5月7日 「旅の備え」 民数記1〜3章
序.人生を旅に例える事があります。観光旅行ではなく険しい道のりをゆく旅です。
時にはオアシスのように楽しみや喜びもありますが、人生の多くは苦しみや涙に満ち
た、荒野のような道のりです。クリスチャンの人生も、やはり例外ではありません。
クリスチャンになったら楽しい事、良いことだらけ人生になるとは聖書は言っていま
せん。むしろ、困難や問題に満ちた人生かもしれません。でも、そのような苦しみの
中でこそ人は神様の恵みを知ることが多いのです。
今日から学び始めるこの民数記という書のテーマを、ある人は「荒野を旅する神の
民」だと言いました。クリスチャンの人生は、まさに荒野の旅のようなものかもしれ
ません。そのような荒野の旅をどのように歩んでいったら良いのでしょうか。また、
困難の中で神様はどのように私たちに語りかけ、恵みを与えて下さるか。そういった
ことを、この民数記を通して学んでいきたいと思います。
民数記の旅は、エジプトの地をでて、約束の地カナンに至る旅です。クリスチャン
の人生は罪の国を出て、天国に至る旅です。先週まではその天国について学びました。
私たちのゴールは天国です。でもそこに至るまでの道のりは険しい荒野の旅です。ど
のように歩んだらよいのでしょうか。
今日は、民数記の1章から3章をとうして、人生の旅のためにどのような備えが大
切かを学びたいと思います。
1 整理による旅の備え
2 聖別による備え
3 贖いによる備え
1.整理による備え
この民数記という書物は、もともとはヘブル語という言葉で書かれたもので、その
ヘブル語では「荒野にて」というタイトルが付けられています。ところが日本語では
民数記、英語でも「Numbers」という題名がつけられています。それはこの書
の最初と最後の部分で人口調査をして、民の人数を数えることから、そのような名前
になったわけです。なんとか部族には何人の人がいる、なんていうのは読んでいる人
には退屈きわまる話です。しかし、なぜ人数を数えたかというのは、それはこれから
の旅の備えをするためでした。
旅行をするときに、私たちは荷物を準備するのですが、旅の前の晩は、その荷物の
整理をしなければなりません。余分なものを持っていくと荷物が重くなります。また
必要なものが無いと困ってしまいます。着替えの服が必要なだけあるか、その数を数
えます。「荒野の旅」もまず、自らを点検しておかなければなりません。それが、こ
の人口調査の目的です。
人口調査によって数えられた大人の男性の数は約60万人でした。女性や子供も含
めると、おそらく200万人くらいの人がいたと思われます。それだけの人数が移動
するのは大変なことです。各自が勝手気ままに歩いたら、大混乱になってしまいます。
この人口調査によって数えられた民は、部族ごとに隊列の組み方が決められます。ま
たそれぞれの部族のリーダーが決められます。そしてそのリーダーの合図に従って、
秩序正しく進んでいくのです。ですから、この退屈な人口調査も必要なことなのです。
もう一つの理由は、戦いの備えをするためです。この荒野の旅では、敵もおります。
その敵に立ち向かうためにこちらの人数を把握しておく必要があるのです。
私たちがクリスチャンとして人生を歩む上でも、整理すべきことがあると思います。
余分な荷物を持っていると旅行がしにくくなります。必要なものが無いと困ってしま
います。ある人はクリスチャンになるとき、あるいはなってから、もし神様の御心に
そぐわないものが生活の中にあったなら、それを手放す必要があるかもしれません。
生活習慣のなかに神様に喜ばれないことがあるならば、それを止める。逆に、クリス
チャンとして生きるために必要不可欠なことを身につけなければなりません。たとえ
ば、聖書を読むこと、祈ること、教会に行くことを生活の中に組み入れます。そういっ
た生活の整理をすると、クリスチャンの人生の旅は、より良いものになり、困難の時
でも揺らぐ事が少なくなります。
私たちの生活には秩序が必要です。それは、なにも何から何までタイムテーブルに
従って生活するということではありません。人生のなかには、同じ事の繰り返しと思
われるようなこともあるかもしれませんし、思っても見なかったことの連続である時
もあります。しかし、どのような時にも中心がしっかりしていればあわてふためくこ
