2000年5月14日「聖なる神の民」 民数記4〜6章

序.先週からこの民数記を学び始めました。その前は黙示録を開いていた
のですが、その時よく「黙示録は難しい」とメッセージの中で言っていましたら、
家内から「どこを開いても難しいと言っている」と言われてしまいました。確か
にある意味では聖書のどの書も違った難しさがあります。分かりやすそうな
処もその意味を考えると実に深い場合があります。この民数記は、難しいの
ではなく、分かり難い。分かり難いといいますのは、書いてあることは比較的
単純なのですが、現代に生きる私たちには馴染みがないために、理解しが
たい、ということだと思います。でも少しでも分かりやすくお話できればと願っ
ています。
 さて、今日のメッセージのテーマは「聖さ、聖い」ということです。日本語で
は聖書の聖の字です。この言葉は聖書の中ではとても重要な言葉ですが、
そこにはさまざまな意味が含まれています。たとえば、聖書の中で「聖さ」と
は倫理的な意味を含んでいます。清く正しい生き方です。その反対語は罪と
いうことに関係します。また、旧約聖書の中では、宗教的、特に儀式的な意
味での「聖さ」が出てきます。この場合は反対語は「汚れ」ということができま
す。この意味での「聖さ」と「汚れ」というのは、私たちの生活にはちょっと馴
染みのないものですが、実はとても大切なことです。それから、聖書の中で
「聖さ」は神様ご自身の特徴でもあります。神様が聖いお方なので、神様に
属するものや人も聖いとされます。聖書が聖いのは神の言葉だからです。こ
の聖い神様を信じ従う人々、旧約聖書ではイスラエルの民、新約聖書では
教会のことを、聖であるという場合があります。ですから聖書の基準によると
私たちも聖さと無関係なのではないのです。
 聖さについて今日一日で全てを話すことはできません。今朝は、この民数
記の中で聖さについて教えていることを、共に学んでいきたいと思います。
まず、4章を通して「聖なる神への畏れ」、第二に5章を通して「聖さを妨げ
るもの」、そして最後に6章から「聖さを求める民」という順でお話したいと思
います。

1.聖なる神への畏れ (4章)

 先週はこの民数記の1から3章を学びました。そこにはイスラエル民族の
人口調査という、あまり面白くはないことが書かれていました。実はこの4章
は3章の続きでして(あたりまえですね)、どちらの章もレビ族というイスラエ
ルの一部族のことが書かれています。どちらもレビ族の人数の人数と彼ら
の仕事について書かれているのですが、注意して読むと強調しているところ
が違うことが分かります。この4章ではレビ族の仕事、すなわち神への奉仕
の内容がより詳しく書かれています。
 レビ族はイスラエルの中でも特別な一族とされています。それは別に彼ら
がエリートだからではなく、彼らが神様への奉仕だけに専念するように神様
から選ばれたからです。彼らが選ばれたそのいきさつについては今日は触
れません。レビ族のする働きというのは会見の天幕とよばれる、神様を礼拝
するための建物を管理することです。建物と言っても、民数記の中ではイス
ラエルの民は旅の最中でしたから、この天幕も持ち運びのために分解でき
るようになっていました。その天幕を運ぶのがレビ族の役目でした。レビ族
はさらに3つの氏族に分かれており、それぞれケハテ族、ゲルション族、メラ
リ族と呼ばれていました。このカタカナの名前は別に覚えなくてもいいです。
テストには出ませんから。いえ、教会でテストをすることはあまりありません
が。
 さて、このレビ族の中で、ゲルション族とメラリ族はそれぞれ天幕の幕と柱
などを運ぶのですが、ケハテ族はその天幕の中にある祭壇や礼拝に用いる
器具を担当します。その中には契約の箱と呼ばれるものもあります。これは
あの有名な十戒が書かれた石の板が納められており、イスラエルの神様と
の契約の象徴です。この契約の箱が置かれているのは天幕の中でももっと
