出来事を振り返るように1月1日から15日のことが出てきて、9章11節
では2月14日、そして出発は2月20日だったと10章に記録されています。です
から今のところ、彼らと同じペースで進んでいます。でも、後でもう少し早く進もう
と思います。ずっと同じペースで進みますと大変なことになります。彼らの旅は40
年かかりましたから。
さて、今日は旅の始まりにあたり、神の民はどのように旅を進めるかを見たいと思
います。彼らの旅は神様とともに進む旅でした。私たちの人生の旅も神様がともに歩
んでいて下さいます。では、神と共に歩む旅とはどのようなものでしょうか。彼らの
旅が神と共にあることを象徴する三つのものが9章の後半から10章にかけて出てき
ます。それは、第一に雲の柱、第二に銀のラッパ、そして第三に契約の箱です。これ
らのものが持つ意味を考えながら、お話を進めていきたいと思います。
1. 主の命令による旅(9章15〜23節)
神がイスラエルの真ん中に住んで下さるということを形にしたものが「会見の
天幕」、あるいは単純に天幕、あるいは幕屋と呼ばれる大きなテントのようなもので
す。でも目に見えない神様が本当にそこにいて下さるのか、そんな心配を人々は持つ
かもしれません。そこで、この天幕が完成したときに神様は雲がこの天幕を覆うよう
にされ、ご自分の存在を人々が理解できるように表して下さったということが出エジ
プト記の最後に出てきます。彼らがエジプトから脱出したときにも雲の柱が彼らを導
きました。夜には、それは火の柱となりました。この雲の柱と火の柱は、以来、彼ら
が旅をする間、神がそこにおられることのシンボルとなったわけです。
この雲の柱が天幕を離れて動き出すとイスラエルの人々も出発します。そして、雲
が一カ所にとどまると彼らもその周りに宿営します。こうして彼らは神に従って旅を
進めたのです。この、雲の柱の動きによって動いたり止まったりすることが知らされ
るので、人々はこれを神の命令として受け止めました。彼らの旅は主の命令による旅
だったのです。
では、神の民にとっての神の命令とは何を意味するのでしょうか。それは、その命
令がどのようなものであっても必ず従うということです。もし神様が出発だとおっしゃ
るなら、それが昼であろうと夜であろうと人々は出発しました。もし雲が動かないな
らば何日でも、いえ一年でも同じ場所にとどまります。そして、動き始めたら、止ま
れと命令されるまでは何日でも歩かなければなりません。もちろん、一年歩き続けろ
とはおっしゃらないと思いますが、事実最初の動きは3日分の道のりを進んだと書か
れています。一日の道のりが20マイル位としても大変厳しい移動だったことでしょ
う。神の命令に従うとは、人間の都合や考えによって動くことではないのです。私た
ちは神に従って生きようとするならば、そのような覚悟が必要です。ちょっと聞いて
みて、もし都合が良かったら従うけれど、いやだったらば自分の慕いようにする、な
んて最初から考えていたら、従うことなんてできません。例えそれがどんなことであっ
ても、必ず従う、それが神の命令による旅なのです。
そんなことを言うと、なんだか怖くなってしまうかもしれません。まるで、軍隊の
ように感じる方もいるでしょう。事実、イスラエルの民は、形式上は軍隊の形を取っ
ていましたし、後には神様のことを、「万軍の主」、すなわちイスラエル全軍の最高
指揮官と呼ぶようになりました。昔の日本の軍隊では、指揮官の命令なら、例えそれ
がどんなに理屈に合わなくても、どんなにひどいことでも、それに従わなければなり
ませんでした。でも、神様はそのような冷酷な指揮官なのでしょうか。
神様の命令には、必ず意味があります。ただ、それを私たちが今すぐ理解できるか
は別です。たとえ今は理解できなくても、あとから、あるいは天国に入ってから振り
返ると、神の命令が最善であることに気づくのです。もしかしたら神様がとどまれと
おっしゃるのは、進んだら嵐が待ち受けているのかもしれません。夜中に出発しろと
言われるのは、次の朝に敵が襲いかかってくる準備をしていたのかもしれません。時
には、神様の命令に従ったために苦しみにあうこともあったでしょう。今日はここに