とはありません。クリスチャン生活にとっての中心は礼拝です。
ビッグス神学生が、これまで出エジプト記を通してメッセージを語って下さいまし
た。出エジプトというのは、いわば救いです。罪の奴隷の状態から抜け出て、神を礼
拝するためにシナイ山に行く。それが出エジプト記の前半です。後半は、読んでいて
眠くなる所ですが、その礼拝の場であり、神様のご臨在の象徴ともいえる「会見の天
幕」の建築方法が書かれています。出エジプト記の次のレビ記では、礼拝の方法、当
時は動物の犠牲を献げることが礼拝とされていました。その献げるやり方が書かれて
います。この民数記では、その会見の天幕を中心として隊列が組まれています。
神様を礼拝することが生活の中心として据えられているならば、私たちは正しい道
を進むことができます。旅の備えの内、もっとも大切なのは表面的な、目に見える備
えではありません。それも大切ですが、もっと重要なのは何を中心とするかです。中
心が正しければ、たとえ枝葉は間違いがあっても、やがて中心に従って正しく整えら
れていくからです。礼拝を中心とする生活とは、神様に従う生き方です。その反対は
自分の欲望に従う生き方です。表面的にはクリスチャンのような事をしていても、も
し心の中では自己中心な考えに支配されているならば、間違った道を進んでしまいま
す。いえ、神様を中心としているつもりでも、人間はいつの間にか、自分勝手な生き
方が出てきてしまいます。それを是正し、もう一度神様のふさわしい生き方に整える、
それが礼拝の持っている働きのひとつです。礼拝を、そして神様を中心とする考え方
を身につけることが私たちの人生の旅にとって必要不可欠な事なのです。
2.聖別による備え
さて、1:49で神様はレビ族だけは人口調査をしてはならないと命令されます。
後でレビ族も人数を数えるのですが、それは生後一ヶ月以上の男子、及び三十から五
十歳の男子の数で、他の部族が二十歳以上の男子の数だったのとは違っています。統
計学的には同じやり方で調査しなければならないのですが、神様はあえてレビ族を同
じ方法で数えてはならないと命令されました。この不思議な命令の意味を知るカギと
なるのは「聖別」という事です。聖別というのは、神様のために特別に分けておく、
ということです。私たちの教会では聖別献金ということを行っています。教会によっ
ては呼び名が違うこともありますが、行っていることはだいたい同じです。これは、
収入の一部分は神様のものであるとしてあらかじめ分けておく、ということから聖別
献金と呼ばれます。私たちの人生の旅にもこの聖別ということが大切なのです。それ
は、信仰と従うことに関わってくるからです。
実は、人口調査というのは旧約聖書の中ではネガティブな意味を持っていることが
多い様です。ダビデ王が人口調査を行ったとき、後で彼はそれを悔い改めました。な
ぜ、人口調査はいけないことなのでしょうか。古代世界では人口調査は主に徴税のた
めに行われました。一人でも多くの人々から税金を集めるため、そしてそれによって
王の資産を増やすため。しかし、イスラエルの王はすでに神様から必要なものは、い
え必要よりもさらに豊かに与えられている。それを自分の欲望のためにさらに集めよ
うとするのは、神様に対する不信仰であり、神様から託されている国民を虐げること
です。また、国の力を調べて誇ることもありました。ですから、旧約聖書の中では人
口調査は神様の御心にそぐわないとされることが多くありました。もちろん、民数記
の場合は神様ご自身の命令による調査です。しかし、正確な人数を調べることが目的
ではありません。むしろ荒野の旅への備えが本当の目的です。
イスラエルの国は神様がアブラハムに「あなたの子孫は数え切れないほどに多くな
る」と約束し祝福したことで始まりました。ですからあえて数を調べる必要はないの
です。神様がすべてを支配しておられる。だから統計によって示される国力にではな
く、神様ご自身に信頼することが大切なのです。
私たちの生活でも、ある人はすべてを自分でコントロールしようとします。何でも、
計画通りに運ぼうとします。しかし、実際の人生は予想もしなかったことが起きるの
です。クリスチャンも神様から託されたものを正しく使うために管理する事は大切で