も神聖な場所、至聖所です。この会見の天幕というのは礼拝の場所なので
すが、ここに神様がおられると人々は考えました。もっとも、神様ご自身は世
界を造られたお方ですから、どんな大きな建物でもその中に収まるようなお
方ではない。でも、目に見えない神様を人々が礼拝するときに、彼らにとっ
てわかりやすいように、この天幕に神様がおられるということにして下さった
のです。ですから、人々はこの会見の天幕を聖い所と考え、聖所と呼びまし
た。その中心の至聖所は最も神聖な所、この契約の箱は最高に聖いものと
されました。そのような神聖な契約の箱を運ぶときにこのケハテ族の人々は
決まりに従って細心の注意をはらったのです。
 15節を見てみましょう。神様は聖いお方で、人間はどんなに我が身をきよ
くしてみても、神様の聖さと比べるならば遙かに汚れた存在なのです。もし
汚れた人間が直接に聖なる神様を見たならばすぐに死んでしまう。契約の
箱やそのほかの器具も神様の聖さゆえに、やはり触れたらば死ななければ
ならないほどに聖いものであるとされました。だから、ケハテ族が運ぶ前に、
唯一触れることを許されていた祭司たちが、あらかじめ聖なるものを布と動
物の皮で覆っておいて、それからケハテ族が入ってきて運んだのです。20
節には、一目見ただけでも死ぬとされました。こういった姿勢こそが、聖なる
もの、そして聖なる神様に対する畏れなのです。この畏れとは、恐怖によっ
てふるえる恐れとは違います。それは神様を敬う心の現れです。
 この民数記4章に書かれているように、人々はこの会見の天幕をとおして
神の聖さとはどういうもので、どのような態度で近づくべきかを、具体的に学
んでいったのです。だから、彼らは神様の本性である聖さを、身をもって知る
ことができたのです。しかし、現代では、聖さということが人々の考えから失
われつつあります。神様に対する畏れも無くなってきました。これは実は大
変な事なのです。
 元々、日本には「神」という概念が弱かったようです。えらい人が死んだら
神になるくらいですから、人間とはかけ離れた聖い神というのはあまり考え
られていませんでした。それが近代化と共にますます弱くなりました。前にも
話したことのある話ですが、明治時代にあるとき強い国々の軍隊で位の高
い軍人たちがあつまり会議をしたそうです。そのうちに自分の軍隊の勇敢さ
の自慢話になりました。ある国の軍人が「私の国の兵隊は、神以外の何者
をも恐れない」、すると日本の軍人が、「我が国の兵隊は神をも恐れない」と
言ったということです。神をも恐れないとは、どんな悪いことでも平気でする、
という事です。それはただ言葉だけの事ではないと思います。聖さということ
を知らない時に、人間は罪に対してもいい加減になります。少しくらい悪いこ
とをしても、見つからなければ平気、あるいは、他の人もしているからかまわ
ない。それがだんだんとエスカレートしていくと、どんなことになるか。最近の
日本の様子をニュースで見ていると、大変な時代に成ってきた気がします。
 この民数記のように神様の聖さに対する畏れがある時に、人々は神様を
心から畏れ敬い、従います。その神様がモーセを通して与えた戒めが十戒
で、その中に父母を敬えという戒めがあります。今日は母の日で、子供たち
は「お母さん、いつもありがとう」と言います。でも、本当は、お母さんが何か
をしてくれたから感謝するだけではいけないと思います。本当はお母さんが
お母さんであるから、愛し敬う。その敬っているお母さんが自分のためにし
てくれていることを感謝し、ますます愛する。それが聖書の教えることです。
しかし、同時に親の方もしっかりしなければならない。尊敬されるにたる存在
であり続けるのは大変です。子供が小さいときは、子供にとって親ははるか
に立派な存在です。でも子供が成長するに連れて、親の欠点も見えてくる。
それでも敬い続けるというのは、難しい戒めかもしれません。子は親の言葉
