2001年5月13日「キリストによる平和」(エペソ書2:11−22)
序.今日は母の日です。といっても今朝の説教はそのことについてではありません。母の日に比べると、父の日は何となくぱっとしないですね。これは家庭における父親と母親の存在の違いから来るのだと思います。もちろん、お父さんは大切ですよ。一家の主人、大黒柱、まあい色々な言葉で父親の重要性を述べることができるでしょう。でも、実際に家庭の動きの中心になるのは、やはりお母さんですね。それが証拠に、我が家でもそうですが、お父さんが寝込んでも大して困らない。でもお母さんが寝込むと、すぐに影響が出てくる。まず、食卓が変わります。お父さんのレパートリーはたかが知れてます。それから、何がどこにあるか分からない。子供たちはそういった事で母親の重さに気がつかされる訳です。子供の心にとって、母親は家庭の要なのです。今日は母の日のことは話さないと言いながら随分話してます。
教会にとっての要は何でしょう。(随分回り道をしましたが、ようやく本題に近づいて来ました。) 牧師? 確かに牧師の存在は重要でしょう。牧師夫人? もしかしたら牧師よりも...。言わないで置きましょう。でも、本当の中心は違います。イエス・キリストです。イエス様がいなかったら教会は只の人間の集まりにすぎません。キリストを忘れた時、人間関係にひびが入り、やがてバラバラになってしまいます。キリストから離れた世界、それは争いの世界です。その世界にキリストは平和をもたらしてくださる。今朝は、このキリストによる平和、ということをお話ししたいと思います。
1.敵意による隔て(11−12、15節)
さて、この手紙を書いたパウロという人は「異邦人の使徒」として知られています。彼自身はユダヤ人ですが異邦人伝道のために神様から選ばれた器です。その彼にとって、そして初代の教会にとって大変大きな問題だったのは、ユダヤ人と異邦人の関係でした。キリストを信じている者たちの中にあっても両者の関係が問題になることがたびたびありましたし、異邦人クリスチャンとクリスチャンではないユダヤ人との関係はもっと難しかった。そして、一般的にユダヤ人とそれ以外の人々との間には常に溝があった。それは歴史の中に表されています。でも、いったい何故、そんな溝が存在するのでしょう。
12節を見ましょう。ここにはこの対立の原因がいくつか述べられています。「そのころのあなた方は、キリストから離れ」というのはエペソ教会の異邦人クリスチャンがまだキリストを信じる前のことです。「イスラエルの国から除外され」とは国籍と言うことから言えば外国人だと言うことです。でもこれは仕方がない、生まれた国が違う、それだけじゃないか。ここで言っているのは単なる出生地の違いでは無いのです。イスラエルの国とは、聖書、当時は旧約聖書ですが、そこに書かれている救いはイスラエルに与えられる。ですからその救いから除外されているということです。そして「約束の契約」とはアブラハム契約の事でしょう。神様が自ら誓って約束された、それはアブラハムの子孫を救うと言うことです。その契約の印となったのが割礼です。11節で異邦人を「無割礼の人々」と呼んでいるのはそのことです。
問題は救いに関わることですから、クリスチャンの間でもユダヤ人対異邦人の問題は小さいことでは無い訳です。ユダヤ人から見れば、本当は救いは自分たちだけのものであり、異邦人には、例外的に、おこぼれとして与えられる事はあっても、異邦人の救いなんてあり得ないこと。言葉の定義として、救いが無い、割礼が無いのが異邦人ですから、その異邦人の救い、なんて矛盾です。夏の雪、なんて事です。本来あり得ないことです。もっとも、シカゴだったらあっても驚かないかもしれませんが。
この救いにおけるユダヤ人と異邦人の溝をさらに深めていたのが15節にある律法です。律法の様々な規定や命令がユダヤ人と異邦人の関係をさらに悪くしていました。祭儀的にユダヤ人は異邦人に触れない、汚れるからです。そんな態度を表しているユダヤ人を、異邦人の方も拒絶しました。この関係を象徴するものがありました。それは14節で「隔ての壁」と呼ばれているものです。エルサレム神殿の中庭に、ここまでは異邦人は入ってよいが、この柵から中はユダヤ人だけ、という仕切りがあったのです。
