5月28日 「礼拝の民」 民数記7〜9章

 私たちは毎週日曜日の朝に礼拝を行っています。いったい何故でしょうか。クリス
チャンにとって礼拝は、どんな意味があるのでしょうか。今朝は、「礼拝の民」とい
う題で、神様を信じ従うものにとっての礼拝の大切さを、民数記の7章から9章を通
して学びたいと思います。
 さて、民数記のテーマは「荒野を旅する神の民」であると紹介したことがあります
が、実際の旅は9章の終わりから始まります。1章から9章までは旅の前に大切なこ
とを確認するように書かれています。まず、旅をするための準備をします。それから、
聖い神様の民としてふさわしく、自らを整えます。そして、この7章から9章では、
では神様の民の民として旅をするときに、礼拝することの大切さを示しています。こ
の民数記の旅は神様とともに歩む旅です。いつもともにおられる神様に対して神様の
民とされた人々がなすべきこと、それが礼拝です。
 礼拝とは何か、ということについて三つのことをお話したいと思います。まず、第
一に、礼拝は献身だということです。そして第二に、礼拝と奉仕の関係について。最
後に、礼拝は神様の御業であるということを考えたいと思います。

1. 献身としての礼拝 (7章)
旧約聖書の時代には、礼拝は犠牲の動物を殺して祭壇の上で焼いて神様に捧げること
でした。現代の私たちには野蛮な、無意味なことに思えますが、実はそこに大切な意
味が含まれています。今、私たちは礼拝で、動物ではなく献金を捧げます。いつも献
金の前に、司会者が「これは入場料ではありません。まだよくわからない方や用意の
ない方は、かごをそのまま次の方に回してください」といった説明をします。でも、
これは、献金には大した意味はない、と言っているのではありません。そこには様々
な意味が含まれています。
 7章では、2種類のささげ物がでてきます。3節から9節では荷車とそれを引く牛
が捧げられます。このささげ物はレビ人が神の幕屋に関わるものを運ぶのに使われま
す。つまり、神様のための働きに用いるためのささげ物です。私たち日本語部は去年
から会計を英語部と一本化しました。献金用の封筒をお使いの方はご存じと思います
が、そこには通常の献金のほかにミッション・ファンド、つまり宣教献金というのが
あります。これは宣教師の働きのために使われます。具体的には、世界の各国で福音
を伝えている30名あまりの方たちにサポートとして送られます。この5月からは、
去年日本に帰られ、JEFCで奉仕している下部姉妹のためにも毎月サポートが送ら
れるようになりました。志のある方は、ミッションファンドにも献金をするか、ある
いは日本語部として、または個人的に姉妹の働きを支えることができれば素晴らしい
ことだと思います。また、指定献金といって、何のために使うかを指定して献金をす
る場合もあります。ふつうの献金はジェネラルファンド、つまり一般会計に組み込ま
れ、教会の様々な働きのために用いられます。このように見ていきますと、献金とい
うのは、教会の働きのため、宣教のため、そして神様のために使われる、言い換える
と何かの働きに使うためにささげられるのかと思われるかもしれません。教会の働き
を支えるためにささげることはとても大切です。しかし、もし献金の意味がそれだけ
ならば、組織運営のための分担金と変わらないことになってしまいます。献金のもう
一つの意味は、それが何に使われるかではなく、なぜささげるのかに注目することで
す。
 10節からもう一つのささげ物がでてきます。それは祭壇奉献のためのささげ物と
されています。具体的にどのような儀式だったのかはわかりませんが、たとえば犠牲
の動物をささげるための祭壇が作られ、最初に使う前に油を注いで聖別する、つまり
これは神様の物であると宣言するわけです。その後に今度は民の代表者たちがささげ
物を携えてやって来る。その様子が12節から延々と続きます。これは何故かといい
ますと、こういったことではないかと思います。
 祭壇の作り方については出エジプト記に書かれています。それは人間の手によって、
材料を使って作られた、いわば人間のものです。それに油を注いで、神様のものとす
る。すると今度は、それは神様のものですから、人間はそれに近づいてはいけないこ
とになります。聖い神様のものに汚れた人間は近づけない。でも、それでは神の民と
して進んでいけない。そこで、どうしたらよいかというと、自分も、自分自身をささ
げて神様のものとしていただく。そうすれば神様のもとに行くことができる。ただ、
当時の人にとってささげるとは火で焼いてしまうことなので、まさか自分を火の上に
乗せる訳にはいかないので、その代わりとして動物をささげたのです。もちろん、そ
こには罪の悔い改めと許し、また感謝の意味もあったでしょうし、ささげ物の一部は
神様の働きのために使われたでしょう。でも、ささげ物の大切な意味の一つはささげ
ている人が自分自身をささげることです。献金をするときにも同じことがいえるので
す。献金では、お金をささげるとき、実は自分自身をささげる意味でそうするのです。
 クリスチャンとなるとは、キリストのものとされることです。いえ、人間は元々神
様によって作られた、神様のものなのです。その人間が神様の前に進み出るとき、も
う一度自分は神様の物であることを告白する。そういった意味が献金には込められて
いるのだと思います。そしてここにこそ礼拝の中心があるのです。自分を神様の物と
しないときに、人間は神様を自分のものとしてしまいます。いくらかのお金を渡して、
自分の願い事を叶えさせる。それがお賽銭ではないでしょうか。でもそれはまことの
礼拝ではなく、逆に神様を自分の召使いにすることです。クリスチャンの礼拝は、ま
ず自分が神様のものであることを確認してへりくだることです。それが神様を神様と
する礼拝です。
 もう一度、民数記に戻りましょう。12節から17節。ここにささげ物のリストが
載せられています。これだけでも退屈なのに、18節からはカタカナの名前が変わる
だけで、そっくりそのまま同じことが書かれています。12部族のリーダーが12日
間にわたって、全く同じ物をささげます。私たちだったら、二人目からは以下同文、
として簡単にしたいところです。でも、神様の前では一人一人が大切です。ほかの人
がしているから自分も、ではなくて、まず自分が神様の前に進み出て、献身する。そ
れが神様の求めておられる礼拝です。そして、それは週に一度の礼拝の時だけでなく、
日々、神様のものとして生きる生き方の現れです。自分は自分のものとして生きると
き、私たちは様々な問題を引き起こします。自分の利益を求めるために他者を犠牲に
します。自分の栄誉を求めるために人を見下げようとします。それがトラブルの原因
です。神様を神様とし、自分を神様にささげる、そのとき本当に豊かな人生を送るこ
とができるのです。
 少しお話が長くなってしまいましたので、次に移りたいと思います。自分をささげ
た次に何をするか、それは奉仕です。礼拝は奉仕でもあります。そのことを次の8章
でみたいと思います。