以上に、背中を見ています。親がどんなときでも毅然とした生き方、正しい生
き方をしていれば、多少の欠点はあっても、子供は親を敬います。もし、親
が、ちょっとくらい悪いことをしてもかまわないと、身をもって示すならば、子
供は「悪いことはしてはいけない」という言葉を、これは建前だけで、本当は
見つからなければかまわないのだと教わるのです。もし神様の聖さを畏れ、
聖い生き方をするならば、子供にもそれが伝わっていくのです。神様との関
係が崩れるならば、人間関係もおかしくなる。それが聖書の教える所です。
 聖なる神様への畏れ、私たちも聖書を通して学ぶ必要があるのです。

2.聖さを妨げるもの (5章)

 さて、イスラエルの民は聖なる天幕を中心として、聖い民にされようとして
いました。しかし、その民の中に聖さと正反対のものがあったら、どうするか。
それを汚れと言います。もし汚れたことがあったら、それをどのように取り除
いたらよいか、それが5章のテーマです。この汚れということには、私たちに
はちょっと受け入れがたい部分もあるのですが、当時はこういうものだったと、
そのまま受け止めながら見ていきたいと思います。汚れをどうするかという
ことで、5章には三つのことが具体的例としてあげられています。
 一つ目は、肉体的な汚れ、特に宗教的に汚れとされる場合です。2節に、
らい病人、漏出を病む者、死体によって汚れた者、というのが出てきます。こ
こで、らい病という言葉が出てきますが、実は聖書の中でらい病というのは
現代でいうところのらい病、すなわちハンセン氏病とは違う皮膚病もすべて
含んでいたようです。というのは、あの時代には医学的な違いはまだよく分
からなかったのでしょう。そこで伝染性と思われる皮膚病はすべてひとまと
めにしてらい病と呼んでいたようです。現在では特効薬が見つかっています
が、当時は不治の病であり、人々が恐れたのは当然の事です。そこでこうい
った人々は民の宿営とそとに出なければなりませんでした。汚れに対処する
第一のやり方はその汚れを取り除くことです。
 私たちからすれば取り除かれてしまう病人がかわいそうでもあるのですが、
他の規定を見ると、その病気が治ったら社会に復帰できるようになっていま
した。やがて新約聖書の時代になりますと、イエス様がらい病人を癒し、そ
の汚れている人をきよめ、それによって、病気の故に神様の祝福から漏れ
る事は無くなったのです。ですから、これは、あくまでキリストが来られるまで
の処置です。でも、この汚れを取り除くと言うことは大切です。もし、私たちの
心の中に、あるいは生活の中にもし汚れたものがあるならば、それを取り除
く必要があるということです。
 第二はある種の罪についてです。6節。主に対する不信の罪とはいったい
何でしょう。この罪はあとで損害賠償をするように定められています。実は、
5章に出てくる三つの事は、どれももっと詳しい形で、民数記の前にあるレビ
記という書物の中で取り上げられています。そのレビ記を調べて見ますと、
どうやらこの罪は、いわゆる横領の罪だったようです。ある場合には神様に
献げるべきものを自分のものにすることにも使われますが、多くは人から与
ったものを、自分のものにするために人を騙したりすることをさして使われま
した。そのような罪は人に対する罪であると同時に神様に対する罪であると
されました。聖い生き方をために召されている民の中にこのような罪がある
ならば、聖さは名ばかりになってしまいます。最初は隠れて行われていたこ
の罪が、やがて表に出るようになった時、7節では、その罪を告白して償い
なさい、と教えられています。
 汚れ、あるいは罪に対する二番目の対処は、悔い改めということです。悔
い改めとは、単に罪をお詫びすることではなく、神様に自分の罪を告白し、
必要があれば人に対してもその罪を償うものです。はっきりとした悔い改め
がないときに罪の問題は曖昧にされ、やがて同じ罪の中にかえって行きま