この敵対関係の本当の原因は、もちろんその壁ではありません。それは両者の関係を象徴しているにすぎません。確かに、律法の規定は異邦人を救いから遠ざけていたかもしれない。でもそれがすべての争いの原因ではありません。国の違い、民族の違いは、今でも戦争の原因となります。では同じ国民なら上手くつきあえるか。言葉が違う、考えが違う、主義が違う、利害が違う、どんな違いでも争いの原因となり得るのです。何故か。それは人間自身の中に理由がある。それは敵意です。他者を敵とする心です。この敵意はどこから来るのでしょう。
12節の最後に「望みもなく、神もない」とあります。この「神が無い」とは、真の神様をまだ知らない、あるいは神様に背を向けている状態です。それが聖書で言う罪という状態です。神様から離れているとき、人間は何を神の代わりにするか。それは偶像ではありません。本当は自分を神とします。自分の人生は自分の思い通りにしたい、それが自分を神とする生き方です。そして自分が神であるとき、自分と違う者はすべて自分の欲することを妨げる、ですから敵意が無くならないのです。罪ある人間、神から離れた人間は、争わないではいられない、敵意を消すことができないのです。どうしたらこの敵意から解放されるのでしょうか、どうしたら私たちは本当の平和を築くことができるでしょう。
2.十字架による和解(13−18節)
14節に「キリストこそ私たちの平和」とあります。キリストによってのみユダヤ人と異邦人の間に平和が可能となるからです。でもどのようにそれが可能なのでしょう。
15節で「敵意を廃棄された」「敵意とは律法」と言っています。ここでは律法そのものがキリストによって廃棄されたということを言っているのではありません。といいますのは、イエス様ご自身が、「律法を廃棄するために来たのではない」「律法は天地が崩れても廃れない」と述べているからです。正確に言うと、「さまざまの規定から成り立っている戒めの律法」を「無力化した」というのが良いと思うのです。13節に「キリストの血によって近い者とされた」と書かれていますね。キリストの血、すなわち十字架の贖いによって罪が赦されます。それまでは、異邦人が神に近づこうとすると律法によって罰せられる、ところがその罰をキリストが背負ってくださった。だからいくら近づいても罰せられない。その意味で律法が無力化されたのです。同じ事は実はユダヤ人にも当てはまります。確かに彼らにはアブラハムの契約、モーセの契約があった。しかし彼らは神に背いたため、契約違反をし、すでに神に近づけないはずです。しかし、そのユダヤ人の罪のためにもキリストは十字架にかかられた。ですからユダヤ人もキリストによって神に近づくことが許されたのです。
キリストから離れたらだめです。でもキリストの中に、キリストの体の中にいるときに、ユダヤ人も異邦人も、一つの体なのです。いったいそんなことが可能でしょうか。この一体性をもたらすのが聖霊です。17節で「キリストは来られて」とあるのは十字架の後復活されたことを指すのでは無いと思います。この言葉の後で「遠くにいたあなた方」つまり異邦人に「平和を宣べ」、「近くにいた」ユダヤ人にも「平和を宣べられた」と書かれています。イエス様自身が異邦人伝道をしたのではありません。むしろ、ペンテコステの日に聖霊が下られました。このお方はキリストの霊とも呼ばれるお方で、聖霊がおられることはキリストがおられることでもあります。ですから弟子たちが福音を宣べ伝えたとき、弟子たちと共にいた聖霊において、キリストも共におられ、福音を宣べ伝えたのです。異邦人がキリストを信じ救われたとき、彼らにも聖霊が下り、すなわちキリストのものとされたのです。聖霊が下ってくださったことで、人間の力ではどうしても一致できなかったユダヤ人と異邦人がキリストの体として一つにされたのです。