とどまれと言われたがそこには水がない、ということもありました。でもそれは神様
が彼らを苦しめようとされたのではなく、神様に祈って願い求めることを彼らが学ぶ
ようにとされたのかもしれません。最初は理由がわからないかもしれない、それでも
神様を信頼して従う。クリスチャンの人生は、「お気楽な」人生ではありません。苦
難と試練に満ちているかもしれません。それでも神の命令に従って生きる。キリスト
教なんて弱い人の信じるものだ、なんていうのは間違いです。他力本願だから、何に
もしないで楽だというのも違います。信仰によって従う人生とは、実に勇気のいるも
のです。私は弱いから無理かしらと思う方もおられることでしょう。そんな人は神様
から信仰と勇気をいただいたら良いのです。人間的な強さによるカラ元気ではなく、
神様の力に満たされたらいいのです。弱いものが強くなる、それこそ福音の力です。
ちょっと、話が横にそれそうなので、二番目のものに目を向けましょう。それは銀
のラッパです。
2. 銀のらっぱの合図(10章1〜10節)
神様の命令に従うのが原則です。でも具体的にはどのようにして従ったらよい
か、あるいは神様の命令をどのようにして知るのか、それに答えるのが10章の前半
です。今の私たちには、雲の柱は見えません。神様に従う決心があっても、肝心の命
令はどのようにして知るのでしょうか。
さて、ちょっとイスラエルの民に混じって、そこに居合わせたと想像して見て下さ
い。人々もそれぞれのテントを張って宿営しています。ある日、朝か夜かはわかりま
せんが、突然に雲の柱が動き出します。さあ、出発だ、とみんながテントを畳み始め
ます。すると、中には必ずいるんですね、寝過ごす人が。もしかしたら、友達のとこ
ろに遊びに行っていて、あわてて帰ってきて支度をする人もいたかもしれません。そ
んなこんなで、気が早い人はもう歩き出すし、のんびり屋の人はまだお茶でも飲んで
いるかもしれない。これでは、むちゃくちゃになってしまう訳です。
神様の命令に従うといっても、何か基準が必要です。私たちも、従う心がしっかり
していても、従うべき内容がはっきりしないと、どうして良いかわからなくなります。
イスラエルの場合、それを示すのが銀のラッパです。出発することは神様の命令ではっ
きりしている。雲の柱は上に上がった。そして、みんなの準備ができたところで、大
祭司アロンの子孫がラッパを鳴らす。それを合図に、各部族があらかじめ決められて
いる順番通りに動き出すのです。こうして全体の足並みがそろって旅を続けることが
できるのです。出発の時だけではありません。敵がやってきて戦いに出なければなら
ないとき。また、話し合いや指示が必要で、各部族のリーダーたちが呼ばれるとき、
さらに祭りの時にもラッパが吹き鳴らされ、神の命令に従って全てのことが行われま
した。
このラッパが何を意味しているかといいますと、私は、これは神の言葉を指し示す
のではないかと思います。9章23節。ラッパは祭司がそのときの気分で吹くのでは
なく、あくまで神の命令により、具体的にはその神の言葉を伝えるモーセの指示によ
り鳴らされたことでしょう。また、祭司自身も律法として神から与えられた言葉を人々
に教える働きをしていました。ラッパを吹く祭司や、モーセが偉いから従うのではな
く、それが神の言葉に基づいているからこそ民全体がラッパの音に合わせて行動した
のです。現代の私たちにとっては、聖書の言葉が具体的な行動を示してくれます。神
に従う、神の命令を行うとは、聖書を通して示される神の御心に沿って生きることで
す。もちろん、具体的なことが書かれていないこともあります。また、聖書ではない
方法で神様から示されることもないわけではありません。しかし、そのような場合で
も、必ず聖書全体の原則に反するようなことを神様は命令されることはありません。
「キリスト教が広まるために反対するものたちを殺しなさい」なんてことは、殺すな
かれ、また汝の敵を愛せよ、との教えに反します。ですから、聖書の言葉が基準とな
るのです。
3. 人の知恵による助け(10章29〜36節)