2. 奉仕としての礼拝 (8章)
 8章の5節からはレビ人について書かれています。レビ人は神様への奉仕をするた
めにイスラエルの民の中から選び分けられた存在です。そのレビ人を清め、そして神
様にささげるという儀式がここで行われます。もちろん、イスラエル全体が神様のも
のです。しかし、礼拝の奉仕のためには秩序が必要です。みんなが自分の好きなやり
方で礼拝を始めたら、大混乱になるでしょう。ですから、レビ人が神様の命令に従っ
て働き、礼拝を正しくできるようにされたのです。レビ人の仕事というのは、荷物を
運ぶことも含めて、なかなかハードな働きだったようです。25歳から50歳という、
力も知恵ももっとも充実した年齢のレビ人だけが奉仕をするようにと8章の終わりに
は書かれています。それでも最初の5年間は見習いとして訓練を受けたようです。こ
うして大切な礼拝の働きをするためにレビ人が選ばれました。でも、本当は礼拝の奉
仕は一部の人のものではないのです。8章では、レビ人がイスラエルの初子として、
いわば代表として選ばれていることが、前にも書かれていることですが再び確認され
ています。あくまで代表であって、本当はイスラエル全員が神様のために働くのです。
 今、こうして牧師が説教をしているわけですが、もしみんなが自分の言いたいこと
を話し始めたら、神の御言葉に聞くことができなくなります。そこで、代表して説教
者が語っていますが、説教者自身もまず神様の言葉を聞いて語ることを教えていただ
かなければなりません。ですから一部の人だけが説教するのではなく、牧師も含めて
全員が説教に聞くのです。
 奉仕というのは全員のものです。奉仕当番表に載せられている人だけが奉仕者なの
ではなく、礼拝している全員が奉仕者です。英語では礼拝のことをサービスとも言い
ます。礼拝自身が奉仕なのです。座って御言葉に聞くことも大切な奉仕です。レビ人
が身を清めて奉仕に当たったように、また奏楽者や説教者が準備をして来るように、
礼拝する人全員が自分を整えて礼拝に望むことが大切です。神様の言葉を受け入れや
すいように心を整える。礼拝の前のシングスピレーションは、そのための大切な時で
す。
 礼拝の最初には招きの言葉が述べられます。説教者が選ばれて語っているように、
礼拝する人は誰でも神様から選ばれ、ここに招かれて、神の言葉を聞くのです。賛美
すること、祈ること、すべてが礼拝の奉仕です。そのような積極的な姿勢で礼拝に臨
むならば、どれほど充実した、また豊かな礼拝を味わうことができるでしょうか。ま
た、一週間、仕事をするときにも家事をするときにも、その場所に神様があなたを選
んで送られていることを覚え、神様への奉仕として何事でもする事ができるなら、そ
れによって神様の栄光を表すことができる。それがキリストに従う物の生き方です。
毎日が奉仕であり礼拝なのです。
 ただ、あまり気を張りつめていますと疲れてしまいます。3つ目のこととして、礼
拝は神様の働きであることを見ていきたいと思います。