そしてキリストによる平和は、人間同士の平和以上に神との平和です。16節をよく読むと、両者、つまりユダヤ人と異邦人を「神と和解させる」とあります。神との和解なしに罪の問題の解決はあり得ません。敵意を生み出していた人間の罪、自分を神とし、神様に敵対していた人間を赦し、神と和解させてくださった。そこから人間同士の和解が始まるのです。
罪の赦しが平和の始まりなのです。それはこういう事です。人間には違いがあります。それは事実です。問題は、その違いを受け入れられないことです。自分の考えと違う事をした人を赦せないのです。そんな強情な私が、神様から自分の罪を赦していただいた。それが分かったとき、他の人の小さな違いを赦せるように変えられていくのです。この和解はクリスチャン同士の場合はさらに力強いものとなります。それは一つの体とされたからであり、また共に神様との和解をいただいているからです。神様に罪を赦していただき、和解していただいた。その神様の前に立ったとき、赦された者同士が争っていたら、神様との関係までおかしくなってしまうじゃありませんか。キリストの体に入れて頂いたことを考えたら争ってはいられないのです。
3.新しい共同体(19−22節)
さて、本題に入ります。え、これから本題じゃあ、今日の説教は長いぞ、なんて心配しなくても大丈夫です。本題はこれから何週間かにわたることですので、今日はその触りだけです。本題とは、教会、ということです。エペソ書のテーマは教会だと言いました。でもここまでは主にキリストの救いがテーマでした。というのは救いがしっかりしていなければ教会は揺らぐからです。2章の前半では、罪と死からの救いということが語られています。後半では、救いのもう一つの側面、和解としての救いが語られました。そして、この和解が教会を生むのです。ユダヤ人と異邦人に別れて争っていたら教会は壊れてしまいます。だから、どうしてもパウロは和解について語っておきたかった訳です。
救われた者は、罪が赦され、新しい命を頂き、キリストの平和を受けました。そのような者たちの集まりが教会です。ですから教会は人間が普通に集まった集団とは違う部分があります。それが「新しい共同体」ということです。教会とは何か。19節から三つのたとえを使って説明しています。
私たちは神の家族です。それは教会がアットホームな雰囲気を持っている、それも素晴らしい事ですが、それ以上のことです。国が違っても、立場が違っても、家族は家族です。神様を「天のお父様」と呼んで、お互いを兄弟姉妹と呼ぶのです。教会は不思議なところです。昨日も二人の兄弟が今日のお昼の準備をしてくれました。普通だったら一緒に楽しく働くことも、知り合う接点もなかったかもしれない、そんな人たちが、家族とされるのです。
20節では、教会を建物にたとえています。ただの建物ではありません。キリストを土台として、しかも、建物全体が成長するとあります。私たちがキリストを中心としてしっかりと組み合わさるなら、必ず成長するのです。
そして、教会は神の住まいです。一人一人のうちに御霊が住んでくださるだけでも素晴らしいのですが、それが合わさったとき、どれほど神様の栄光が表されるでしょうか。
ここに書かれていることはどれもたくさんお話ししたいことばかりです。でも、今日はこれだけ。と言いますのは、これらのことは3章以降でもっと詳しく触れるからです。ですからまた後のお楽しみにしておきましょう。
まとめ. 私たちがキリストの救いに与り、キリストの体である教会に加えられたことは、本当に素晴らしいことなのです。それをたっぷり味わうために必要なのは、まず十字架による救いを確かなものにすることです。まだ救いについてよく知らない人でも、教会の交わりを楽しむことができます。もし、救いを自分のものとし、キリストの平和を人生の土台として兄弟姉妹と共に歩むなら、もっともっと教会の交わりを味わうことができるのです。あなたのために十字架で救いの道を備えてくださったイエスキリストを信じ、どんな人間関係の重荷もイエス様のところに持ってくるなら、あなたもキリストの平和を生きることができるのです。