さて、11節から28節は、神の命令に従ってイスラエルの12部族と幕屋に
属する聖なるものを運ぶレビ人たちが順序正しく並んで出発する様子が書かれていま
す。ところが、こうして神の命令に従う旅が始まったときに、モーセ自ら神の命令で
はなく、ほかの人に頼るようなことが出てきて、いったいどうしたのだろうと思わせ
ます。モーセの妻の兄弟と思われるホバブという人に、道案内をしてくれるように頼
んでいます。神様自らが雲により道案内をしているはずなのに、なぜ人間の道案内が
ひつようなのだろう。神に従う旅は、命令を出される神ご自身に信頼する旅でもあり
ます。ですから、人の知恵や経験に頼るのはおかしいのではないかという意見もあり
ます。しかし、神に信頼することと、人の助けを受けることとは必ず矛盾するという
訳ではありません。
神様に間違いはなくても、私たちは間違いを起こします。これが神の命令に違いな
いと思いこみ、実は自分の願うことを行っているかもしれません。聖書の言葉に一致
していると思っても、実は解釈が違っているかもしれません。ですから、信仰の友や
先輩の助言は大切です。また、神様自身が人間の言葉や手助けを通して私たちを助け
て下さることもあります。ですから、謙虚になって人の助けを仰ぐことは必ずしも間
違いではありません。むしろ、「自分は神に従っている、信仰によって歩んでいるん
だ」と、高慢になってしまう危険も考えると、人の言葉に耳を傾ける姿勢は大切かも
しれません。
また、新改訳聖書では32節で「主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわ
かちしたいのです」と訳しています。原文には「したい」という言葉はありませんが、
共に行くことで外国人であるホバブにも神からの祝福があることをモーセが望んで、
彼を引き留めたのかもしれません。何でも自分でするのではなく、助けていただき、
あるいはこちらが助けることで、神様からの祝福を共に味わうことができる。ですか
ら人の助けを仰ぐことにも意味があるのです。
もちろん、第一とすべきは神様です。たとえ神様がその人を通して助けて下さって
いるとしても、あくまでそれは神からの助けです。ところが人間は目に見えるものに
心が向かってしまいがちです。目の前の人間に頼ってしまうときに、裏切られたり失
敗したりすることもあります。主に信頼し、主に従うことが中心です。33節。ここ
では人々の先頭にたって進んだのは、その主語は主の契約の箱です。会見の天幕の中
心におかれている、神と民との契約のしるしである十戒の板をしまってある箱です。
ですからここで、イスラエルを導いたのはあくまで神ご自身であることが再度強調さ
れているのです。
ところで、世の中には細かいことに気がつく人がいますが、この契約の箱を担ぐケ
ハテ族は、21節を見ると、イスラエル12部族のちょうど中央を行進したと書かれ
ています。ところが33節では彼らの前に進んだとあります。これについては、いろ
んな説明がありまして、たとえば、旅の始まりに当たり最初の三日間だけ箱が先頭に
立ったのだ、と言う人もいますし、14節から28節で順番に並んでいるのは各部族
の代表でだけで、この契約の箱を含んだ代表団が先頭を歩んだのだと考える人もいま
す。どれが本当かはわかりませんが、信仰の生涯の旅においては、矛盾ではないこと
です。神様は私たちの中心としていつも共に歩んで下さり、また同時に私たちの先駆
けとして前に進んで導いていて下さるのです。
まとめ.最後に35,36節にモーセの祈り、あるいは賛美の言葉が乗せられていま
す。出発の時、そして到着の時、どちらの時にも神様に心を向け、この旅は神と共に
歩む旅、神に従う旅であることを確認し、神への信仰を賛美によって言い表すのです。
わたしたちも、時には自分の人生が神と共に歩む旅であることを忘れてしまうかもし
れません。こうして週のはじめに神様を礼拝するのは、そのことを確認して新しい週
の歩みをスタートするためです。今日から始まる一週間が神様の導きによって正しい
道を歩めるように、また祝福に満ちたものであるように、もう一度導き手である神様
に従う思いを確認しましょう。