す。
 三つ目の例は、夫婦関係における問題です。夫婦関係はあらゆる人間関
係の根本だと聖書は教えます。夫婦関係がしっかりしているときに親子関係
は揺らぐことはあっても崩れません。家族関係がしっかりしていれば社会で
の人間関係も良くなっていきます。しかし、夫婦関係に日々が入ったら、大
変です。この5章では、ひとつの例として、もし妻が夫に対して不信の罪を犯
した場合にどうするかがあげられています。旧約聖書では、夫婦以外での
男女の肉体関係は厳しく禁じられています。もし、姦淫しているところが見つ
かった場合は死刑にされます。もちろん男性が力ずくで女性と関係を持った
場合は男性だけが罪に問われます。この5章に出てくるのは、もし妻が夫以
外の男性と関係があって、証拠はないが夫がそれを疑っている、という複雑
な場合です。もしかしたら、そのような関係は無いにもかかわらず、夫がかっ
てに嫉んでいるのかもしれません。誰も本当のことは知ることができません。
そのような場合、神に仕える祭司のところに行って、ある儀式をします。14
〜28節。この儀式自体は、なんとなく迷信めいたものなのですが、大切なこ
とは、神様のもとの問題を持ってくることです。
 どんなに罪を取り除こうとしても、自分の力で行うには限界があります。人
間は、その心の奥底に罪がありますから、滝にうたれた位で汚れはとれない
のです。努力して修行しても限りがあります。自分で基準を下げて、多少の
罪は目をつぶっているならば別ですが、聖書の基準に照らしあわせるなら
ば、罪を取り除くというのは至難な事です。心の汚れをどうしたらいいか、そ
れは神様のもとに進み出ることです。本当は汚れているものは神様の前に
行けないのですが、罪を本当に解決できるのは実は神様だけです。時々ク
リスチャンの中で、自分の罪に気がついて、自分はクリスチャンとしてふさわ
しくない、と離れてしまう人がいます。それでは何の解決にもなりません。も
し、気がついたら、自分から神様のもとに立ち返るのです。汚れに対する第
三の、そして最も根本的な対処は、聖なる神様のもとにすすみです事です。
 この三つの具体例は一見何の関係も無いような感じがしますが、聖さに反
する汚れを取り除くという点で共通していることがわかります。それだけでは
なく、人間の罪深さについても学べます。最初の肉体的、宗教的な汚れは、
いわば見て分かる汚れです。それに対して二番目は言い出さなければ分か
らないかもしれない、隠れている汚れです。しかし、隠されているものは必ず
やがて明らかにされる、というのも聖書の教える真理です。そして三番目は、
奥深くに隠されて神様以外の誰も分からない汚れです。人間の罪はそこま
で深いのです。時には人だけでなく自分さえも欺くことがあります。適当な理
由を付けて、これは間違っていないと自分に言い聞かせるのです。人間の
心は奥深くまで罪によって汚れているのです。
 そんな罪を人間は自分では解決できません。ただキリストの十字架による
救いだけが解決の道です。もちろん、汚れを取り除こうとする姿勢は大切で
す。でも、表面だけ取り除こうとするときに、間違いを犯さなければそれでよ
いという、律法主義、形式主義に成りがちです。もっと大切なのは、聖さを追
い求める事です。

3.聖さを求める民 (6章)

さて、それでは最後のポイントに移りましょう。6章には「ナジル人の規定」が
出てきます。いろいろな部族の名前が出て来るのですが、このナジル人とい
うのはちょっと違います。イスラエルは国民の名です。レビ人はその中の一
部族、ケハテは部族の中の氏族の名前です。ところがナジル人はそのよう
な部族の名前ではなく、誰でもなることができるものです。何か願い事があ
ってか、よく分かりませんが、神様に特別な誓いをたて、その誓いを守るた
め、自分の身を神様に一定期間だけ捧げて、聖い生活をする。それがナジ