3. 神の御業としての礼拝 (9章1〜14節)
 この9章の前半では、過越の祭りのことが書かれています。この祭りがどのような
もので、どのようにそれを行わなければならないかという規定は出エジプト記とレビ
記に書かれています。ここでは、その規定に付け加える補足がでています。それは、
もしやむを得ない事情で過越の祭りを行うことができない人が民の中にいるときにど
うするかということです。その場合は1ヶ月遅れででもかならず過越の祭りを行うよ
うにとのことでした。すべての民が必ず過越の祭りを行うように、というのがここで
言われていることです。
 今、教会は過越の祭りは行いませんがそれに代わるべきものとして、聖餐式を行っ
ています。CSのご奉仕があって聖餐式に出席できない人は礼拝の後で式を行います。
教会によっては、病気などのやむを得ない事情で聖餐を受けられない人のために、持
ち運びようの聖餐セットがあって、牧師が病院などに出向いていって式を行うことも
あるそうです。どうしてそれほど聖餐や過越が大切なのでしょう。それは、この聖餐
と過越の中に礼拝の大切な要素が含まれているからです。それは神様の救いの業を記
念することです。
 神様が贖いをしてくださったからこそ、礼拝ができるのです。私たちが自分をささ
げるより前に神様は一人子をささげてくださいました。私たちが奉仕をする以前に神
様が働いてくださったのです。どんなに人間が自分をきよめようをしても、また一生
懸命に奉仕をしても、それで礼拝ができるのではありません。その前に神様の御業が
あったからこそ、きよくない私が、また奉仕者としてはまだ足らない自分が、礼拝を
する特権をいただくことができるのです。礼拝は、人間の業ではなくて神の御業なの
です。私たちは神様のお働きに加えていただいているのです。
 それはに日曜日の朝だけではありません。毎日が、神様の働きなのです。伝道も証
も神様の業です。私があの人に伝えなければ、ではなく、神様がその人に語っていて
くださる、そのごく一部をお手伝いさせていただいているのです。それを忘れると、
相手に信じてもらえないことで気落ちしてしまいます。自分の言葉だけでなく、神様
はあらゆることを用いて相手の人に語ってくださるのです。仕事も学びも、神様がこ
の世において御心を成し遂げようとしておられる、その一部として私にできることを
させていただいている。どんなことでも神様の御旨に従ってするのです。祈りですら
も神様の業です。すでに神様はすべてをご存じで、すでにその問題を解決し始めてお
られる。でも、私たちが祈ることによってその働きに参加できるように、そして聖霊
を送ってくださり、祈る言葉を教えてくださるのです。

まとめ.
 礼拝は神様の業です。そのことを思い出させるのが過越であり聖餐なのです。イエ
スキリストにより始められた救いの業に私たちも加わるように招かれているのです。
それに対する応答が献身であり奉仕なのです。奉仕も献身も私たちのしなければなら
ないつとめではなく、すでに神様がして下さったことを受け入れることから始まるの
です。今日の礼拝を通して神様はあなたを招いておられます。イエス様を信じ救いを
受け入れるように、また救われた人が自分をささげるように、そして奉仕者として生
きるように、神様は招いていて下さるのです。その言葉に応答していきましょう。