2001年6月3日 「驚くべき奥義」エペソ3:1−13
序.今日はペンテコステとよばれる日です。ペンテコステといっても初めて聞く方もおられるかもしれません。キリスト教会においてはクリスマス、イースターと並ぶ大切な記念日です。どんな日か、ということを簡単に言うと、それは教会の誕生日です。使徒行伝の2章に詳しい記事が書かれていますので、ご存じでない方は帰ってからお読みください。
ざっと説明しますと、こんなことです。キリストが約束された助け主である聖霊が弟子たちの上に下られました。そのときから、今まで迫害を恐れ隠れていた弟子たちが、大胆にキリストの復活を証言し、福音を伝えるようになりました。そして、そのメッセージを聞いて、最初の日だけで3000人が救われたと書かれています。そのときから始まって、教会はエルサレムに築かれ、やがて全世界に福音が広められて行きました。
この宣教の働きによって今、私たちもキリストを信じる者とされ、この地にも教会が建てられた訳です。
さて、今日はペンテコステ自体についてお話しするのではありません。ペンテコステに始まった教会とは何かということをエペソ書から続けて学びたいと思います。特に、私たちにとって教会とはどんな意味を持っているか。そのことを、パウロが使った「奥義」という言葉を中心に考えていきたいと思います。
1.啓示された奥義(1−6節)
さて、この奥義という言葉はミステリーという言葉の元となった言葉です。秘密とか、隠された知識といったことを意味します。キリスト教の福音そのものが奥義のようなものですが、その中でも特
にいくつかのことをパウロは奥義と呼んでいます。その一つがエペソ書の前半で度々語られた事、すなわち異邦人の救いです。パウロという人は異邦人の使徒と呼ばれます。それは彼が異邦人に福音を伝えたからです。その最中にパウロは、キリスト教を否定するローマ帝国によって迫害され、自分の同胞であるユダヤ人からも妨害されました。時には牢屋に入れられたこともあった。このエペソ人への手紙も、どうやら牢屋、といってもこのときは一軒の家に軟禁されていたようですが、そこから書かれた手紙と考えられます。パウロが牢に入れられている、と聞いたエペソ教会の人々はどう感じたでしょうか。心配してパウロを気遣った人々もいましたが、中には福音を伝えたパウロが罪人として扱われていることで、自分の信じた福音を恥じる者たちもいたようです。そういった彼らにパウロは、彼らが信じ救われたことは驚くべき、素晴らしい事であると伝えようとした。それが今日開いています、3章の前半です。
ここでパウロが奥義と言っていることは6節にその内容がまとめられています。6節。福音を信じて救われた者は、キリストと共にいることによって、次のようなものとなります。まず、異邦人もユダヤ人も共に神の国を受け継ぐ共同の相続人となること。第二に、ユダヤ人も異邦人もキリストの体に連なることで一つの体の一部となること。最後に、共に約束に与る。この約束とはアブラハムに約束された祝福が、アブラハムの子孫であるユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられるのです。これは、2章でそれまで敵対していたユダヤ人と異邦人が神様と和解する時に一つの体とされる、と言われていたことをもっと詳しく述べたものです。何故このことが奥義と言われるのでしょうか。
5節を見ると、「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています」とありますが、ここで言っている預言者とは旧約聖書の時代の預言者ではなくて、新約時代の教会で神の言葉を語った預言者たちです。ですから使徒たちや預言者たちによって、異邦人の救いは教会に宣べ伝えられていましたが、それ以前は「知らされていなかった」と書かれています。ところが、旧約聖書には異邦人の救いは全く書かれていないかと言うと、実は何回もそのことに触れているのです。例えばアブラハムにも、神様は、「アブラハムを通して全ての民が祝福される」と語っているのです。しかし、旧約聖書の多くはイスラエルの救いを強調していますし、ユダヤ人たちは自分たちだけが救われると信じていた。異邦人は、ですから救われないのが異邦人である。救われない者たちが救われるなんてあり得ないことです。だから最初の弟子であるユダヤ人たちは異邦人の救いをなかなか受け入れられなかったのです。啓示、と書かれていますが、それは神様が特別に知らせてく