ル人でした。その規定は、第一にブドウから作ったもの、特に酒を口にしな
い、第二に髪の毛に刃物を当てない、第三に死体に近づかない、でした。
 5章までのところを見ますと、聖さということに関して、一種のレベルの違い
があることに気がつきます。会見の天幕自体が聖いのですが、その中でも
至聖所がもっとも聖い。そして契約の箱が最も聖い。それに応じて人間にも
違いが生まれます。ゲルション族やメラリ族は天幕の布や記を取り扱うこと
ができたが、天幕の中身についてはケハテ族だけ、そしてそれらに直接に
触れるのは祭司の一族だけに限られていた。聖さに関して階層社会(ヒエラ
ルキー)ができているようです。するとレビ人以外の「一般」の人々は、自分
たちは聖くないというように感じるかもしれません。しかし、本当はイスラエル
の民全体が神の民として聖いのであり、レビ人たちはあくまで礼拝の奉仕の
ために選び分けられているのです。そこで、誰でもレビ人のような聖さを体
験できる道がありました。それがナジル人です。
 ナジル人になると守らなければならない規定は大変に厳格なものです。自
分の身を聖く保つ、ということについて、中には祭司やその中でも最も位の
高い大祭司に求められるような厳しさが要求されています。特殊なケースを
除いてこれらの規定は一定期間だけのものですが、それでもその期間は誰
でも、部族の違いや貧富の差を超えて、聖なる生活を送ることができるので
す。聖さは生まれつき決まっているものではなく、本当は求めるならば与え
られるものなのです。しかし、イスラエル民族の場合は礼拝の秩序を守るた
めにレビ族を特別に聖なるものとしました。でも民全体が聖なるものとなるこ
とが理想なのです。
 クリスチャンにとっても聖さというのは一部の人だけのことではありません。
本当は一人一人が聖い存在で無ければならない。クリスチャンとはキリスト
にい従うものであり、キリストのモノとされた存在です。罪のため滅びなけれ
ば成らなかったところをキリストの十字架という値を払って買い取られたので
す。ですからキリストのものとして聖なる者とされたのです。ですからナジル
人のように自らを聖くすることが求められるのです。聖くされたのだからます
ます聖さを追い求める、それがクリスチャンの生き方です。
 時には聖さを妨げる者を取り除く必要もあります。それ以上に神様のもの
とされていることを自覚することが大切です。あらゆる機会を通して聖さを求
めるのです。生活の隅々まで聖さが実現するように願い求めていく。それが
クリスチャンの目標です。そして、そのように聖さが生活の中に確立して行っ
たとき、私たちは自分の身を通してキリストの素晴らしさを表す者となるので
す。
 聖さを求めて行かないと、人間は簡単に聖さとは反対の方向に向かってい
ってしまいます。普通、聖い存在と思われている牧師や神父といった人々で
さえ、いつの間にか俗的なものに染まってしまいがちです。聖い者とされる
ために必要なことは、いつも聖さを追い求めることです。それは倫理的な聖
さだけではありません。そもそも聖さとは神様のものです。ですから、聖くな
るとは自分が神様の者とされていくことです。自分で自分を支配する生き方
から神様に導かれ神様の御心に従う生き方に変えられていく、それがクリス
チャンの求めるところです。

まとめ.今日はこの礼拝のあとすぐに洗礼式を行います。今回は天本仮名
子さんが洗礼を受けます。洗礼を受けたらすぐに生活が聖いものに変わる、
という簡単なことではないと思います。逆に、最初は自分の汚れや罪に気づ
かされる事も多いでしょう。でも、それでもつねに聖い生き方を求めていって
欲しいと思います。これは仮名子さんだけでなく、イエス・キリストを信じて救
われた全ての人の目標でもあります。神様が私たちを救いに入れて下さっ
たのは、私たちが自分勝手な生き方から解放されて、神様の栄光を顕わす
聖い生き方をするためです。日々、聖さを追い求めて生きましょう。