す。しかし、神様に信頼することを忘れてはいけません。神様のために聖別するとい
うのは、別に神様はそれを欲しくておっしゃっているのではありません。反対に、私
たちが献げる事によって神様に信頼することを学ぶことができ、すべてを自分で握り
しめようとする罪から解放される、それをご存じで神様は聖別することを求めておら
れるのです。
これはある意味では消極的な意義ですが、積極的には、もちろん、聖別は神様の御
用のために献げる事です。神様を礼拝することを第一とする、それを表すために、レ
ビ人が選び分けられました。私たちが日曜日を聖とする、つまり聖別するというのは、
私たちの生活の中心は神様であることを表わすことです。神様に従って生きることを
具体的に表すのが聖別ということです。神の民は、その旅において神に従う姿勢を常
に失ってはならない。だから、まずその出発に当たりレビ族が聖別されたのです。
3.贖いによる備え
さて、レビ族の存在にはもう一つの意義があります。それは贖いと言うことと関係
しています。3章12節。これは聖別ということとも関わるのですが、私たちの持っ
ているすべてのものは本当は神様のものです。しかし、神様は私たちにすべてを与え
て下さった。でも、本来は神様のものであることを忘れないために、私たちの持って
いるものの一部をあらかじめ分けて置いて神様にお返しします。イスラエルの場合は、
それは初子でした。彼らの多くは羊を飼っていました。その羊も神様のものです。で
も、羊がいなくなっては生活できませんから、全部を献げる代わりに一番最初に生ま
れた羊は神様に献げる。これには信仰が要ります。たくさん子供が産まれてから最後
の一匹を献げるのならまだしも、まだ多くの羊がいないのにその最初の羊を献げる。
それには、その後で必ず神様は祝福して下さるという信頼が必要です。
羊の場合は祭壇の上で生け贄として捧げるのですが、人間の場合は殺すわけにはい
きません。そこで、その代わりとして羊か何かの動物を捧げることになっています。
イスラエル民族の場合は、レビ族がその役を果たしました。ですから、レビ族が神様
の御用のために捧げられたのは、民族全体の代表であり、また彼らが神様の者である
ことを示すためです。
しかし、それだけではありません。だいたい、この人口調査の数は概数でして、正
確な数ではありません。レビ族の人数は2万2千人だと39節にあるのですが、レビ
族の各氏族の合計を計算すると2万2千3百人となります。それにたいし、イスラエ
ルの初子の数は22273人と、これは端数まで数えているようです。そしてレビ族
の人数との差である273人分のお金を神様に捧げます。ここいらへんの数字につい
てはいろいろな説があるのですが、あまり立ち入った話はしないことにします。ただ、
ここではイスラエルすべての初子の贖いということが強調されています。
イスラエルがエジプトを出るときに、エジプトの初子がすべて死ぬ、という災いが
下りました。もちろん、エジプト人でも神様に従おうとする者には助かる道が用意さ
れていたのですが、その救いを彼らは拒みました。この災いはエジプト人がイスラエ
ル人の子供を殺した事に対する裁きでもあるのですが、実はイスラエル人も罪人とし
て同じ災いを受けなければならなかった。しかし、神様は身代わりとして子羊を殺し
その血を家の入り口に塗ることでその災いを免れた訳です。それが贖いと言うことす。
神様はこれから荒野の旅を始めるにあたり、もう一度彼らが神様の憐れみにより、ま
た身代わりの死によって救われたものであることを確認させたのです。
クリスチャンの人生も荒野の旅のようかもしれません。もし、わたしたちが、イエ
スキリストの身代わりにより罪の罰から救って頂いたことを忘れてしまうならば、感
謝や喜びを失い、つらい旅路を歩むことができなくなるかもしれません。ですから、
まず救われたこと、贖われたことを確認することが必要なのです。そして、キリスト
による救いの故に、旅のゴールである天国の約束が与えられていることを覚えること
が大切です。
まとめ.クリスチャンの旅は、ある人はこれから始める所であり、また何年も歩んで
きた方もいるでしょう。でも、節目ごとに姿勢を正されて、旅を進めていくのは良い
ことだと思います。いつも、十字架による救いを覚え、また導いて下さる神様に信頼
して歩んでいきましょう。