ださったから、ようやく彼らもこのことを知ることができたというのです。
救われるはずの無いものが救われる、というのが奥義です。しかし、それは異邦人だけではありません。ユダヤ人も旧約の歴史の中で常に神様に逆らい続け、罰を受けても当然、滅ぼされても当然だったのです。ですから、実はユダヤ人が救われるのもあり得ないことであり、奥義なのです。人間は全て罪人です。罪を裁かれる神が罪人を救ってくださる。そして、神の御国を相続させてくださり、全ての祝福を与えてくださり、どちらもキリストの体に連ならせてくださる。これが奥義です。
私たちが救われたのも奥義では無いでしょうか。私たちは誰もが救われるはずの無い者です。それがキリストによって救われた。このことが分からなくなると、救いの恵みが薄まってしまうのです。救いが当たり前の事になり、自分の罪に対していい加減になり、神の愛が見えなくなり、キリストから離れてしまう。
でも、この救いが、あり得ないことが起こった、実に貴重な出来事であることが分かったなら、何があっても手放せないようになるのです。この、「奥義」である救いを土台として信仰を建て上げなければなりません。
2.奥義に仕える者(7−11節)
二つ目のポイントに移ります。7節からパウロは自分のことを語ります。彼は自分でも異邦人の使徒であることを主張しました。しかし、それは彼が十二使徒と同じ身分になりたいから、自分を権威あるものとしたいから、ではありません。また、それをしたいと思っていたからなったのでもない。パウロは、神が彼を任命したと言っています。
そして、この奥義である福音、異邦人の救いをもたらす福音に、彼は「仕える者」とされたと7節で語っています。この「福音に仕える者」とはどういう意味でしょうか。
2節や9節では彼は自分の働きを「務め」と言っています。これは、仕事だから嫌だけれどする、という事ではありません。むしろ、自分に任された事を忠実に果たすことを意味する言葉が使われています。すなわち異邦人伝道を心から熱心に果たしたと言うことでしょうか。確かに彼は命がけでそうしましたが、それ以上のことがありました。8節で、パウロは自分を「全ての聖徒(すなわちクリスチャン)のうちで一番小さい私」と呼んでいます。実際には彼は偉大な、おそらくもっとも偉大な宣教者でした。それが「一番小さい」とは何故でしょうか。
パウロは、最初は教会を迫害する者でした。多くのクリスチャンを牢獄に入れた、熱心な迫害者だったのです。だから彼は自分は聖徒と呼ばれる値打ちの無い存在、クリスチャンの中で誰よりも小さい者と告白しているのです。ユダヤ人クリスチャンたちは最初、迫害者が福音を伝える者となったことで神を讃美しました。ところが彼らの理解を超えたことを神はパウロに委ねたのです。すなわち、パリサイ人であったパウロは異邦人に触れることすら避ける、厳格なユダヤ教徒でした。それが異邦人のための使徒とされたのです。ですから、一番小さな者、すなわち異邦人伝道から最も遠かった彼を神は召されたのです。パウロは、宣べ伝えていたことが奥義であるばかりでなく、彼の存在そのものが理解を超えた、あり得ないこと、すなわち奥義をその身をもって表していたのです。言い方を変えれば、彼は神の奥義に生きていたのです。
しかし、これは彼だけのことではありません。私たちもそうなのです。以前は神に背を向け、神の御旨に逆らって生きていた。それが、救われるはずがないのに救われただけでない、今度はキリストによる救いを証しし、福音を語り伝えるように変えられたのです。恵みを伝えるには相応しくない小さな者に神様は素晴らしい務めを委ねてくださったのです。私たち一人一人は、この奥義を生きるように召されたのです。
3.奥義による栄光(12、13節)
最後にパウロはこの手紙を読んでいる読者のことを語っています。12節は、キリストを信じる者たちが、罪人でありながらも、大胆に神様に近づくことが許されていることを述べています。それは奥義にあるように、救われた異邦人はすでにキリストの体に連なっているからです。そのような恵みに彼らが与ったのも異邦人の使徒であるパウロの働きによるのです。もちろん、彼の働きと言うよりも、彼を用いられた神様の働きではあります。が、そのような素晴らしい働きにパウロは、そして全てのクリスチャンは招かれているわけです。
確かにパウロは苦難の中にいました。福音を伝えているために迫害を受けたのです。しかし、その苦難の働きによって読者は神の栄光に近づけられた、と13節は述べています。では、彼らは栄光を受けたが、パウロは受けなかったのか。そうではありません。パウロも栄光を神様から頂いたのです。
パウロが苦難を受けたのは、それ自身、彼が奥義を生きていたことを示します。以前はキリストに敵対する世の中の流れと一緒にいて彼は教会を迫害しました。しかし、そこから救われ、宣教者となったとき、今度は彼が迫害を受けた。それは、彼が確かに神に逆らう世に従ってではなく、神に従う生き方をしたからこそ受ける苦難でした。ですからパウロにとって迫害の苦しみは彼が神の使命に忠実であることの表れ、彼の栄誉だったのです。だからパウロは彼らに対して、自分が囚人であっても落胆しないようにと頼んでいます。
さらに、神の義のために迫害されることで、パウロはキリストの苦しみにも与る者とされた。パウロの手紙には「キリストにあって」「キリストにおいて」という言葉がよく使われますが、苦難の中にあって、彼は確かにキリストと共に生きていたのです。ですから、もし誰かが、彼の務めを代わって引き受けてくれると言っても、おそらくパウロはこの務めを手放さなかったと思うのです。
私たちは、神の奥義である福音に仕える者として生きるとき、他の人たちが素晴らしい恵みを受けるために働けるだけでなく、福音の中で苦難を受けることで、自分自身が救いを確かに受けていることを確信し、キリストと共に、それも主の近くにおらせて頂いていることを実感できるのです。
もちろん、自分の罪の故の苦しみは違います。しかし、それさえもキリストを信じ、神が計画され、キリストによって実現された奥義を知るならば、悔い改めと信仰により赦しを頂き、そして、そのような罪深い者さえも赦してくださる、救いに値しない者をも救ってくださる、という神の奥義を身をもって証しする栄光に与ることができるのです。また、クリスチャンとしてこの世に歩んでいるとき、神に近づけられていくことはもちろん素晴らしいことですし、また、福音を信じ、また宣べ伝えることで苦難を受けたとしても、キリストの歩みを辿るという幸いを体験できるのです。なんという不思議な恵みでしょう。クリスチャンは順境の時も逆境の時も、神様の栄光を表し、救いの恵みを味わう事ができる。これも神の奥義ではないでしょうか。
まとめ. 私たちはこのような驚くべき奥義である救いに与っているのです。ところ
が、頂いた救いの素晴らしさを忘れていることが無いでしょうか。福音が小さなものに思えることが無いでしょうか。
自分を省みるなら、今でも罪に囚われているかも知れません。周りのいろいろなことで悩み苦しんでいるかも知れません。周りの人々も多くの問題を抱えています。そんなとき神様の恵みが理解できなくなることがあります。でも、もし私たちが聖書に心を向け、教会の歴史に目を向けるなら、全世界に福音が伝えられ、異邦人が救いに与っていることで、神の奥義の計画は確実に実現してきていることが分かるのです。今、私たちがこうしてキリストの体である教会に連なっているのも、その計画の内にあるのです。神様から離れていた私たちが、キリストの教会に加えられた、それだけでも不思議なことでは無いのでしょうか。この素晴らしい救いの奥義を、聖書を通して知らされていく時、例えどんなに悩み苦しみが多くても、神様はそれさえも恵みに変えてくださることを信じることができるのです。ですからパウロが進めているように、どんな時にも「落胆せずに」、そして「大胆に神に近づく」祝福を頂こうで
はありませんか。